第5話:工房の印と匂い
工房で印と匂いを照合。
欠け位置が一致し、配合比も揃う。
帳簿の抜け時刻は迎撃時刻と重なり、渡し導線は子から大人へ。
候補は三人。明晩の誤送で、反応を見る。
川下の風は、少し冷たい。油の匂いが薄れ、蝋の匂いが残る。今日は照合だ。印と匂いを、揃える。
庇の下は静かだ。台車の刻みは昨夜のまま残っている。歯欠けの癖が同じ間隔で続く。刻みの端に赤い点が落ちていた。指で触れる。硬い。蝋だ。
「番頭は」
「表。殿下に付き添っています」
副隊長が答える。表導線は人が多い。裏は薄い。今のうちに見る。
印刷台へ近づく。板に薄い輪がある。印章の縁で擦れた跡だ。輪の欠けは一箇所。欠けの角度を、昨日の封蝋欠片と合わせてみる。回す。止まる。合致した。
「輪郭は一致」
「印影は」
「試す」
紙を一枚取る。蝋を少量、油を少し。七三の配合。昨日の匂いに寄せる。指で練り、板の上で印を押す。三つ爪の鳥が浮かぶ。欠けの位置が、封蝋欠片とぴたりと同じだ。
匂いを嗅ぐ。手の中で揃う。昨日の欠片と重ねても違いが出ない。目でも、鼻でも、同じだ。十分、武器になる。
「帳簿は」
「裏口の棚です」
棚の下段に薄い紙束がある。表紙は新しい。日付は並んでいるが、時刻が飛んでいる。夜の搬出の時間だけ、意図的に抜けている。その抜け時刻は、橋での迎撃と重なる。
「時刻が合う」
「抜けと迎撃が」
「線はひとつだ」
副隊長が短く記す。紙の端に細い黒い跡。煤だ。印章を温めた跡。急ぎの仕事だった。
足音が聞こえる。庇の外だ。軽い。子の歩幅。影が横に流れる。昨日と同じ背丈で、同じ速さ。止まらない。渡す相手が近くにいる。
「追うか」
「半歩だけ。露見は避ける」
庇の影から半歩だけ出る。視線だけで追う。角で影が消えた。消えた先の地面には刻みのない跡。靴が柔らかい。渡し役は大人だ。
「大人に渡した」
「位置は」
「庇の端から二十歩。樽の影」
樽へ近づく。木口に蝋の薄い膜がある。爪で削ると赤が落ちる。匂いは同じだ。ここで渡した。証拠が繋がる。
表で声が聞こえる。王女の声が聞こえる。落ち着いている。短く、用件だけ。番頭が返す声は高い。焦りが少し滲む。重ね押しを気にしているのだろう。重ね押しは糸口だ。引けば、ほどける。
「控えの写しを」
「……すぐに」
副隊長が進み、控えの束を受け取る。目で拾う。印の重なり。紙の毛羽。煤。匂い。四つが揃った。線が太くなる。
「候補は」
「三人」
合図理解者の中で、ここに先回りできる者。刻みを跨がずに歩ける者。印の鍵に触れる役目を持つ者。条件を重ねると、三人だけに絞られる。
「釣るか」
「今はまだ」
「明晩に誤送。反応を見る」
頷く。胸の内で二本指を思い、外へ出さない。癖を残さない。準備だけを進める。
庇の角で風が変わる。油の帯が薄くなり、蝋の点が濃くなっている。印の作業が増えている証拠だ。今日のうちに積み、今日のうちに出す。
「荷は軽い」
「抜いている」
「抜いた分は、どこへ」
「川下。水門の先」
昨夜の線と同じだ。地図の指が同じ道を辿る。偶然ではない。
王女の馬車が動く。表の視察は終わりだ。目録は閉じられた。番頭は汗を拭く。指先に赤い蝋。癖は直らない。直らないものは、証拠になる。
「戻ります」
「報告を」
王女の視線が布の隙間から掠める。頷きで返す。言葉はいらない。任せられている。重い。だが、まっすぐだ。
庇を出る前に、印章の輪と欠片をもう一度だけ合わせる。欠けが止まる。匂いが揃う。迷いはない。これは武器だ。線は太く、的は絞られた。
今日は使わない。
それでも、進む。
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小目標=封蝋欠片と現物印章の一致(欠け位置・印影)を確認し、配合比(七三)で匂いを照合。
帳簿の抜け時刻が迎撃時刻と重なる事実を押さえ、渡し導線(子→大人)を特定。
候補は三人。明晩の誤送で絞る。