第2話 橋の下で、手掛かり
橋の下に残された縄梯子の痕と油紙の匂い。
外製の毒と内通者の時刻。二つの線が交わる場所が、相手の拠点だ。
巻き戻しがゼロの今日、囮を走らせ、王女を水門前へ誘導する。
滑る足場で、跳ぶ相手を迎える準備は整った。
雨は弱まらない。巻き戻しは、今日はもう使えない。
「任せる。ただし報告は」
王女リナの一言で、方針は決まった。橋を渡り切る直前に列を止め、外周の盾を二層に増やす。囮は次の角で出す。本命は、橋の下に残していく。
石段を降りると、冷気が喉に刺さった。濁った流れが脚の置き場を試す。ここで落ちれば、濡れた衣の重さが判断を鈍らせる。
「二人、上で見張り。二人、こちら」
副隊長が短く返し、石の縁の擦過痕を指でなぞる。斜めの削れ。
「縄梯子の痕です」
「いつからだ」
「雨の前。乾いた粉が溝に残ってます」
粉を爪で取る。油紙と同じ混ぜ物の匂いが微かに残る。街中では嗅がない配合だ。
「城外の工房だ。川下の方角」
「作る場所と運ぶ線が別、ということですね」
頷く。ここに梯子を掛けた者は、列の時刻を知っている。王女の足並み、橋での減速、護衛の癖。偶然ではない。
外から毒を調達し、内から時刻を流す。二つの線が交わる場所が、相手の拠点だ。
「……来た」
柱の影の向こうから、昨日と同じ高さと距離で声が落ちた。子どもの大きさの影が、石の縁に座ってこちらを見る。
「伝えて。橋の下で、待ってるって」
「誰が」
「上のひと」
「どの上だ」
反復。揺れない声。訓練の癖だ。
掴みに行くのは簡単だ。腕は届く。だが手を伸ばせば、流れに足を取らせる仕込みがある。ふくらはぎが、微かに冷たい。
視線を外さず、足元の石を指で探る。砂の薄い帯。わずかな盛り上がり。
「伏せ」
囁く。副隊長が即座に従い、次の瞬間、雨脚より軽い石粒が斜めに跳ねた。見えない投擲。柱の陰から角度を合わせられている。
子は音だけ残して消えた。足音はない。上へ返したのだ。こちらが動かなかったことも、伝わる。
橋の腹に手を当て、流れを読む。水位は昨日より指一本分高い。上流で雨が強い。「上は、上」——さっきの言葉が耳に残る。なら、川沿いの通路は使いづらい。
「囮を出す。空の馬車一台、雨覆いを下ろして王女の馬車と同じ印。外周を二層に、列の間隔は詰める」
「合図は」
「二本指。走らせるのは角の手前。水門前に誘導する」
「迎えるのは」
「ここに戻すのは悪手。水門前は足場が悪い。滑る。跳ぶ相手の足を殺せる」
巻き戻しが使えない。だから、三つを変換する。壁から一歩離れる配置は、導線の封鎖に。手短な合図は、隊内の統一に。白粉の一押しは、囮の走行に。
「王女に説明を」
「任せる。ただし報告は」
短いほど芯が立つ。階段を上がる前に空を一度だけ見た。屋根の影は見えない。見えないときほど、いる。
上へ戻ると、列はすでに組み替えられていた。盾の縁が二重に並び、雨の輪が二重に重なる。
「反応なし」
「待たない。こちらから線を引く」
囮の馬車は軽い。車輪の鳴きで本物と聞き分けられないように、油を拭き、軋みを残す。印は布で覆い、遠目には同じ。
「走らせる。角の手前まで」
合図。二本指。呼吸。拍。
囮が動く。列は狭まり、王女の馬車は石橋の終わりで一旦止まる。外周の盾が鱗のように寄る。
「来るなら、ここ」
副隊長が示す。柱の影と屋根の端が交差する一点。
雨が一段強くなる。
見えない針が、音だけ残して石に跳ねた。角度がずれている。焦りの角度だ。囮に乗った。
「……乗ったな」
「乗った」
囮は角へ抜け、わずかに先で止まる。こちらは逆へ動く。
「通せ」
王女の馬車が、囮と反対の線で抜けた。足場の悪い水門前へ。
水門の格子は濡れて黒い。足をかければ滑る。跳べば膝を打つ。
「ここで受ける」
敵が水を嫌うなら来ない。来るなら、自分の足場を殺す覚悟で来る。どちらでも、輪郭が出る。
「橋の下は」
「縄梯子の痕は一つ。掛け手が一方向。逃げる線は川下。囮が引いた線と逆に、私たちは下る」
「了解」
油紙は袋に収めた。匂いは薄れない。混ぜ物の出所は川下の工房。そこに行くなら陸路か水路。陸路なら関所、名簿、足取り。水路なら夜。
「……もう一度。巻き戻しは今日は」
「ゼロ」
「承知」
副隊長の返事は短い。短いのは、信用の形だ。
列が動く。鱗のように。
水門前に、一つの影が立った。跳ぶには遠い。跳ばなければ届かない距離。
胸の内側で形だけ作って、消す。
「報告を」
「すぐに」
王女に一度だけ頭を下げ、視線で線を引く。水門の手前で折れ、橋の腹の陰へ滑り込む線。
迎える準備はできている。滑る足場で、跳ぶ相手を待つ。
今日はもう、巻き戻せない。
それでも、進む。
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橋の下での偵察から、外と内をつなぐ線が見えてきました。
巻き戻しなしの戦術は、第1話の「三つ」を変換する形で展開しています。
次話は水門前での迎撃です。