第1話 石橋の上で、三秒
ブレーキが利かなかった。横滑りした車体が柱を砕き、胸の骨が軋む。世界がほどけ、三つ数える間だけ逆向きに流れた——終わりの直前にだけ与えられた、短すぎるやり直し。
目を開けると、石の天井。見知らぬ寝台。息の仕方も、足の向きも、さっきと違う。三秒のやり直しは、ここでも続いていた。三秒だけ戻せる。ただし一日に三度まで。
静かに暮らしたい。そのために、まず仕事で失敗はできない。
「止まれ」
「理由を」
「三つ数えてから」
「二、——今」
車輪が鳴き、針が石に跳ねた。
「暗器か」
「はい。三度までやり直せます。今日は一つ使いました」
「どういう意味だそれ」
「説明はあとで。通してください」
「任せる。ただし報告は」
行列は石橋に差しかかる。王女リナの馬車が軋み、護衛の足取りが固くそろう。雨音に紛れて靴音がひとつ増え、橋の下から冷たい気配がせり上がる。最初の一撃は馬車の継ぎ目を狙ってくる。
軒の影で、糸のたわみが揺れる。合図だ。
刃が閃いた。反射で受けた衝撃が手を痺れさせ、護衛のひとりが転ぶ。悪い流れだ。三つ、二つ、一つ——逆流。石畳の感触が戻り、靴底の角度まで同じに再配置される。
「右、止まれ。——一歩、下がる」
短く切った命令に列が沈黙で応じ、車輪が石のくぼみを避ける。壁が近い配置は捨てる。
影がほどけ、袖口の筒から針。前腕で払う。痺れが肘まで上がる。毒だ。
「伏せろ!」
叫ぶより速く二の矢が継ぎ目を穿つ。車体が傾ぐ。ここで崩れれば的になる。
三つ、二つ、一つ——二度目を使う。音が巻き取り、時間が戻る。
やることは三つだけに絞る。配置。命令。撹乱。壁から一歩離れ、手短な合図、白粉の一押し。
「左、盾を上げろ。車輪、止めるな」
副隊長が即応し、盾が外周に上がる。カーテンの向こうで、王女は揺れを抑える。信頼か、判断の速さか。
針が来る。盾の縁で滑らせ、石に落とす。その瞬間、橋の下から二人目。いま三度目は切れない。温存が要る。
「目、つぶれ」
小袋を握り潰し、白粉を撒く。風向きは読んだ。視界が白く曇り、間合いが伸びる。
足で弾いた針を拾い、馬車の継ぎ目へ投げ返す。狙いは人ではない。刺さった針を見せ、毒を示す。
「毒だ。下がれ」
列が一歩退き、敵の角度が崩れる。暗器は焦る。二連の手順が壊れ、次が遅れる。肩から入って刃を逸らし、手首を叩く。乾いた音。暗器が転がる。
——小さな勝利。暗器を落とさせ、王女を安全圏に出す。そこまでは達成した。
袖口から油紙がのぞく。微かな匂い。混ぜ物だ。持ち帰れば誰かが解く。
「生け捕りは?」
「難しい、逃げる」
男は体を捨てるように縁へ滑り、下へ落ちる。橋の下に仲間がいる。
追う足を、止める。深追いは罠。目的は王女の通過だ。
「列、再開。盾、外周」
指示を飛ばす。頭の片隅で三つを数える余白を残す。まだ最後は使っていない。だからこそ、ここからが危ない。
空気が変わる。雨の匂いがいったん途切れ、乾いた気配。屋根の上だ。
顔を覆った人影が待っている。本命。こちらが近づけば王女が射程に入る。動かなければ足止め。
三秒で何ができる。足音を一つ増やし、呼吸を合わせ、視線を釣る。足りない。なら他人の手を使う。
「鳥番、鳴かせ」
屋根の向こうで笛が短く鳴り、犬が吠える。視線が刹那、逸れる。
三つ、二つ、一つ——最後の巻き戻し。足の角度、握る手、声の高さ。同じ瞬間を、先で重ねる。
「今だ、通せ」
護衛列が鱗のようにずれ、王女の馬車が斜めに抜ける。人影の踏み込みは空を切る。届かない距離へ、王女が出た。
背がざわめく。刃の音ではない。布の擦れる軽い音。
屋根の端に、もうひとつ。子どもの大きさ。こちらを見て、笑う。
「伝えて。橋の下で、待ってるって」
雨音が強くなり、言葉が切れる。屋根は空っぽ。手の中の白粉が湿る。油紙の匂いが雨に薄まる。
任務は果たせた。だが、安住はまだ遠い。次は橋の下だ。次は、三つを切らずに辿り着く。
今日はもう、巻き戻せない。
——行列が曲がり、石橋の向こうへ消えていく。
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小勝利=暗器落下と安全圏確保まで到達。次回は『橋の下』に向かいます。
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