Zを受け継いで
日曜日、僕は午前二時に目が覚めた。そのまま目を閉じて再び眠っても良かったのだが、今日は外出する日にしようと思っていたので、服を着替えて今から外出することを決めた。
薄手のジャケットとジーンズに着替えて、ベルのフルフェイスヘルメットを手に取る。アヴィレックスのライディングシューズを履いてキーを手に取り、ガレージから眠っていたカワサキのZ1000Jを外に出した。父から受け継いだこのバイクは、僕が生まれる前から父が乗っていたバイクで、FCR39パイのキャブレター、APロッキード製のブレーキキャリパーとカーカーのメガホン型の集合管、追加のオイルクーラーなどの改造が施されているのが特徴だった。若かった父はこのバイクをもっと改造したかったらしいが、僕が生まれて断念したらしい。最後に施した改造らしきものは、僕が十歳の時に車体の色をメタリックレッドに全塗装したのと、僕が受け継いだ時にエンジンのオーバーホールを行ったくらいだった。
僕が五歳くらいになると、父はこのZの後ろに僕を乗せて、片道三十分程度の距離の場所へ何回か乗せてくれたのを覚えている。やがて成長した僕は、そう言った過去もあって大型二輪の免許を取得した。父が亡くなった後は、僕が入手したハーレーダビッドソンのFXRSと共に、僕を何処かへと連れて行ってくれる手段の一つとなっていた。
周囲に民家が少ない場所まで来るとキーを差し込み、チョークを引いてセルを回す。真夜中にキャブレターとマフラーを交換した空冷バイクのエンジン音が響くのは少し騒がしかったが、仕方なかった。
アイドリングが安定する合間に僕はヘルメット被ってグローブを身に付けた。そしてバイクに跨りチョークを戻すと、何も異常がない事を確認して、シフトを一速に入れた。
僕は父から受け継いだ赤いZ1000Jを駆って、住んでいる国立から西へと向かう。中央自動車道の国立府中から大月方面へと走り、大月から河口湖線を走って富士吉田インターチェンジへと向かう。河口湖線に入ると、東の空が明るくなり、オレンジ色の光が空と山々を照らす光景が美しかった。
富士吉田インターチェンジで高速を降りて、国道一三九号線を朝霧高原方面へと向かう。湿度が高く淀んでいた空気が僕のバイクによってかき乱され、それに合わせるように朝日が周囲を明るくして、地表の様々な物に熱と光をもたらしてゆく。動かなかったものに生気が宿り活動を始めるその光景は、神話における天地創造の一説にも似ていて、大地に光が差す光景がいかに神秘的で、人間にとって根源的な喜びをもたらす現象なのだという事を改めて実感させられた。
鳴沢村から青木ヶ原樹海を通り抜け、朝霧高原に入る頃にはすっかり夜が明けていた。あいにく日の出に映るダイヤモンド富士を拝む事は出来なかったが、自分のすぐ近くで太陽が富士山を照らし出しているのだと思うと心が弾んだ。
やがて『朝霧さわやかパーキング』という場所を見つけて適当な所に停めると、僕はエンジンを切ってようやくヘルメットを抜いだ。出発してから二時間三十分、ノンストップでここまで来たが、好きなバイクと美しい自然のおかげで疲労はほとんど無かった。
ジャケットの前を開けて、さわやかな空気を身体に送り込む。早い時間の朝霧高原の空気は瑞々しかったが、日差しによって気温が徐々に上がってゆくのが判る。耳を澄ますと、遠くの林から目覚めたらしいセミの鳴き声が風に乗って耳元に流れてくる。
僕は深呼吸をした後、朝日に照らされた富士山を見た。行きは積もっていなくとも、富士の峰はその険しさと美しさを称え、他のどの山にも似ていない美しさがあると思った。
そんな風に日本の霊峰に見とれていると、富士の麓の荘厳な佇まいを破るかのように、どこからか自動車の爆音マフラーの音が聞こえてきた。耳を澄ますと、ブーストアップを施したターボ車の音らしい。こっちに向かってくると思って音の聞こえた方向を見ると、ブローオフバルブの音と共に、一台の赤いZ32型フェアレディZがやって来た。ローダウンした車高に、フェラーリ・F40のホイールを模した五本スポークのアルミホイールに、跳ね上げたデザインのリアスポイラー。左リアタイヤより前に給油口がある事から、二人乗りモデルである事が判る。九十年代初頭の、車好きの坊やたちが心をときめかせた仕様だ。
フェアレディZは僕の目の前を過ぎり、富士山に助手席側を向けるようにして止まった。後部に取り付けられたナンバーは栃木の物で、二桁の数字が新車から乗り続けられている車だというのが判った。どんな人間が乗っているのだろうかと少し様子を伺うと、降りてきたのは黒いTシャツに、チタンゴールドのネックレスとイヤリングを合わせた、僕とそれ程年齢が違わない女が降りてきた。彼女は長い時間運転して身体が強張っているのか、硬くなった身体の筋肉をほぐすような動作をした後、大あくびをした。するとその様子を見ていた僕に気づいたのか、急に改まったような眼差しになって慌てての方を振り向いた。
勇ましい自動車に乗っている割にはかわいいな、と僕は思うと少し近づいて彼女が運転してきたフェアレディZを見た。リアのガラスハッチ越しには、保護パッドを巻いたロールケージと、黒いフルバケットシートの背もたれが見えた。古いバケットシートも、おそらく二十年以上前の物だろう。
「栃木からいらしたんですか?」
僕は尻を向けて止まっているフェアレディZのテールを見ながら声を掛けた。もう三十年以上前の車だったが、オーナーである彼女の手入れが良いのか、塗装や外装のヤレやヘタレなどは見当たらなかった。
「はい、六時間夜通しで来ました」
彼女は少し疲れた様子で答えた。喫煙者なのだろうか、想像よりも低かった。
「僕も二時間三十分、国立から休憩なしで来ましたよ」
「あのオートバイで?」
彼女は僕の背後にあるZ1000Jを目で差した。僕は一台だけでぽつんと佇む、父から受け継いだZ1000Jを見た後こう答えた。
「はい、あのバイクで」
「かっこいいバイクですね」
彼女は僕が乗ってきたZ1000Jを褒めた。自分も改造が施されたフェアレディZに乗っているから、親しみを感じるのだろう。
「あれは、どこのバイクですか?」
「カワサキです。カワサキのZ1000Jっていうバイクになります」
僕が答えると、彼女は何か驚いたようだった。
「バイクにもZってあるんですか?」
「ええ、この日産のフェアレディZと同じように」
フェアレディZで六時間もかけてここに来た彼女は、偶然に出会ったバイクが同じZである事に驚きを隠せないのだろう。日産のフェアレディZなら日本を代表する車として多くに認知されているが、カワサキのオートバイとなるとそうではないのかもしれなかった。
彼女は少し驚いた様子のまま、そのまま言葉に詰まってしまった。僕は助け舟を出すつもりで、傍らにあるフェアレディZを見た。
「これ、長く乗っていらっしゃるみたいですね。失礼ですが、このZ32はあなたのZですか?」
僕が質問すると、彼女は我に戻ってこう答えた。
「いえ、これは父の物だった車です。今はガソリン代から税金まで、私が全部払っていますが」
「お父様のものだったんですか」
「そうなんですよ、車ってかっこいいだけじゃもったいないじゃないですか、好きな車で好きな場所に行かないと意味ないじゃないですか」
彼女はフェアレディZと共に過ごした、様々な思い出を浮かべながら語っているのか、う嬉しそうに僕の目を見ながら語った。
今度は僕の方が驚いてしまった。富士山を見下ろす場所で、同じように父からZを引き継いだ人間と出会うなど想像していなかった。
「僕のZも父から受け継いだものなんです」
僕の言葉に、フェアレディZの彼女は小さく笑った。
「そうだったんですか、不思議なめぐりあわせですね」
「ええ、不思議な事ですね」
僕は彼女に合わせるようにして、小さく笑った。
それから暫くとりとめのない会話の後、僕たちは判れる事になった。栃木で喫茶店を経営しているという彼女は、これからまた六時間かけて戻り、名物のピザトーストの材料の買い出しに向かうらしい。僕もこの朝霧高原から国立に戻って、明日の仕事に備えなければならなかった。
「お父様から受け継いだZで、これからも好きな場所に行ってくださいね」
「こちらこそ、あなたも受け継いだZで美しいものに出会ってください」
僕たちは互いに深く一礼した後、父から受け継いだZに乗ってそれぞれの場所へと戻る事にした。
(了)