IF:天城のいない世界
開発フロアに静かな午後が流れていた。
音はある。打鍵音、会話、プリンタの駆動音。
だが、“闘志”の音がない。
部長が報告資料を眺める。
「今年も現状維持か。まぁ、赤が出てないだけマシだな……」
そう呟いたとき、横にいた係長が同意した。
「うちの会社は“安定が強み”ですからね」
「リスクは取らず、現場の声を信じる――それが企業文化っすよ」
その“現場の声”とは、かつて設計をAI最適化しようと提案した若手が、
「やりすぎ」「現場を潰す」と吊るし上げられ、異動させられた事件で完全に死んでいた。
「このパーツの設計、去年とほぼ変わってませんよね」
ある新人が会議で言った。
「いや、変えないのがベストなんだよ」
「改良ってのは“やる理由がある時”にだけやるもんなんだ」
誰もそれに異を唱えなかった。
社内ではもう「技術革新」はリスクの別名になっていた。
数ヶ月後――
外資系メーカーが新型モジュールを発表。
競合商品として比較された瞬間、社内で数値が走る。
「うちの主力商品、機能でもコストでも完全に負けてます……」
「まさか、ここまで差がついてたとは……」
社長は会見でこう言った。
「変化を拒んできたわけではありません。私たちは“守り”を重視したのです」
だが、記者席からこんな質問が飛ぶ。
「御社には、“攻められる頭脳”がいたのでは?
それを潰していませんか?」
社長は答えなかった。
なぜなら、彼の頭には今でも、彼の同期の提言でかつてリストラした若者の顔が残っていた。
名前は――天城直哉。
そして今日もまた、社内掲示板に張り出されたのは、
前年とほぼ変わらぬ業績報告と、変わらぬ顔ぶれの昇進名簿。
誰もが安堵しながら、それがゆっくりと沈みゆく船の上だという事実から目を逸らした。
ナレーション(俯瞰視点):
天城がいない世界は、平和だった。誰も怒らず、誰も傷つかず、誰も告発しなかった。
ただ、誰も新しい未来を作らなかった。
このIF世界は、実在の多くの組織が直面している「変化を拒むことで緩やかに死んでいく構造」とも重なります。