生きていてさえいれば
太陽が、じりじりと頭上を焼いている。
ウェルティアは、額から垂れる汗を拭いもせず、ただ乾いた道を歩いていた。
背後には、数人の部下たちが付き従っている。
皆、口を閉ざし、重い足取りで土煙を上げている。
その一行を取り囲むように、グリムボーン家の兵士たちが進んでいた。
規則正しい軍靴の音。
擦れ合う金属鎧の硬質な響きが、練度の高さを物語っている。
喉が、張り付くように渇いている。
けれど、腰の水袋に手を伸ばす気にはなれなかった。
(……生きている)
何度も、心の中でその言葉を繰り返す。
(あの子は、生きている。それだけで十分だ)
伝令の兵士がもたらした情報は具体的で、残酷なものだった。
『妹御は救出されました。命に別状はありません』
その言葉に、一度は膝が崩れそうになるほどの安堵を覚えた。
だが、兵士は無情な事実を続けた。
『ただ、賊により、両肩を粉砕され、両脚も踏み潰されています。現在は治療中ですが、至急、現地へ』
肩が、砕かれた。
脚が、潰された。
その意味を、騎士であるウェルティアは誰よりも理解していた。
もう二度と、剣は握れない。
いや、自分の足で歩くことさえ、一生叶わないかもしれない。
魔国の地では、高位の神官の奇跡など望むべくもない。
たとえ、奇跡を賜れたとしても、一生ベッドの上で過ごすことになるだろう。
(……それでも)
ウェルティアは、唇を噛み締めた。
鉄の味が口の中に広がる。
(生きていてさえいれば)
父や母の命はもうないだろう。
故に、妹はたった一人の肉親なのだ。
五体満足でなくとも、命がある。
声が聞ける。
体温がある。
それこそが「不幸中の幸い」なのだと、自分に言い聞かせた。
そう思わなければ、心が砕けてしまいそうだった。
村の入り口が見えてくる。
グリムボーン領の兵たちが、槍を手に整列していた。
その厳格な空気の中、天幕の下に二つの人影がある。
リオス=グリムボーン。
そして、銀髪の魔族、リュシア。
ウェルティアは足を速めた。
砂利を踏む音が、やけに大きく響く。
リオスの前まで進み出ると、彼女は勢いよく膝をついた。
地面の熱が、膝を通して伝わってくる。
「……ウェルティア、参りました」
頭を垂れる。
視界の端に、自分の汗が地面に落ちて染みを作るのが見えた。
「顔を上げて」
少年の声は、相変わらず静かだった。
感情の波を感じさせない、凪いだ湖面のような声。
ウェルティアは顔を上げた。
黒い瞳が、こちらを真っ直ぐに見下ろしている。
その隣で、リュシアが興味深そうに金色の瞳を細めていた。
「妹のことは聞いているね」
「……はい。救出していただき、感謝の言葉もございません」
声が震えそうになるのを、腹に力を入れて耐える。
「命を……ティナの命を救っていただき、本当に……ありがとうございます」
「礼には及ばないよ。僕の領地で無体なことは許せなかっただけだ」
リオスは短く語った。
そこに、恩着せがましさは微塵もない。
「賊は全滅させた。
……彼女には、辛い思いをさせたけれど」
「……いいえ。生きて戻れただけで、奇跡です」
ウェルティアは言葉を絞り出した。
「両手両足が動かなくとも……命さえあれば、それで……」
言いながら、視界が歪む。
再起不能の妹。
その介護に明け暮れる未来。
それでも、生きていてくれるなら。
リオスはわずかに眉を動かした。
何かを言いかけたようだが、すぐに口を閉ざす。
「……ついておいで。会わせてあげるよ」
リオスが背を向ける。
リュシアがその半歩後ろに従う。
ウェルティアも立ち上がり、部下と共に二人の後を追う。
行き先は、村に似合わぬ立派な建物だった。
この村の郷宿だと、ウェルティアは察した。
屋敷の扉が開かれる。
一歩、中に入る。
背後の部下たちも、それに続こうと足を踏み出す。
だが。
「――お前たちは、ここで待て」
グリムボーン家の兵士が、槍の柄で制した。
部下たちが戸惑ったように顔を見合わせる。
ウェルティアは振り返り、短く頷いた。
「ここで待機していろ。……私一人で行く」
ここは、他領の領主の宿だ。
武装した他家の兵など、入れるはずもない。
ウェルティアは一人、リオスの背中を追った。
重厚な木の扉が閉まり、外の熱気と中の空気を隔てた。
涼しい。
外の焦げるような暑さが嘘のように、ひんやりとした空気が肌を撫でた。
そして、匂いが違う。
汗や土埃の臭いではなく、柑橘のような甘い香りが漂っている。
「こっちだよ」
リオスが廊下を進む。
一番奥の部屋。
リオスは扉の前で足を止め、ノックした。
コン、コン。
硬く、乾いた音が廊下に吸い込まれる。
「……はい」
中から、声が響いた。
扉が内側から開かれる。
顔を出したのは、リリュアだった。
整った顔立ちの侍女が、恭しく頭を下げる。
「リオス様。……それに」
彼女の視線が、後ろのウェルティアに向けられた。
「ウェルティアさんが到着した。……ティナは起きている?」
リオスが問う。
リリュアは一度、部屋の奥へと視線を巡らせた。
そこにいる誰かと、無言の視線を交わす。
そして、静かに頷いた。
「はい。お目覚めです。……どうぞ、中へ」
リリュアが体をずらし、道を開ける。
ウェルティアの心臓が、早鐘を打った。
呼吸が浅くなる。
(……現実から、目を逸らすな)
自分に言い聞かせ、震える足を踏み出した。
部屋の中へ。
窓から差し込む午後の陽光が、白いシーツを眩しく照らしていた。
その傍らに淡紫髪の少女――シエラの姿があった。
しかし、その美貌も、高貴な佇まいも、今のウェルティアの網膜には映らない。
視界のすべてが、部屋の中央にあるベッドだけに吸い寄せられた。
そこに、ティナがいた。
「……あ」
ウェルティアの喉から、空気の漏れるような音がこぼれた。
仰向けに寝かされた、小さな身体。
シーツから出ている両腕は、指先まで包帯でぐるぐる巻きにされ、厚い副木で挟み込まれている。
布団の膨らみからして、脚も同様だろう。
「……お姉、さま……?」
懐かしい声が鼓膜を震わせた。
ベッドの上の少女が、ゆっくりと首を巡らせる。
淡いブルーグレーの瞳が、入り口に立つウェルティアを捉えた。
「……ティナ……ッ!」
ウェルティアは駆け出した。
騎士の歩法も、礼節も、すべてかなぐり捨てて。
ベッドの縁に膝をつく。
勢い余って、シーツを掴む指が白く変色する。
「ティナ、ティナ……っ!」
「……お姉さま、来て、くれたの……?」
「ああ、来たぞ。遅くなって、すまない……っ!
怖かっただろう、痛かっただろう……!」
ウェルティアは、妹の体に触れようとして、手が止まった。
どこを触ればいいのか分からない。
どこに触れても、砕けた骨に障るのではないか。
迷った手は、包帯の巻かれていない頬へと伸びた。
指先を、震えないよう慎重に滑らせる。
温かい。
涙が出るほど、温かい。
「……ごめんな、ごめんな……っ! 私が、もっと早く……!」
「ううん……いいの。……私、生きてるよ……」
ティナが、動かない腕を無理に持ち上げようとして、あきらめたように微笑んだ。
「……リオス様たちが、助けてくれたの。
まだ動けないけど……でも、お姉さまにまた会えた……」
その健気な言葉が、ウェルティアの涙腺を決壊させた。
「う、あぁぁぁ……っ!」
ウェルティアは、妹の胸元に顔を埋めた。
骨を圧迫しないよう、けれど確かな弾力を確かめるように、しがみつく。
「よかった……生きててくれて、本当によかった……っ!」
子供のように声を上げて泣いた。
騎士としての強さも、民を纏める代表としての責任も、今はどうでもよかった。
ただ、温かい妹の命がそこにあることだけが、救いだった。
ティナの鼻先を、姉の髪の匂いがくすぐる。
汗と、土と、鉄の匂い。
懐かしい、安心できる姉の匂い。
ティナは動かない腕の代わりに、濡れた瞳を閉じて、姉の体温を全身で受け止めていた。




