泥濘からの目覚め、銀紫の訪問者
意識が、泥の中から浮上する。
背中を包むのは、吸い付くような羽毛の感触。
鼻腔をくすぐるのは、清潔なリネンの香り。
(……ああ)
ティナは、まどろみの中でぼんやりと考えた。
(……悪い夢を、見ていたんだ)
光の射さない、腐臭と痛みに満ちた夢。
飢えた獣に食い殺されるような、絶望だけに塗り潰された世界。
けれど、目が覚めれば、いつもの朝が待っている。
侍女がカーテンを開け、差し込む陽光が部屋を温める。
父様が、書斎で難しい顔をして書類を読んでいる。
そんな、当たり前の日常が――。
ドクン、と。
心臓が不快な音を立てて跳ねた。
瞬間。
脳裏に焼き付いた記憶が、濁流となって押し寄せる。
飢饉で乾ききった大地。
飢えた民。
領地を襲った賊の、下卑た笑い声。
『――領民を連れて逃げろ。守ってくれぬ国など捨ててしまえ!』
父様の言葉。
背中を向けて戦い、次々と倒れていった領兵たち。
血飛沫。
断末魔。
民たちと泥と茨の森を這うように逃げた日々。
導かれるようにたどり着いた広場での、束の間の休息。
そして――そこにも、魔の手は伸びた。
オークやゴブリン。
彼らは欲望のままに襲いかかってきた。
幾度目かの襲撃の際に――
「……っ、ぁ……」
喉の奥から、掠れた嗚咽が漏れた。
ティナはカッと目を見開き、現実へと引き戻された。
視界に映るのは、洞窟の岩壁ではない。
質素だが、手入れの行き届いた木の天井だ。
「――ぁ?」
喉から、間の抜けた音が漏れた。
痛みは、ない。
あの脳髄を焼き尽くすような激痛も。
骨が擦れ合う不快な音も。
獣の悪臭も、視界を塞ぐ暗闇も。
すべてが消え失せている。
ティナは目を見開き、自分の体を凝視した。
「……っ……」
呼吸が、止まる。
掛け布から覗く肩は、驚くほど白く、滑らかだった。
あれほど酷かった紫色の痣も、肉が裂けた傷跡も、跡形もなく消えている。
まるで、生まれたての赤子のような肌。
けれど、その滑らかな腕には――無骨な木片が当てられていた。
肩から二の腕、そして肘にかけて。
さらに、シーツの下に伸びる両脚にも。
砕かれた骨を無理やり繋ぎ止めるように、硬い木と包帯で、厳重に固定されている。
(……嘘)
物音ひとつしない部屋の中で、自分の呼吸音だけが大きく響く。
思考を埋め尽くしたのは、人知を超えた力で傷を塞ぎ、痛みを取り去った魔法。
(……聖女様、みたい)
ティナは動かない首を無理やり巡らせ、枕に顔を埋めた。
身体の表面の傷も、痣も綺麗に消えていた。
神の奇跡と呼ばれる治癒魔法。
それを、年端もゆかぬ少女が使ってみせた。
――あの少女は邪悪な神に見初められた魔族の聖女。
そんな考えが頭を過る。
だが、その考えはティナ自身が信じられなかった。
あの年齢で治癒魔法を行使するのは、いかに魔国といえど、天才と呼べるものなのだろう。
そうであってほしい。
しかし、治癒魔法そのものは、奇跡でもなんでもない、ただの技術。
『医療技術の独占? 呆れたわね』
――本当に、呆れる。
自分たちの権威を守るために民を騙した教団も。
そんな奴らを信じた自分も。
自己嫌悪に沈みかけた思考を、乾いた音が断ち切った。
ガチャリ、と。
扉が開き、二人分の足音が室内に入ってくる。
一人は、優雅で軽やかな足取り。
もう一人は、足音を立てず影のように付き従う気配。
ティナは首を動かして其方を見た。
「……あら。お目覚めになって?」
鈴を転がすような、涼やかな声。
現れたのは、銀紫の髪をなびかせた少女――シエラだった。
整った顔立ちは陶器のように動きがないが、その瞳には知性の光が宿っている。
その後ろには、メイド服を着た侍従――リリュアが控えていた。
(……あ……)
ティナの脳裏に、記憶が蘇る。
「……シエラ、様……?」
掠れた声で、その名を呼ぶ。
シエラは、パァッと花が咲くように微笑んだ。
「ええ。覚えていてくださって光栄ですわ」
シエラはベッドの脇まで歩み寄ると、躊躇なくその縁に腰を下ろした。
ふわり、と。
マットレスが沈み込み、甘い花のような香りが鼻先をくすぐる。
「少し、お話をしましょうか」
シエラは足を組み、リリュアは無言でその傍らに立つ。
その洗練された所作。
自然と醸し出される主従の空気。
ティナの背筋が粟立つ。
この少女は、ただの魔族ではない。
高貴な血筋に連なる、人を統べる側の者だと。
「まずは、現状の整理から」
シエラが人差し指を立てる。
「ここは、ヴァルゼルグ王国。グリムボーン領の属領にある村よ。
そして、あなたを拾ったリオス様は、この地の領主」
「……領主、さま……」
洞窟で名乗られたが、やはりあの子供が領主というのは、あまり真実味が無い。
しかし、周囲の態度やこの寝室など、状況は信じる他にない。
「あなたたちは国境を越えた侵入者。
本来なら追放か、奴隷落ちが妥当なところだけれど……現在は『処分保留』となっているわ」
シエラは眉ひとつ動かさずに告げる。
「他の流民たちは、あなたたちが作った森の拠点に残っているわ。
あなたの姉君――ウェルティアさんも、そこで民を纏めている」
ここまでは、洞窟でも説明されたことだ。
しかし、改めて安堵で、胸の奥が熱くなる。
涙が滲みそうになるのを、ぐっと堪えた。
「……ありがとう、ございます……感謝、します……」
「お礼を言うのはまだ早くてよ」
シエラの声色が、ふっと低くなった。
空気が変わる。
和やかだった雰囲気が消え、為政者の研ぎ澄まされた刃のような気配が肌を刺す。
「ここまでは、あくまで『リオス様』の裁定。
けれど、あの方はあくまで属領の領主。
彼の上には、本領を統べる主がいる」
シエラは、ティナの目を射抜くように見つめた。
「メルヴィラ=グリムボーン。
リオス様のお母上にして、魔国でも指折りの実力者」
その名を聞いただけで、背筋が凍るような圧を感じた。
「あの方は、とても愛情深い方よ。
わたしくも、とてもよくしていただいている。
けれど、領主としては極めてシビアな目をお持ちだわ」
シエラは指先で、自分の唇をなぞる。
「法と秩序。そしてなにより、領の『利益』を最優先にする。
情けや慈悲だけで、国境を侵した人間を生かすような甘い方ではない」
「……はい」
ティナは、短く肯定した。
よく、分かる。
脳裏に浮かぶのは、父の姿だ。
家族には優しく、民を愛していた父。
けれど、ひとたび公務となれば、私情を挟まなかった。
罪を犯せば罰し、領の害となれば切り捨てる。
多くの民を守るためには、非情な決断も厭わなかった。
(……領主とは、そういうものだ)
情だけで動く者は、いずれ領地ごと滅びる。
父は常々、そう言っていた。
「リオス様は、あなたたち流民が『価値』を示せれば受け入れる、という条件を出しているわ。
けれど……メルヴィラ様がそれを承認するかは、別問題」
シエラは表情を崩さずに告げる。
「上層部の決定により、現場の判断が覆る。
よくある話でしょう?」
「……はい。存じて、おります……」
ティナは動かない手足の先で、じっと拳を握る感覚をイメージした。
もし、メルヴィラという大領主が「NO」と言えば。
リオスの温情など、シャボン玉のように消え失せる。
「そうなっても……恨むことなど、ありません……」
それは、本心だった。
一度は死んだ命。
姉と民が、少しでも長く生き延びられたのなら、それだけで十分だ。
「……殊勝な心がけですこと」
シエラはふふっと笑い、少しだけ身を乗り出した。
紫の瞳が、妖しく輝く。
「では、問うわ。
もし受け入れを拒否されたら、どうするつもり?」
「……それは……」
ティナは言葉に詰まる。
祖国には帰れない。
――帰るつもりもない。
近隣の人間国家も、教団に配慮するだろうし、なにより、流民を受け入れる余裕などないだろう。
森を彷徨い、野垂れ死ぬか。
あるいは、また別の賊や魔物に襲われるか。
「……どこか、空白地帯があれば……そこで……」
「無理ね。今のあなたたちの戦力じゃ、三日と持たない」
シエラは容赦なく切り捨てた。
そして、悪魔の囁きのように、甘く、低く告げる。
「ねえ、ティナさん。
もし、生き残りたいのなら」
シエラの手が、ティナの頬に触れた。
冷たくて、心地よい指先。
「わたくしの『策』に、乗る気はないかしら?」




