姉の安否、妹の覚悟
(あ、く……ッ)
汚泥を啜った岩肌に、指先が触れている。
だが、思うように動かせない。
爪の剥がれた指は、死にかけた虫のように転がっているだけだ。
(熱い、あつい……ッ)
幼い掌から、魔力が奔流となって注ぎ込まれる。
それは体内を満たし、奥底へと遡り、こびりついた不浄な汚れを焼き払っていく。
張り詰めた瞳が、生理的な涙で滲む。
揺らぐ視界の先、少年の顔が淡く浮かんだ。
――この幼子が、魔族の領主。
「汚れを拭ってあげて」
その一言で、兵たちが最敬礼を捧げた。
屈強なダークオーガが、彼の言葉に絶対の恭順を示した。
誇り高き魔族の少女が、松明持ちの役割さえ甘受した。
間違いない。
この少年こそが、あの声を響かせた『主』。
その支配者が、いま、泥土に膝をついている。
汚された自分の下腹部に手を当て、表情ひとつ変えずに浄化を行っているのだ。
(ありえない……)
屈辱。
安堵。
そして、理解を超えた畏怖。
相反する感情が脳髄で混ざり合い、理性の輪郭が溶けていく。
「……ぐ、う……ッ!」
不覚にも、喉奥から苦悶の声が漏れた。
リオスの魔力は、聖水のごとく純度が高い。
清冽な力が、蹂躙されたばかりの傷ついた身体を撫でるたび、背骨を電流が駆け上がる。
本来、殺精の魔法がこれほどの感覚をもたらすはずがない。
だが、身体に残る毒花の影響が、浄化の熱すらも過剰な刺激へと変換してしまう。
内側から突き上げられる疼き。
汚濁と泥にまみれた惨状。
それを晒す羞恥に、ティナの粟立った肌が震える。
リオスが、顔を上げる。
その瞳に、情欲の色はない。
あるのは、取り除くべき『穢れ』だけを見つめる、純粋な観察眼。
「……うん。終わったよ」
不意に、熱源が離れる。
リオスが手を引いた。
途端、腹の底にぽっかりと穴が開いたような、寒々しい喪失感が襲う。
「……っ」
力が抜ける。
ティナの身体が、ぐたりと湿った地面に沈む。
――ゴリッ。
体内で、湿った音が響いた。
砕けた大腿骨の断面が、筋肉を内側から削りながらズレた音だ。
痛みはない。
ただ、自分の身体が袋の中のガラクタのように崩れる感触だけが、ひどく気持ち悪かった。
荒い呼吸が洞窟の壁に反響する。
汗に濡れた髪が頬に張り付き、口元で鉄の味がした。
リオスは懐紙を取り出し、汚れた手を拭う。
無音で立ち上がる。
その横へ、淡紫の髪の少女――シエラが歩み寄った。
無言で、新しい布を差し出す。
流れるような連携。
そこには、言葉不要の絶対的な信頼がある。
リオスの眼差しが、再びティナへ落ちる。
眉根が寄る。
兵士たちが汚れを拭い去ったことで、惨状が露わになっていた。
白磁の肌に咲き乱れる、無数の紫斑。
「……ねえ、着替えってあるかな?」
リオスが短く問う。
その声は、年相応のあどけなさを残していた。
「予備のマントなら」
控えていた女兵士が、背嚢から厚手の布を取り出す。
その動作は、素早く、恭しい。
(やはり……この子が、領主なんだ)
リオスは布を受け取る。
無言で、ティナの身体へ被せる。
好奇の目から守るように。
騎士としての誇りが、これ以上晒されぬように。
ふわりと、温かな闇が視界を覆う。
ティナの肩が震えた。
「……っ」
痛覚は麻痺している。
だが、布の質量と、先ほどの行為の余韻が混ざり合う。
訳の分からない感情が、喉の奥からこみ上げる。
マントの隙間から、幼き支配者を見つめる。
人間だ。
近くで見ても、触れられても、それは揺るがない。
人間が、魔族を率いている。
そして、穢された自分を、嫌悪も見せずに『浄化』してみせた。
彼から発せられる気配は透明だ。
侮蔑も、欲望もない。
ただ、やるべきことをこなす、素直な実直さだけがある。
「そういえば、名前を言ってなかったね」
リオスは、夜会で淑女に接するように、ぺこりと頭を下げてから、片手を胸に当てる。
「ヴァルゼルグ王国グリムボーン属領領主、リオス=グリムボーン。
ウェルティアさんから聞いたんだ。妹さんが捕まってるって。
……貴女で間違いないよね?」
「……お姉さま?」
思考が停止する。
毒花の熱に溶けかけていた意識が、氷水を浴びせられたように凍りつく。
リオスが頷く。
「うん。ウェルティアさんなら、まだあそこにいるよ」
さらりと、告げる。
拠点は既に見つかっている。
その事実に、首筋へ冷たい刃を当てられたような戦慄が走る。
「どうするかは、まだ決めてないんだ。だから、そのままにしてある」
――処分、保留。
生殺与奪権は、完全に彼の手にある。
安堵するには早い。
だが、この状況で縋れるのは、目の前の少年しかいない。
「お心遣い、感謝します……」
ティナは、岩肌に額を擦り付ける。
動かない腕は、だらりと泥の上に投げ出されたままだ。
腹の力だけで、無理やり頭を下げる。
「先ほど申し上げた通り、姉たちを見逃していただけるのであれば、この身はいかようにも捧げる所存です」
平伏する。
支えのない肩が、ゴトリと地面にぶつかる振動が響く。
その異様な姿を、リオスが見下ろす。
困ったような色が浮かんだ。
「こんな場所で長話をするものではないわ。早く戻りましょう」
リュシアが、硬い空気を割るように告げる。
リオスも頷く。
「そうだね。……運んであげて。傷が開かないようにね」
指示が飛ぶ。
控えていた兵たちが、即座に動く。
「手荒な真似は厳禁ですわよ。リオス様が拾われたのですから」
シエラが、兵たちへ釘を刺す。
その横顔は能面のように冷たい。
だが、リオスに向ける眼差しだけは、狂信的な熱を帯びている。
(……この子たちは、一体)
少年と、二人の少女。
その関係性を考える余裕は、もう残っていない。
「君のことも、あとでゆっくり考えるよ」
リオスの声が降る。
年下の子供の言葉。
けれどその響きに、ティナは自身が『生』を拾ったことを実感する。
「……は、ぃ……」
安堵。
直後、蓄積した疲労が泥流のように押し寄せる。
意識が、急速に闇の底へと沈んでいく。
薄れゆく視界。
指一本、動かせない。
ただ、頬に触れるマントの感触と、染み付いた残り香だけがあった。
少年に流し込まれた魔力の残響が、身体の奥で燻り続けていた。




