神の奇跡と無限の軍勢
洞窟の最奥。
湿った岩肌に閉ざされた空間には、甘く、重苦しい香りが澱んでいた。
泥と血にまみれ、震えるティナ。
その凄絶な姿を、五対の瞳が見下ろしている。
「……凄まじいわね」
愉悦をたっぷりと孕んだ声が、岩壁に反響した。
リュシアは、艶めく唇の端を吊り上げる。
「手足を砕かれ、尊厳を泥に浸けられた。あまつさえ、この催淫花の香を吸ってなお折れない。騎士の矜持かしら」
リュシアが肩越しに流し目を送る。
背後に控えていた二人の女兵士が、頬を朱に染めて身じろぎした。
彼女たちの瞳は潤み、呼吸は浅く乱れている。
「うちの兵ですら、とっくに毒気に当てられたのに。ねぇ?」
揶揄を含んだ問いかけ。
女兵士たちが恥じ入るように俯いた。
ティナは、脂汗の浮いた眉を寄せた。
理解が追いつかない。
困惑で、痛みに歪んだ顔が強張る。
それを見たシエラが、呆れたように短く息を吐いた。
彼女は優雅な所作で一歩、前へ出る。
「この甘い香りのことですわ」
シエラは足元に散らばる、暗紅の花弁を指差した。
「この香りには、強力な催淫作用がありますの」
淡々とした事実の通告。
彼女自身、数分前に得た知識だとしても、その態度は堂々たるものだ。
「……貴女、周りをよく見てみなさいな」
促され、ティナは鉛のように重い首を上げた。
視界が揺れる。
熱に霞む目で、周囲を捉えた。
事実、泥と糞尿にまみれた洞窟の中で、いっそ可憐ともいえる小さな花がそこかしこに咲き、毒々しい甘さを撒き散らしている。
黒髪の少年も。
二人の魔族の少女も。
後ろに控える兵士たちも。
全員が、口元を厚い布で覆っていた。
水で湿らせた布が、彼らの理性を守るフィルターだったのだ。
この場でただ一人。
ティナだけが、無防備にその毒気を、肺腑の奥底まで吸い込んでいた。
「っ……ぁ……」
喉の奥が焼ける。
胎が疼く。
この身を内側から焦がす衝動は、死の間際の幻覚などではなかった。
「貴女が蹂躙されて、快楽を感じたのだとしても……無理はないですわ」
シエラは表情を変えずに告げる。
その言葉は、冷たい宣告のようでいて、奇妙な救いを含んでいた。
「すべては、この毒花のせいよ」
毒のせい。
不可抗力。
その事実は、泥沼に沈みかけたティナの理性を、首の皮一枚で繋ぎ止める糸となった。
(私の……心が弱いからでは、ない……?)
安堵が胸を撫でる。
張り詰めていた糸が緩み、目尻に涙が滲んだ。
だが、心の安寧は肉体の暴走を加速させる。
抵抗をやめた途端、押し殺していた疼きが濁流となって全身を巡った。
安堵すらも快楽の燃料となり、吐息が甘く、ひきつるように震えた。
「……っ、う、ぅ……!」
熱に浮かされた視界の端。
それまで沈黙を守っていた黒髪の少年が、動いた。
彼は、控えていた女兵士たちへ視線を投げる。
「二人とも。その人の汚れを拭ってあげて」
穏やかな声だった。
叫ぶでもなく、威圧するでもない。
日常会話のような、自然なトーン。
「はっ! 直ちに!」
「御意!」
しかし、女兵士たちは弾かれたように動いた。
リュシアへではない。
少年に向かって、直角になるほどの最敬礼を捧げた。
(……え?)
思考が軋む。
霞む頭の中で、違和感が警鐘を鳴らした。
(この、兵たちの態度は……何……?)
ティナは視線を彷徨わせた。
威風堂々たるダークオーガの少女を見る。
彼女は、少年の指示に口を挟まない。
それどころか、誇らしげに目を細め、その背中を見守っている。
まるで、ティナが姉に対してそうするように。
(違う……)
認識が、音を立てて崩れ去る。
将は、あの魔族の少女ではない。
この場の支配権を握っているのは。
兵たちが真に頭を垂れ、命を捧げている相手は。
ティナは濡れた顔を上げ、少年を凝視した。
黒い瞳。
底知れぬ闇のような深淵。
ただ立っているだけで、場の空気が彼を中心に回っている。
(この、人間の子供があの声の主……“リオス”……?)
兵士たちが手早く腰の水筒を開けた。
手ぬぐいをたっぷりと濡らす。
硬い布が、肌を滑った。
泥は落ちても、刻まれた傷は消えない。
砕かれた肩が軋み、踏み潰された脚に激痛が走る。
過敏になった肌に粗い布が触れるたび、羞恥よりも鮮烈な刺激が脳髄を焼き尽くした。
「ぐっ……ぁっ、ぅ……!」
声にならない呻きが漏れる。
脂汗が滲み、兵士が手を止めた。
それを見たリオスが、眉根をひそめ、リュシアへ視線を向ける。
「姉上。先に治療したほうが良いかな?」
提案というより、確認に近い響き。
リュシアは金色の瞳でティナを見下ろし、短く頷く。
「そうね。でも、ただ治せばいいわけじゃないわ」
リュシアがしゃがみ込む。
彼女の冷たい指先が、ティナの砕かれた肩のラインをなぞった。
激痛に、ティナの体が跳ねそうになる。
その動きがまた苦痛をもたらすことは分かり切っている。
ティナは必死に耐えた。
「この様子だと、骨が砕けて筋肉に食い込んでいる。無理に治癒魔法をかければ、歪な形で固まってしまうわ。じっくり治療しないとダメよ」
冷静な分析。
まるで壊れた道具の修理手順を語るようだ。
だが、その言葉の意味を理解した瞬間、ティナは痛みを忘れて目を見開いた。
「……治る、と……?」
喉から、掠れた声が出る。
信じられない。
肩は砕かれ、脚は踏み潰された。
内臓も無事ではないはずだ。
フォールム神聖王国において、これほどの重傷を治せるのは高位の神官のみ。
それすらも、五体満足に戻る保証はない。
生き残ったとしても、廃人となる覚悟を固めていたのだ。
「切り落とされた腕を生やすほどじゃないわよ。部品が揃っているなら、繋ぐだけ。ま、簡単に、とは言わないけど」
だが、不可能でもない。
(そんな……馬鹿な……)
ティナの常識が根底から揺らぐ。
しかし、同時に思い出したこともあった。
人間の国には、一つの都市伝説がある。
『魔族の軍勢は、死んでも蘇り、無限に湧き出てくる』
恐怖の象徴として語られるその伝説。
だが、今ならわかる。
蘇るのではない。
人間の国では再起不能となるような負傷も、魔国ならば治療が可能なのだ。
(これが……魔国の力……)
圧倒的な武力だけではない。
神の御業すら凌駕する、生存への技術。
「……何をそんなに驚いているの?」
リュシアが小首を傾げた。
彼女にとって、治癒魔法は独学で修めた技術に過ぎない。
もちろん、幼年学校の年齢で実戦レベルで行使できる彼女は破格だが、概念自体は常識だ。
ティナの驚愕が、本心から理解できないようだった。
「リュシア姉様」
シエラが一歩、進み出る。
彼女はスカートの裾を正し、ティナを一瞥した。
「フォールム王国では、治癒魔法は聖職者の特権とされているようですわ」
シエラの言葉には、明確な軽蔑が滲む。
「なんでも、神に選ばれた聖職者にしか行使できない『奇跡』だとか」
「はぁ?」
リュシアが心底、嫌そうな顔をする。
美しい顔が、侮蔑に歪んだ。
「医療技術の独占? 呆れたわね」
吐き捨てるように言った。
「民草の命を救う技術を、権威付けの道具にするなんて。それに、怪我が治せなければ、ロクな鍛錬もできないじゃない」
死ななければ安い。
治る怪我なら恐れるな。
それが、彼女たち魔族の強さを支える根底の思想。
傷つくことを恐れて祈るだけの人間とは、生物としての在り方が違う。
――もっとも、そこまで割り切れる者は魔族の中でも一部だが。
「まあ、いいわ」
リュシアが、無造作に指先を向ける。
「痛いままじゃ、汚れを拭われるのも辛いでしょ」
指先から、魔力の波動が放たれた。
暖かな魔力が、ティナの身体を撫でるように包み込む。
途端、神経を苛んでいた激痛が、嘘のように遠のいた。
「あ……」
強張っていた力が抜ける。
感覚の遮断。
それもまた、高位の奇跡の筈だった。
それを子供が。
ましてや魔族が実現している。
痛みと共に、ティナの常識も霧散していく。
弛緩した身体を、兵士たちへ委ねるしかなかった。
硬く絞った手ぬぐいが、肌を滑る。
こびりついた泥が落ちていく。
乾いて張り付いていた体液が、拭い去られる。
無惨に汚されていた白い肢体が、闇の中に浮かび上がった。
リオスが掲げた松明の灯りが、その輪郭をなめらかに照らし出す。
「……リオス」
リュシアが弟の名を呼んだ。
その視線は、ティナの露わになった腹部あたりに向けられている。
「あなた、殺精の魔法は覚えたかしら?」
唐突な問い。
だが、リオスは動じることなく頷いた。
「うん、一応覚えたよ」
「なら、早めにかけてあげなさい」
リュシアが顎でティナを指す。
「早いほどいいわ。もし既に種を植え付けられていたら手遅れだけど、やらないよりはマシでしょう」
事務的な指示。
まるで道具の手入れでも命じるような口調だ。
ティナは、ぼんやりとした頭でその会話を聞いていた。
リオスが近づいてくる。
彼は松明をシエラに手渡すと、ティナの前に膝をついた。
「失礼するよ」
断りを入れてから、手が伸びてくる。 小さな掌。 その左手が、ティナの下腹部にそっと触れた。
「っ……」
温かい。
子供特有の高い体温と、驚くほど純度の高い魔力が、一気に流れ込んでくる。
(な、に……これ……!?)
殺精の魔法など、小手先の誤魔化しのはずだ。
なのに、この少年の魔力は、胎内の不浄どころか、絶望すらも洗い流すような説得力にあふれていた。
少年を見上げる。
リオスは真剣な眼差しで、ただ淡々と、彼女の深奥へ魔力を注ぎ続けていた。




