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【なろう版】魔国の勇者  作者: マルコ
幼年学校1年 :流民と盗賊団

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香の罠と、隻眼の巨獣

 洞窟の闇が大きく揺れた。

 巨大な質量が、這い出るようにして姿を現す。

 ミノタウロスだ。


 ミノタウロス族は総じて巨体である。

 だが、目前の個体は、通常の同族を2回りほど凌駕していた。

 全身は全裸。

 皮膚には糞尿と泥がこびりついている。

 獣特有の、重苦しい体臭を放つ。

 左の眼球は潰れていた。

 生々しい傷跡から、最近負った負傷だと知れる。

 その巨躯に見合う、さらに巨大な戦斧を携えていた。


 獣が、力強く足を踏み出す。

 洞窟の入り口に群生する花が、無残に踏みつぶされた。

 粘着質な油分が、岩肌に飛び散る。

 悪臭の底から、場違いな蜜の香りが立ち昇った。


「……っ」


 最前線の女性兵士が、不自然に肩を震わせる。

 彼女の視線は、獣の股間に釘付けとなっていた。


「大きい……なんて、太いの……」


 無意識の呟きが漏れる。

 兵士は即座に自身の失言に気づいた。

 顔を林檎のように赤らめる。

 だが、その瞳には湿った熱が宿っていた。


 周囲の男性兵士たちにも、異変が生じる。

 剣を握る手が、わずかに震えた。

 思考が、霧に包まれたように混濁する。

 戦うべき敵を前にして、下腹部にしびれるような違和感が走る。


「……くっ、この臭いは」


 グリードが鼻を突く匂いに、顔をしかめた。

 歴戦の勘が、この甘すぎる空気に警鐘を鳴らす。

 彼は鋭い嗅覚を研ぎ澄ませた。

 獣の腐臭に、なんとも言えぬ芳香が混じる。

 その源を求め、洞窟の周囲を凝視した。


 そこかしこに、その正体はあった。

 葉は濃い藍緑で、革のような艶を帯びる。

 花茎は短く、地面に張り付くように開花していた。

 花弁は5枚。

 外側は暗紅、内側には琥珀色の筋が走る。

 さきほど、ミノタウロスが踏みつぶした花も、これだ。


「禁制薬草……催淫花か」


 グリードが忌々しげに吐き捨てた。

 踏みつぶされた花から放たれる香が、兵士たちの正気を蝕んでいる。


 催淫花は、ヴァルゼルグ王国の土に根付く草ではない。

 この湿った岩場に似つかわしくない艶と色彩が、それを物語っていた。


 ならば、誰かが種を運び込んだに違いない。

 密売の乾燥実か、あるいは未加工の実か。

 それを運ぶ商隊を賊が襲った。

 腹を満たすために実を喰らい、洞窟の内外に糞を落とした。

 硬い種は、腹の中を抜けても死なない。

 糞の湿りと養分を寝床にして、芽を出す。

 結果、隠れ家周辺は催淫花の畑へと変わる――そんなところだろう。


 目の前の獣は、その“畑”を踏み荒らして出てきた。

 蹄が砕いた花の油が、脚へ跳ねる。

 腹へ塗り広げられ、体毛へ絡む。

 悪臭の鎧の内側で、蜜の匂いが煮詰まっていく。


「……ちッ」


 グリードの口元が歪んだ。

 喉の奥で舌を転がすように息を吐く。

 声を張り上げた。


「催淫花の群生地だ! 吸うな! 口と鼻を覆え! 風上へ寄れ!」


 だが、その叫びは遅すぎた。

 目の前にはミノタウロスだけでなく、まだ他にも賊が残っている。

 狂乱した獣どもは、自らも香りに当てられていた。

 異様な昂ぶりを見せている。


 兵たちは、すでに限界を迎えていた。

 催淫花の群生地の中で、全身に花の香をまとわせた賊どもと交戦していたのだ。

 1太刀浴びせるたびに、賊の体から濃厚な芳香が飛散する。

 兵士たちの呼吸は浅くなった。

 膝が笑う。


「う、うぅ……っ」


 誰かが呻き、剣先が下がった。

 男たちの瞳が濁る。

 号令の意味が、輪郭を失っていく。

 手の内が、汗で滑った。

 胸の奥が熱を持ち、頭の中に粘る甘さが残る。


 女も同じであった。

 頬を赤くしたまま、視線が跳ねる。

 敵の攻撃ではなく、裸の輪郭へ引かれてしまう。

 本人が歯を食いしばるほど、身体が裏切った。


 グリードは歯噛みした。

 強行偵察のつもりで、敵の巣へ踏み込んだ。

 だが、足元は罠だった。

 嗅いだ時点で、もう遅い。

 彼の喉に、鉄の味が湧いた。


 自分もまた、甘い罠に触れている。

 思考の端が粘り、判断が遅れる気配があった。

 その事実が、いっそう胸を刺す。

 敵は爪だけで殺しに来ていない。

 この洞窟そのものが、兵の正気を削る刃であった。


「僕が前に出る。君たちは下がって体制を整えて!」


 そう言って、ミノタウロスの前に進み出たのは、リオスであった。

 リュシアやシエラも、周囲の残党を処理する。

 兵たちを、巧みにサポートしていった。


 催淫花は、その名の通り、性欲を増大させる。

 俗に火照り花などとも呼ばれる。

 それはたしかに、リオスたちの年齢では、効果が薄いものであった。

 しかし――


「お逃げください! この状況では、お三方の安全が――!」


 グリードの叫びが響く。

 しかし、リオスは申し訳なさそうな顔で告げた。


「この討伐を言い出したのは、僕だ。――これは、僕のミスだよ。

 この状況では、撤退も難しいなら……僕がケリをつける!」


 その言葉は、リオスの責任感から出たものであった。


 この状況の責任というなら、追跡班たちが深く感じていた。

 もっと周囲を観察していれば、と。


 グリードの悔恨は、それ以上であった。

 メルヴィラ直々に、命令の優先順位を示された。

 にも関わらず、賊相手にこの体たらくだ。

 まともな戦闘どころか、気が付いたときにはもはや撤退もかなわぬほどに毒されていた。


「総員、風上まで――洞窟に対し、6時の方角に下がれ!

 固まって防御陣形をとる!」


 グリードは、結局、最も確実な手を打った。


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