7:見ていいのは、わたしだけ
夜と朝の境が曖昧な刻――東棟の廊下を、白と黒の影が音もなく進んでいた。
整った制服姿の少女――フィノア=リエル。
翡翠色の髪をきちりと結い上げ、手には洗面器と着替えを載せた盆を抱えている。
主の一日を始めるその足取りに、迷いも揺らぎもなかった。
(室温、湿度、魔力流動……問題なし。起床時刻も、予定通り)
彼女は扉の前に立ち、小さく息を吸って――鍵を静かに外し、扉を押し開けた。
「……リオス様。お目覚めの時間でございます」
そう囁くように声をかけながら、フィノアは寝室へと足を踏み入れる。
常夜灯の残光と、窓から差す淡い光。
その中央、白い寝具に包まれて眠る少年の姿があった。
布団に深く埋もれたその横顔は、まだ夢の中にいる。
胸がゆっくりと上下し、寝息は静かで規則正しい。
「……リオス様。朝でございますよ。……お身体に、触れますね」
フィノアは寝台の端に膝をつき、そっと布団の端を持ち上げ――肩に触れるように、手を添えた。
「……ん……ぅ……フィノ……?」
ようやく、まぶたがわずかに持ち上がった。
眠気の中で声を漏らしたリオスは、まだ意識がぼやけている。
「おはようございます、リオス様。今日は少し、お寝坊でしたね」
「……うぅ、ごめん……。なんか、変な夢見てた気がする……」
目を擦りながら身を起こしかけたその瞬間――
リオスの表情がぴたりと止まった。視線が、自分の布団の中へと向く。
「……っ」
腹の下――膨らみ。
思い出す。昨夜、フィノアから教わった“朝立ち”という言葉。
「……これ……もしかして……昨日のあれ……?」
顔が一気に赤くなる。
その呟きを聞いたフィノアは、表情を崩すことなく、静かに頷いた。
「はい。それは朝立ちと呼ばれる自然な現象でございます。……お身体の中に、少しずつ、芽生えが始まっている証拠です」
「……やっぱり、そうなんだ……。なんか、昨日も、変な感じはしてた。……でも、あの時は、何なのか分からなくて……」
「ええ。昨日は、違和感としての初徴候。……そして今朝は、それを知識と共に迎えられた、初めての自覚です」
フィノアの声には、ほのかな誇りが滲んでいた。
リオスはうつむきながら、そっと手を重ねて口元を押さえる。
「でも……今日あったってことは、明日もあるのかな。……毎日、こんな風になるの?」
その問いに、フィノアは小さく首を振った。
「いいえ、リオス様。まだ、しばらくの間は不安定でございます。
ある日もあれば、ない日もある。……それが自然な成長の過程なのです」
「そっか……じゃあ、なくても気にしなくていいんだね」
「はい。まったく、問題はございません」
リオスの頬の赤みが、少しだけ和らぐ。
それを見届けてから、フィノアは盆を静かに卓へと置いた。
◇
朝陽が完全に昇りきる頃、訓練は終わりを告げた。
剣を振るい、地面を蹴り、汗を流した身体は、すでに湯を求めていた。
屋敷の奥――石造りの浴場。
黒曜石で縁取られた湯船から立ちのぼる湯気が、朝の光を霞ませて揺れている。
脱衣所には、リオスとリュシアの二人きり。
互いに疲れの滲む顔を見せながらも、いつものように黙って着替えを始めていた。
「ふぅ……今日もいい汗かいたわね」
リュシアが襟元に手をかけ、さらりと運動着を脱ぐ。
漆黒の肌が露わになるたびに、湿った空気がそこに吸い寄せられたように揺れる。
シャツの下から現れた肩、引き締まった腹、しなやかに流れる腰のライン。
その全てが、鍛錬によって築き上げられた戦士の身体だった。
(……きれい、だ……)
昨日、フィノアに教えられた「女の身体の構造」。
昨夜の光景が、ふいに脳裏に浮かんでくる。
(……ここも……こうなってて……ああやって……)
視線が勝手に滑っていく。
(だめだ……何してるんだ、僕……)
慌てて目をそらそうとした、そのとき――
「……リオス?」
低く、澄んだ声が降ってきた。
金色の瞳が、じっとこちらを見つめている。
「……なんか、さっきから視線が……落ち着かない感じ、してるけど?」
「っ……!」
肩がびくりと跳ねた。
咄嗟に言い訳を探そうとして、けれど、何も出てこない。
「……ごめん。昨日、フィノに……性の話を教えてもらって……それで、なんか……頭の中が、勝手に……」
絞り出すような声で、そう言った。
リュシアの眉がわずかに動いた。
だが、怒りではなかった。むしろ、どこか納得したような、年長者の表情だった。
「……そう。じゃあ、仕方ないわね」
「えっ……?」
リオスが目を上げると、リュシアは、ふっと小さく笑った。
「知ったばかりなら、気になるのも当然よ。……男の子なんだもの。見るなって言っても、きっと無理よね」
「……うぅ……ごめん、姉上……」
顔を真っ赤にしてうつむくリオスの頭に、ぺたりと濡れた手が乗った。
その手は、あたたかく、そして優しかった。
「でも、見るのは、わたしだけにしなさい」
「……え?」
「いい? 使用人の女性を、昨日の学びを思い出してじっと見てしまうのは、絶対にやっちゃだめ。……彼女たちは、リオスに仕える相手であって、見られるためにいるんじゃないの」
リオスは、はっとして言葉を飲み込んだ。
リュシアの瞳はまっすぐだった。決して怒っているわけではない。
けれど、その言葉の奥には、姉としてのけじめが、確かにあった。
「じゃあ……姉上は……見ていいの?」
ぽつりと問いかけると、リュシアはふっと微笑した。
そして、ほんの一瞬だけ目を伏せ、答える。
「……本当はね。姉であるわたしだって、本当は、将来の夫にしか見せちゃいけないのよ」
「えっ……でも、いつも一緒に入ってるし……」
「だから――」
リュシアは、くるりとタオルを手に振り返り、弟の目を真っすぐに見据える。
「わたしの身体を、本当に見ていい人になりたいなら――ちゃんと、夫になれるように努力しなさい」
「……お、夫……」
その響きに、リオスの顔が一気に熱を帯びる。
思わず湯気の中でむせそうになった。
「なれるかどうかは、リオス次第よ? わたしの夫になる資格を、ちゃんと手に入れなきゃ、ダメ」
そう言ってリュシアは、弟の頭をタオルでごしごしと拭いた。
「ふふ、いいわね。ちゃんと目指しなさい。……わたしを見ていい男に、なることを」