契約
勝負の内容も余興の内容もここでは書けませんので、悪しからず……
長椅子の上で意識を取り戻したとき、リオスはまず、芳醇な香りと、頬に当たる布地の微かな摩擦を感じた。
混乱で熱を持っていた頭部が、まるで氷の上に置かれたように冷やされていく。
「……フィノ?」
声を出すと、淡い翡翠色の瞳がゆっくりと瞬いた。
メイド服を着なおしたフィノアが、彼を優しく見下ろしている。
「お目覚めになられましたか、リオス様」
フィノアの指先が、リオスの黒髪をそっと撫でる。
その穏やかな温もりが、フィノアの勝負と、リリシアとの余興が過去のものとなったことを告げる。
「ありがとう。……勝ったんだね」
「はい」
フィノアの表情には、主の期待に応えられた誇りと、勝負の余韻が残っていた。
その二人の間に、艶やかな声が滑り込んできた。
「ええ、その通り、その娘の勝ち。
約束通り、私が自ら幻惑を教えるわ」
声の主――リリシアは、いつもと変わらぬ、優雅な佇まいだ。
しかし、彼女が腰掛けているモノに問題があった。
ソファにではなく、生きた調度品に腰掛けている。
レーポスだった。
手足を折りたたんで拘束され、リリシアがちょうど良い高さで腰掛けられる姿勢を強制されていた。
目には、視界を遮断する黒い目隠しが巻かれ、口には球状の口枷が噛まされている。
彼女の自由は、完全に奪われていた。
「っ……んん、ぐぅ……!」
口枷の奥から漏れるのは、情けない鼻にかかった呻きだけ。
レーポスの全身の肌は、既に羞恥と興奮で濃い紅潮に染まっている。
目隠しの下からは、熱い雫がとめどなく流れ出て、頬を伝っていた。
リリシアは、その敗者に座ったまま、優雅に脚を組み替えた。
その動作のたびに、レーポスの身体は「椅子」として軋む。
「あら、コレが気になる?」
リリシアは、リオスの視線を察したように、椅子の尻をピシャリと打った。
「くぅ……ッ!」
「私に口ごたえして、その上勝負にも負けたんだもの。このくらいは当然だわ」
「あの……あまり酷いことは……」
そのあまりの姿に、リオスはつい口を出す。
「あら、他人の従者にもお優しいこと。
でも、ダメよ。
必賞必罰。失敗には、罰を与えなければいけないわ。
そして、勝者――その娘には、たっぷりと褒美を与えてあげなさいな」
「それは、もちろんです」
リオスの言葉に、フィノアは「もったいないことでございます」と頭を下げる。
それを、微笑ましく見たリリシアだが、話を本題に戻す。
「さて、早速、明日にでも教えに行くわ」
リリシアは、身動きの取れないレーポスの背中を椅子として利用したまま、続けた。
「でも、対外的な問題もあるし、教える当人たちが委縮するでしょうから、私も姿かたちは変えるわよ」
「そこは、やりやすいようにしてください」
リオスは頷き、リリシアの控室から辞するのだった。
◇
廊下には、フィノアの姉であり、リオスの母セラの従者でもあるリリノアが、ひっそりと立っていた。
「リオス様。お疲れ様でございます」
リリノアの声は澄んでいた。
「メルヴィラ様からお呼び出しです。グリムボーン家の控室へ」
リリノアは二人の前方へ進み、リオスとフィノアは、その後に続いた。
グリムボーン家の控室の扉が開くと、部屋の中は、張り詰めた緊張感と、温かな安堵が混ざり合った空気に満ちていた。
長椅子に座るメルヴィラ、そしてリュシア、シエラ、セラ、バルトロメイの全員が、リオスたちに視線を集中した。
「リオス様! ご無事で!」
シエラが立ち上がりかける。隣のセラも、小さく安堵の息を漏らした。
「ふん。心配なんてしてないわよ、リオスなんだから」
リュシアは、相変わらずの態度だが、その瞳に緊張の弛緩が見て取れた。
リオスは、まずバルトロメイに向き直った。
「父上。申し訳ございません。僕は、言いつけを破って、リリシア殿と会話をしてしまいました」
リオスの謝罪に、バルトロメイは、固く結んでいた口元をわずかに崩した。
「……リオス。無事で戻ったな。それが何よりだ」
「まったく。心配しすぎですよ」
とセラ。
「ええ。杞憂だったでしょう? リオスの顔を見ればわかる。目的を果たしたのよ」
メルヴィラは、その紅い瞳を細め、リオスの目を見た。
「あのね、リオス。この人ときたら、あなたがリリシアに付いて行った。と聞いた途端に、今すぐにでも乗り込もうとしたのよ。私が止めたの。
おかげで、結果は上々ね。リオスの顔には、望みのものを手に入れた満足が満ちている。よくやったわ」
メルヴィラの賞賛に、リオスは照れくさそうに頭を下げた。フィノアも、主人の成功を傍らで微笑む。
「とはいえ、よ」
メルヴィラの声が、一瞬で温度を失った。
「『リリシアへの接触禁止』を、あなたが破ったことは事実。
これは、グリムボーン家という組織の命令系統に対する違反です。
後で、しかるべき罰を与えるわ」
リオスは身を引き締めた。
「はい。承知しています」
メルヴィラは、次にフィノアへと向き直った。
「そして、フィノア。あなたもよ。
あなたはリオスの従者でありながら、『リオスがリリシアに接触しないようにする』という命令を無視した」
リオスは、即座にフィノを庇った。
「母上、待ってください。フィノは悪くない。
僕が、どうしてもリリシアさんと話したいと頼み込んだんです。
彼女は、僕の願いを聞いてくれただけです」
「リオス」
メルヴィラは冷ややかにリオスを制した。
「彼女があなたの従者であることは事実。
しかし、あなたの従者である前に、彼女の指揮命令の優先順位は、バルトロメイ、そしてその上の私にある。
これはグリムボーン家における組織の原則よ」
フィノアは、リオスの背後に一歩下がり、深く頭を下げた。
「……申し訳ございません。
命令違反の事実は間違いございません。
いかような処分もお受けします」
「フィノ!」
リオスはなおも弁護しようと前に出る。
「黙りなさい!」
メルヴィラが、鋭い声でリオスを止めた。
「リオス、これが現実よ。
このように、主人の軽率な行動のせいで、部下が割を食うということがある。
あなたは、先にバルトロメイや私に相談するなど、もっと慎重に行動するべきだった。
部下のことを考えない者は、いつか必ず足をすくわれるわ」
リオスは、愕然とし、己の浅慮を恥じた。
「……その通りです。僕が、軽く考えていました。深く反省します」
リオスの反省を確認したメルヴィラは、紅い瞳をフィノアへと向けた。
「命令違反、誠に遺憾だわ」
そして、メルヴィラは、誰にも予想できない冷酷な沙汰を言い放った。
「フィノア=リエル。あなたは、グリムボーン家付きの従者を解雇します」
その場の全員が、息を飲む。
フィノアは、まるで覚悟を決めていたように、その場で深々と頭を下げ、沙汰を受け入れた。
「……承知いたしました」
「そんなっ! 母上!」
リオスは慌てて、長椅子に座るメルヴィラの元へ駆け寄った。
「やめてください! 解雇なんてしないで! フィノは僕が、僕が一番信頼している従者なんだ!
彼女が従者でなければ、僕は嫌だよ!
彼女は……大切な人なんだ!」
リオスは、大切なものを失う恐怖に、涙を浮かべてメルヴィラに懇願した。
メルヴィラは、その真剣な目を見据え、一呼吸置いた後、冷酷だった表情を、優しげな微笑みへと変えた。
「――そう。そんなに手放したくないのね」
メルヴィラは、肘掛けに頬杖をつき、優雅に提案した。
「だったら、自分で雇いなおしなさい」
「え?」
リオスとフィノア、そして部屋の面々は、一斉にメルヴィラを見た。
「リオス。あなたには、あなた個人の領地があり、そこから扶持が入っているわ。
その中から、従者を何人か雇うくらいの財力はある」
貴族は子供に小さな領地を与えることがある。
多くは、家督を継がない子供の個人的な支出を賄うための財源となる。
それを使えということだ。
「あなたが直接フィノアの主人となれば、指揮命令の優先順位で悩むこともないでしょう。
ただし。グリムボーン家の直属の従者ではなく、リオス個人の従者となる。
そのために、彼女の『格』は大幅に落ちることになるわ」
メルヴィラは、フィノアへと向き直る。
「それこそ、優秀な貴女が、今からヴェルファーン家などに鞍替えするほうが、よほど良いでしょう。
今なら、私から紹介状くらいは書いてあげるわよ。どうかしら?」
リオスに仕えるということは、キャリア、格、将来の展望。全てを捨てるという選択。
「フィノ!」
リオスは、フィノの前に進み出た。
「僕に仕えてほしい!
頼りないかもしれない。格は今、最底辺かもしれない。種族だって人間だ。
それでも、将来は大魔将になって、必ず君を最高位の従者にしてみせる!
だから、僕の従者でいてほしい!
絶対に、後悔はさせない!」
涙ながらの、主人の熱烈な懇願。
その言葉に、フィノアの瞳からも大粒の涙が溢れた。
彼女の視線は、リオスの真摯な瞳から離れない。
フィノアは、口元を覆い、しゃくりあげながら、その場に跪いた。
「リオス様……! 光栄に、存じます……!」
彼女は、涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げ、強い決意をその目に宿した。
「わたくしは、生涯、リオス様の従者として、この身と魂を捧げます!」
フィノアの宣誓に、部屋の面々から、祝福の溜息と、小さな拍手が漏れた。
メルヴィラも、満面の笑みを浮かべる。
「そう。良かったわね、フィノア。
では、きちんと契約をしなければなりません」
メルヴィラは立ち上がると、リオスの肩に手を置いて告げた。
「リオス。あなたへの罰は、今夜中に、フィノアと正式な契約をやり遂げることよ。
契約書の書き方、やり方をしっかり覚えなさい」
「はいっ!」
この日、フィノアは正式にリオス自身の従者となったのだった。




