6:父の証明、母の血
「……ここまでお話ししたところで、もうひとつ、大切な違いについてお伝えいたします」
彼女の声には、少しだけ硬さが混じっていた。
けれどそれは恥じらいではなく、“この話は慎重に扱うべき”という、自らへの戒めに近いものだった。
「それは――役割の違い、でございます」
リオスがまた少し背筋を伸ばし、真面目な目つきで頷く。
「……男と女で、違うってこと?」
「はい。簡潔に申せば――女性の身体は、受け入れるためにできております。
対して男性の身体は、外に向けて放つための構造をしております」
フィノアの語りは落ち着いていた。
口調はあくまで淡々としながらも、要点を正確に伝えている。
「女性の身体には、先ほど言った子宮という器官があり、そこに男性から与えられた種が入り、受け入れられることで、新しい命が育ち始めます」
リオスの表情が、少しだけ引き締まった。
幼いながらも、その責任の重さを直感で感じ取ったのだろう。
「……その、種って、男のひとから出てくるの?」
フィノアは、目を逸らさずに答える。
「そうです。そこから白濁した液体として、種が放たれます。
これは、成長に伴い自然と出せるようになりますが、現時点ではまだその兆候が現れていない段階かと存じます」
「……それって、どんなときに?」
「それは……少しずつ、今後お教えしてまいります。
ただ今は、男性の身体は、命を送り出す役割を持つ――
そう、覚えていただければ十分でございます」
リオスは静かに頷いた。
やや顔が赤くなっていたが、それでも真剣な面持ちだった。
「……それで、命が、女の人のお腹に入って……」
「はい。女性は、その命を体の中で育てます。
そして、種族によって期間には違いがございますが――たとえば人間やオーガであれば、おおよそ十月ほどかけて、赤ん坊が生まれてまいります」
「十月……それって、すごく長いよね」
リオスは、指を折りながら数えてみようとしたが、途中で数えるのをやめた。
それがどれほどの時間か、体感としてはまだ理解できていないのかもしれない。
フィノアは、微笑みを含んで優しく補足する。
「その間、女性の身体は少しずつ変化してまいります。お腹が大きくなり、内側で赤ちゃんを守る構造になります。そして、先ほど申したように、胸も張り、大きくなり、赤ん坊に乳を与える準備が整えられるのです」
「……それって、すごいな」
ぽつりと、リオスは言った。
それは敬意でも畏れでもなく、純粋な感嘆の声だった。
命が宿り、育ち、外に出てくる。
まだ子どもである彼にとって、その奇跡はとても神秘的に映ったのだろう。
「はい。……だからこそ、性というものは、大人になってからでないと行えない行為であり、また、決して軽々しく扱うべきではないものでございます」
フィノアの声は、静かに重みを増していた。
「命を与え、受け入れる。――それは、とても大切なことなのです」
話を聞きながら、リオスはふと視線を落とし、何かを考えるように黙り込んだ。
そして、眉間にしわを寄せると、ぽつりと口を開いた。
「……あれ?」
フィノアは、すぐにその小さな変化に気づいた。
静かに、問い返すように首を傾げる。
「どうかなさいましたか?」
「うん……その、種って、男の人の体から出るんだよね? で、女の人の中に入る」
「はい。そのとおりでございます」
リオスは、ひと呼吸おいてから、真剣な目で言った。
「でも、それなら……赤ちゃんが生まれても、誰の種だったかって、分からないんじゃない?」
それは、驚くほど核心を突いた疑問だった。
フィノアは、一瞬だけまばたきをして――やがて、ふわりと微笑んだ。
「……リオス様は、本当に聡いお方ですね」
そう称えたあとで、彼女は静かに頷く。
「おっしゃる通りでございます。
――昔と比べれば、魔法や薬術は発達しておりますが、誰の種によって命が宿ったかを明確に証明する手段は、今も存在しておりません」
「……じゃあ、男の人は、父親かどうかを確かめられないんだ」
「はい。逆に申し上げれば――母親が誰かは、確実に分かる。
命を産むのは、いついかなる時代も女性だからです」
そこで、フィノアは軽く口調を整えた。
次の言葉には、魔国という社会の根幹に関わる理が含まれていた。
「だからこそ――この国の貴族のほとんどは、女系継承なのです」
リオスは、目を見開いた。
「……母親の血を、たどるってこと?」
「はい。確実にその人の子であると証明できるのは、産んだ母親だけです。
ですから、魔王家を含む貴族や名家のほとんどは、跡継ぎを娘の系譜で残すことを基本としております」
淡々とした口調ながら、その言葉のひとつひとつに、貴族社会の歴史が滲んでいた。
「……男の人が継ぐことは、ないの?」
「絶対にないわけではありません。
ただ、証明できぬ血をめぐって混乱が起きるのを避けるため、女性が中心という形が、最も安定していると考えられているのです」
リオスは、小さく頷いた。
子どもらしい素直さと、戦略家としての冷静な思考が、その中で同居している。
「……たしかに、誰の子か分からなかったら、跡継ぎをめぐって争いになるかも」
「まさに、そうなのです。
だからこそ、母の系譜を中心とした家系管理が、常識となっております。
命の証明は、誰が産んだか――それだけが、確かなこと」
そう語るフィノアの声音には、理を教える者としての敬意がこもっていた。
リオスは、少しだけ目を伏せて、静かに呟いた。
「……じゃあ、僕が父上の子って言えるのは……父上が、そう言ってくれたから、なんだ」
フィノアは、しばし黙してから、そっと微笑んだ。
「……そうですね。でも、それは、証明よりも、もっと強いもの――信頼でございます」
「信頼……」
「バルトロメイ様が、我が子と認め、育ててこられたことこそが、何よりも揺るぎない絆なのです。
証明などなくとも――リオス様は、グリムボーン家の子息です」
フィノアの静かな言葉に、リオスは少しだけ俯いた。
――信頼。絆。
そう言われれば、確かにバルトロメイは、父として自分を育ててくれている。
けれど、それでも、ふと胸の奥で浮かぶ問いがあった。
「……でも」
ぽつりと漏れたその声に、フィノアが静かに視線を向ける。
「……僕が生まれた時、父上と、かあ様が、ちゃんと……その、そういう関係だったって、どうして分かるの?」
フィノアは、目を逸らすことなく微笑んだ。
ただし、その笑みは少しだけ色を変えていた。
まるで――それを問うた少年のまっすぐさに、どこか誇らしさを感じているようでもあった。
「とても重要な疑問ですね、リオス様」
そう前置きし、フィノアは丁寧に言葉を紡ぐ。
「ですが、誰が父親であるかは、誰が母親であるかほど明確に証明する手段がございません」
リオスは黙って頷く。
「“誰が産んだか”は事実であり、“誰の妻が産んだか”は、慣習です」
「……妻が産んだ子は、その夫の子、ってこと?」
「はい。妻の腹から産まれた子は、その夫の子と見なされます。
それが、法でもあり、慣習でもあります」
言葉に揺らぎはなかった。
「……でも、実際に、そのときに父上が……その……」
リオスは、さすがに言葉を濁した。
フィノアは微笑みながら、ゆっくりと首を横に振った。
「実際に父の種であるかどうか――それを確かめる術は、ございません。
そして、この国では、そこを“問うべきではない”という文化が根づいております」
「……問わない、ってことが、当たり前なんだね」
「はい。母親が“夫の子として産む”と宣言すれば、それが全てです。
だからこそ、“妻が産んだ子”という立場は、重く、そして揺るがないものとされるのです」
リオスは、しばし黙ってから、小さく息を吐いた。
「……なるほど。じゃあ、僕も、“父上の妻が産んだ子”だから、父上の子、なんだ」
「その通りでございます」
フィノアの声には、微かに安堵が含まれていた。
事実は語っていない――だが、理屈としては何ひとつ偽っていない。
この国において、それは“実子”と認定されるに十分な根拠だった。
バルトロメイの実子であるかどうかという“実際”よりも、妻セラが産んだという“立場”こそが、すべてを決定する。
「……ありがとう、フィノア」
リオスは小さく呟いた。
その言葉には、疑念を打ち消そうとするような力強さと、どこか微かな安堵が滲んでいた。
フィノアの説明を静かに聞いていたリオスが、ふと目を伏せた。
その瞳には、まだ言葉にならない考えが、ゆるやかに浮かんでいた。
「……なんか、不思議だね」
「何がでしょう?」
問いかけると、リオスはゆっくりと顔を上げた。
「男の人がすごく強かったり、戦ってたりするのに……“母親の血”の方が大事にされてる。なんだか、逆みたいだ」
フィノアは、少しだけ目を細めて微笑む。
そして、言葉を選ぶように口を開いた。
「ええ。確かに、戦場や剣の世界では、男性が優位に立つことが多いのは事実です。
けれど――血筋や家系というものは、戦いではなく、確かさを求められる領域です」
彼女の声は、静かに、けれど深く響いた。
「誰の血を継いでいるか。どこの家の者か。
それを明確に示すには、産んだ者の存在が、何よりも強い証となります。
だからこそ――女系継承なのです」
リオスは、じっと考え込むように、唇を引き結んでいた。
そして、思い出したように言葉を続ける。
「じゃあ……うちの場合も?」
「はい」
フィノアは、ゆっくりと頷いた。
「現在、バルトロメイ様は当主として振る舞っておられますが――
あくまで“代行”であって、“名義上の正式な当主”は、メルヴィラ様です」
「……そうなんだ?」
「はい。メルヴィラ様は、グリムボーン家本流の嫡女。
その魔族としての血統と、参謀としての知略、そして当主としての才覚により――
婿として迎えられたのが、バルトロメイ様なのです」
リオスの目が、驚きに見開かれる。
「……父上が、婿入り?」
「はい。ご存じなかったのも無理はありません。
バルトロメイ様の存在感と実力は、あまりに圧倒的ですから、
外から見れば“バルトロメイ様が当主”と見えるのは当然のことです」
フィノアは、くすりと笑んだ。
「ですが、書類や儀礼、権限の根幹において、“家の名義”は常にメルヴィラ様のもの。
その上で、戦や実務はすべて、バルトロメイ様が執り行っておられます」
「じゃあ……次の当主は?」
「順当にいけば、リュシア様です」
それは当然のように、まっすぐな口調で語られた。
「リュシア様はメルヴィラ様の実子であり、かつ、家の血統を正式に継ぐことができる直系嫡出の後継者。
誰もが認める、文句のない“次期当主”でございます」
リオスは、しばし黙っていた。
その間に、彼の中で何かが整理され、まとまりつつあるようだった。
「……じゃあ、僕が強くなって、“家を継ぐ”ってことは、ないんだね」
「“血統だけを見れば”――その通りです。
ですが、魔族社会は、実力主義の側面も強くございます。
力で奪うこと、叩き潰して勝ち取ること、それもまた“正しき継承”の一形であるとされております」
「……でも、姉上が継ぐっていうのは、なんか、納得できる」
その言葉は、負けを受け入れたものではなかった。
姉という存在を、心から信頼し、尊敬しているからこそ出た声だった。
フィノアは、深く頭を下げた。
「……リオス様は、本当に、懸命に考えておられますね」
その声音には、どこか喜びすら滲んでいた。
少年はひとつの扉を開いた。
それは、誰もが通る成長の過程であり、決して避けては通れぬ“学び”でもあった。
この後の出来事――それについて語ることは控えよう。
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