夜の客間にて
夜の帳が降り、王都別邸の廊下に灯りの帯が連なっていた。
照明の光は淡く磨かれた床を照らし、月を裂くように反射している。
リオスは自室の机に向かっていた。
ランプの焔が紙面を舐め、影が手首のあたりで揺れる。
幼年学校で受けた講義の復習を終え、筆を置く。
胸の鼓動が早い。指先が勝手に硯の縁をなぞった。
短く息を整え、もう一度、紐綴じの資料を引き寄せる。
デュラハン族の章。
首級と行動の関係、冷気耐性、斬撃と刺突への通りの差。
一般的な資料で、目新しさはない。
けれど、ページを繰るたびに昼の決闘の感触が甦る。
刃筋、踏み込み、追い足。紙の匂いに鉄の味が混じった気がして、リオスは小さく息を吐いた。
窓の外を雲が流れ、ランプの光がゆるむ。
彼は姿勢を正し、余白に短いメモを書き込んだ。
それは、決闘で得た感覚の記録。
今後また相対する時、どう動くべきかの覚え書きだ。
同じ種族でも個体差はある。
このメモがどれほど役立つかは分からない。
それでも、リオスは考察を怠らなかった。
たとえ“勇者”の力があっても、彼は人間だ。
種としての劣勢を覆すには、知識と戦術しかない。
――智と策を磨けば、体力も魔力も凌駕できる。
リオスはそれを信じていた。
◇
控えめなノックが響いた。
「どうぞ」と返すと、取手が回り、侍女のアンナが姿を見せた。
小さく礼をし、足音を極力抑えて近づく。
「リオス様、失礼いたします」
涼やかな声が部屋の空気を切った。
リオスは顔を上げ、椅子から半歩だけ腰を浮かせる。
「ファルミナス家のセリーネ様がご来訪です」
紙の角を握る指に、わずかに力が入る。
視線を侍女へ向け、呼吸をひとつ整えた。
「リュシア様が客間で応対中です。
準備が整い次第、こちらへ伺うとのこと。
それまで自室でお待ちください、との伝言です」
「わかった。姉上によろしく伝えて」
短いやりとりののち、アンナは礼をして退室する。
扉が閉まり、蝶番の音が消えた。
静謐が戻る。
資料へ視線を落とすが、文字は黒い帯となり、意味を結ばない。
リオスはゆっくり椅子を押し、立ち上がった。
床の冷たさが足裏を伝う。
月が雲間から顔を出し、銀の光が部屋を満たした。
彼は扉を見つめ、静かに待機の姿勢に入る。
灯りの輪が狭まり、気配だけが濃くなる。
◇
夜の王都別邸、客間には柔らかな灯が満ちていた。
飾られた花の香りが甘く漂い、燭台の火が金糸のように壁を照らす。
窓の外では、石畳を行く馬車の車輪がかすかに響く。
リュシアは脚を組み、卓上の皿に並ぶ菓子をつまんでいた。
漆黒の肌に藍の布が映える。金色の瞳が火を受けてきらめく。
向かいの椅子に座るのはセリーネ=ファルミナス。
深紫の髪が肩で揺れ、黒と紫の色が夜の光に溶けていた。
「最近、新しい店が増えたわね」
リュシアが葡萄を指で転がしながら言う。
「昨日、学舎通りの角にできた菓子屋に行ったの。見た目は可愛いけど、味は……まだ伸びしろありって感じ」
「銀狐亭の隣の店でしょ?」
セリーネは苦笑した。
「行列してたわよ。生徒たちの間で噂だった」
「みんな、可愛い包装に弱いのね。中身よりリボン」
「それ、あなたもでしょ」
二人の笑い声が重なり、燭火がふわりと揺れた。
「そういえば、南方から来た喫茶店も話題よ」
セリーネの身体が頭部の口に菓子を運ぶ。
「香草茶が美味しいって聞いた」
「アリアが行ったらしいわ。3時間も居たんですって」
「3時間? お茶のはずじゃ……」
「店主が魔術書コレクターらしいの。見せてもらってたって」
「なるほど、納得」
顔を見合わせて笑う。
杯の中で赤い液が揺れ、音だけが静かに響く。
「そうだ、学院の噂。最近また増えたでしょ?」
「どの話?」
「演習場で幽霊を見たとか、図書塔で告白したら落第するとか」
セリーネが吹き出す。
「ああ、それ。毎年の恒例ね」
「でも今年のは少し怖いわ。“謎の光球”が浮かんでたって」
「やめて。それ、うちの寮から見える塔の話でしょ」
「冗談よ。夜警の新しい兜の反射。警備員の趣味だって」
「……情報早いわね」
「性分よ」
「ほんと、あなたらしい」
やがて笑いが静まると、リュシアの表情が少しだけ引き締まった。
「さて――本題に入ろうか」
「……そうね」
空気が一段沈む。
リュシアの声には、もう軽さがなかった。
「敗者は、勝者の望むままに一晩を捧げる。それが約束」
「異論はないわ」
セリーネは静かに頷いた。
侍女を下がらせ、部屋は二人きりになる。
灯の音が近くなり、空気が少し熱を帯びた。
「ねえ、リュシア。私の“からくり”、見破ってたの?」
リュシアは短く笑う。
「からくり? そんなものあると思ってなかったわ」
「じゃあ、どうしてあんなに冷静に――」
「叩き潰すだけよ。正面から、ね」
強者特有の静かな迫力。
セリーネは悔しさよりも清々しさを覚えた。
「やっぱり敵に回したくないわね」
「でも、あなたとはまた戦いたい」
「……ありがとう」
リュシアは金の瞳を細め、穏やかに微笑んだ。
「それでね、次の話題」
「次?」
「恋の話」
セリーネは思わずむせる。
「……は?」
「せっかくだから聞いておきたいの。想い人は?」
「いないわ。今は鍛錬が先」
「婚約者は?」
「いない。今どき、幼年学校で婚約してるのはグリムボーンとルキフェルくらいよ」
「ふふ、確かに」
「あなたは?」
「私? 決まってるわ。リオスよ」
その声には、芯のような強さがあった。
セリーネは眉を上げる。
「……弟じゃない」
「そうよ」
「古風ね」
「慣習なんて関係ない。あの子以外に考えられないの」
リュシアの瞳が揺るがない光を宿す。
「私より強くならなきゃ、夫にはできないけどね」
「負けたらダメなの?」
「勝たなきゃダメ。オーガの女は力で相手を選ぶものだから」
セリーネはその言葉を胸の奥で転がした。
人間がダークオーガに勝つ――そんなこと、常識ではあり得ない。
けれど、リオスは非常識を成し遂げた。
デュラハンの自分にさえ勝ったのだ。
敗北の痛みより、奇妙な誇りが胸の奥に灯る。
「……あの勝負、見事だったわ」
「ええ」
「悔しいけど、爽やかだった」
「そう言ってもらえるなら、嬉しいわ」
二人の間に穏やかな静けさが降りた。
燭台の火が小さくはぜ、金の光が揺れる。
「それでね、セリーネ。本番の経験は?」
リュシアが漆黒の指で卓を軽く叩く。
その声は、さっきまでの柔らかさを脱いでいた。
「……座学の性教育くらいよ。実技なんて、あるわけないでしょ」
セリーネの頬に、じんわりと赤が差す。
自慰すらしたことがない。
外面は落ち着いて見せていても、内心は不安と期待でざわめいていた。
「リュシアこそ、どうなの?」
羞恥を紛らわすように問い返す。
「私? 本番はまだ。
でも、リオス相手に“いろいろ”試してるわ」
「……弟でしょう?」
「弟だから、よ。身体の教育も私の役目」
セリーネは思わず口を噤む。
背筋に、微かな熱が走った。
「じゃあ今夜のことも、その“教育”のうち?」
「半分はね」リュシアが笑む。
「貴女の身体が、あの子に教えるのよ」
その言葉に、セリーネは息を詰める。
背徳と興奮がないまぜになった感覚が、胸の奥をくすぐった。
「――それじゃ」リュシアが椅子を引く。
「そろそろ準備をしましょうか」
「準備?」
「これからリオスに会うんだから。それなりの格好でね」
「……そうね」
リュシアがくすりと笑う。
「湯あみは済ませたでしょうけど、もう一度。
あの子、湯上りの香りに弱いの」
「そんなことまで知ってるの?」
「姉だから」
軽口に混じる熱。
セリーネは深呼吸し、立ち上がった。
「……覚悟はできてる」
「よろしい」
リュシアも立ち上がり、二人で浴室の方へ歩いていった。
――夜は、静かに深まっていく。




