60:火を託す者たち
夕刻、太陽が西の空に傾き、茜色の光が下町の路地を染め上げていく頃。
娼館の前に、リオスは従者であるフィノアと共に立っている。
日中の喧騒が和らぎ、これから夜の活気が始まる前の、どこかアンニュイな時間帯だ。
リオスは、普段足を踏み入れることのないこの場所にわずかな居心地の悪さを感じながらも、自身の決意を固め、約束の人物を待つ。
フィノアはリオスの半歩後ろに控えるように立ち、その瞳で周囲を静かに見渡している。
ほどなくして、娼館の扉が内側から開く。
店の中から出てきたのは、メンサだ。
日中の陽光の下では、夜の喧騒に紛れる妖艶さとは異なる、どこか実直で、働く女性の美しさが際立つ。
その唇は艶やかで、わずかに弧を描くたびに、人を惹きつける魅惑的な雰囲気を漂わせる。
「あら、坊っちゃん。フィノアさんもご一緒に。ずいぶんお待たせしちゃったかしら?」
艶やかな声が、リオスの耳に届く。
彼女の言葉に、リオスは深々と頭を下げる。
「いえ、今来たばかりですので。お疲れのところ、わざわざお時間をいただき、申し訳ありません」
彼はそう答えるものの、実際には数分前からここに立っていた。
だが、彼女を待つ時間すらも、自身の決意を固めるための大切な時間であるように思える。
「それで、改めて、今日はお話ししたいことがあると?」
メンサは腕を組み、わずかに首を傾げる。その仕草すら、どこか計算されているように見える。
彼女の視線には、リオスの真意を測るような、挑発的な好奇心が含まれている。
リオスは小さく息を吸い込む。彼女の視線にも臆することなく、メンサの目を見つめる。
「はい。生徒会の正式な依頼として、改めてメンサさんの力をお借りしたく参りました」
リオスの顔は真剣そのものだ。
その瞳の奥に宿る決意に、メンサはふっと笑みをこぼす。
その笑みは、先ほどの挑発とは違い、どこか純粋な好奇心が混じっているように見える。
「ふぅん、そこまで本気で言ってる顔してるなら、しょうがないわね。
ビルグさんにも恩があるし、正直、やってみたいしね」
彼女はそう言って、リオスの隣に並び立つ。夕陽の最後の光が、彼女の艶やかな髪を照らす。
「ありがとうございます、メンサさん!」
彼の声は、夕闇が迫る下町の路地に響き渡る。
メンサはそんなリオスの様子を見て、静かに微笑む。
それは、娼婦としての営業スマイルとは違う、どこか純粋な笑みのように見える。
彼女の心にも、リオスの熱意が火を灯したのかもしれない。
◇
夕暮れ時、下町の屋台街は、活気と匂いの坩堝と化している。
焼けた油の香ばしい匂い、湯気の中で響く食材を炒める音、そして客を呼び込む威勢の良い声が、リオスの耳に飛び込んでくる。
幼年学校の厳格な雰囲気とはかけ離れた、雑多で力強い生命力に満ちたこの場所は、貴族の子息であるリオスにとって、普段足を踏み入れることのない異世界だ。
彼は、このような場所の活気にどこか圧倒されながらも、新たな世界への扉が開かれているような不思議な感覚を覚える。
メンサは、そんなリオスの様子を面白そうに眺めながら、慣れた足取りで屋台と屋台の間を縫うように進んでいる。
彼女は時折、知り合いの店主に声をかけ、軽口を叩き合っている。
その立ち居振る舞いは、この下町で長年培われた自信と、人を惹きつける天性の魅力を感じさせる。
彼女の持つ、どこか人を惹きつける妖艶さも相まって、この界隈では一目置かれる存在だ。
店主たちも、メンサの姿を見かけると、忙しい中でも笑顔で応じている。
「坊っちゃん、あの店よ。ここの店主は腕がいいし、根性もあるわ」
メンサが指差す先には、年季の入った屋台が煙を上げている。
炭火で焼かれた肉の香ばしい匂いが漂ってくる。
リオスはメンサの後ろについて、屋台の前に立つ。
フィノアもまた、リオスの隣に寄り添うように立っている。
「あの、すみません。少々お時間をいただいてもよろしいでしょうか?」
リオスの礼儀正しい、しかしどこか堅苦しい声に、屋台の主は怪訝な顔で振り向く。
額に汗を浮かべた厳つい顔つきの男は、リオスの制服を見ると、警戒するように目を細める。
彼にとって、幼年学校の人間は上流階級の象徴であり、自分たちとは縁遠い存在なのだ。
「なんだ、坊主。こんなところで何の用だ? 買わねぇなら邪魔だぜ。今、忙しいんだ」
男の言葉には、商売を邪魔されたことへの苛立ちが滲んでいる。下町の職人気質が強く表れている。
「実は、幼年学校の食堂の件で、お力をお借りしたく参りました。リオス=グリムボーンと申します。
そして、こちらはビルグさんのところのメンサさんです」
リオスがメンサを紹介すると、男の表情がわずかに和らぐ。
メンサが娼館の娼婦の傍ら、厨房の手伝いをしているサキュバスであることは、下町ではある程度知られていることだ。
彼女の存在が、リオスの言葉に信頼性を与えている。
「おや、メンサ嬢か。それにビルグさんの名前まで出てくるとは……
で、幼年学校の食堂がどうしたって?」
メンサが前に出て、これまでの経緯を簡潔に説明する。
食堂の不正発覚事件、そして新たな体制を整え、下町の料理人たちに協力を求めていること。
彼女の話し方は明瞭で、要点が的確に伝わる。
そして、その視線は相手の目をしっかりと捉え、説得力を増している。
それは、娼婦として身に着けた話術なのだが、リオスにはそこまでは分からない。
「幼年学校の厨房を使えて、給与も正式採用後に発生します。
もちろん、見習いの期間中も、相応の報酬は約束します。
貴族家の料理人たちとの料理勝負があるんですが、子どもたちの投票で公平に決められます」
リオスがスカウト条件を述べると、男は腕を組み、唸るように考え込む。
給与が約束されている点は魅力的だが、貴族との勝負という点に躊躇があるようだ。
彼らは、貴族の舌を満足させるような華美な料理とは無縁の場所で生きている。
「ふむ……給料が出るってのはありがてぇが、貴族様の料理人と勝負たぁ、随分と面倒な話じゃねぇか。
あんたら、こっちの味なんてわかるのかい? 舌が肥えすぎてて、粗末なモンは食わねぇだろう?
俺たちの料理は、毎日食うためのもんで、特別なものじゃねぇんだ」
男の言葉には、上流階級への不信感が滲んでいる。それは、彼らの長年の経験から来る、根深い感情だろう。
「勝敗よりも、お腹すかせた子どもに、美味しいものを食べさせたいってんなら、悪い話じゃないと思うんだけどね。
それに、あたしらが働くのは、お貴族様相手の食堂じゃなくて、平民相手の食堂だよ」
メンサがすかさず口を挟む。
彼女の言葉は、男の心に深く響いたようだ。
男の顔に、力強い笑みが浮かぶ。
それは、商売人としての計算だけでなく、料理人としての純粋な情熱が垣間見える笑顔だ。
「メンサ嬢がそこまで言うなら、悪い話じゃねぇな。いいぜ、坊主。俺も協力させてもらおう。
子どもたちに、腹いっぱい食わせてやろうじゃねぇか。俺たちの味を、下町の味ってやつを教えてやるよ!」
こうして、リオスとメンサ、そして静かに付き従うフィノアは、屋台街を巡り、次々と腕の立つ料理人たちに声をかけていく。
最初こそ警戒されるものの、メンサの顔見知りであったこと、そしてビルグの名前を出すことで、彼らは徐々にリオスに信頼を寄せていく。
リオスが貴族の子息でありながら、真剣な眼差しで頭を下げ、生徒たちのためにと訴える姿も、彼らの心を動かす。
多くの料理人たちが、貴族相手の勝負に躊躇しながらも、「勝ち負けよりも、腹を空かせた子どもの笑顔が見たい」という純粋な動機に心を動かされる。
加えて、安定した給与と幼年学校の厨房を使えるという魅力的な条件も、彼らの背中を強く押した。
◇
翌朝、幼年学校の厨房は、いつもとは違う熱気に包まれている。
リオスが生徒会予算で解放した厨房に、スカウトされた下町の料理人たちが足を踏み入れる。
広々とした、最新の設備が整えられた空間に、彼らは一様に戸惑いの表情を浮かべる。
輝くステンレス製の調理台、見たこともないような大型のオーブンやスチームコンベクション。
壁には調理器具がずらりと並び、すべてがぴかぴかと光り輝いている。
――残った料理人がきっちり手入れし直したものだ。
下町の屋台とはあまりにもかけ離れた環境に、彼らの目は泳ぎ、口元には困惑の色が浮かんでいる。
普段使い慣れた年季の入った鍋や包丁とは、まるで別世界だ。
「おいおい、なんだこのコンロは。火力が強すぎて、焦げ付いちまうぜ。
俺たちの炭火とは大違いだ。こんなんじゃ、繊細な火加減なんて無理だろ?」
「こっちのオーブンは、使い方がさっぱりわからねぇな。ダイヤルがたくさんありすぎて、どれを回せばいいんだか。
使ったことないようなモンばかりだぜ」
慣れない環境に、料理人たちの戸惑いの声が響く。巨大な調理器具、複雑な火加減の調整、見慣れない設備に、誰もが手を止めがちになる。
娼館の厨房で働いてきたメンサもまた、金属光沢のまぶしい調理台を前に、眉をひそめている。
「……思ってたより、ずっと業務用ね……これ、どうやって温度調節するの?」
そんな彼女に声をかけたのは、厨房に残っている料理人の一人だ。
彼は寡黙だが経験豊富な中年男性で、数少ない常勤の調理担当だ。
「これは魔力式の自動調整鍋だ。設定温度に合わせて火力が保たれる。だが、かけすぎると吹きこぼれるぞ」
「へえ……こりゃ確かに、慣れるまでかかりそうね」
そうぼやきながらも、メンサは真剣な眼差しで説明を聞き、少しずつ設備の使い方を学んでいく。
屋台の料理人たちも、次々と試運転を始め、あちこちで火の調整や洗い場の仕組みを試す声が上がる。
既存の料理人は、特別にリーダーぶることなく、手際よく教えながら現場を支えている。
リオスはその様子を、厨房の隅からじっと見守っている。
素人以下のリオスは料理には一切手を出せない。
自分の役目は、あくまで舞台を整える側。
調理人たちが最大限の力を発揮できるよう、調達や調整に徹している。
時折、「次の納品は?」「あの調味料、もう少し欲しい」といった声が飛ぶと、すぐにメモを取り、迅速に動く。
それ以外は、ただ静かに現場を支え続ける――その姿勢が、料理人たちにとっては、頼もしい後ろ盾となっている。
◇
試作が始まる。湯気が立ち上り、様々な食材の香りが厨房を満たす。
下町の料理人たちが作り始めたのは、生徒たちが毎日食べても飽きないような、素朴ながらも工夫の凝らされた料理だ。
彼らの手によって、幼年学校の厨房は、いつしか下町の屋台のような温かい活気を帯びていく。
炊き込みご飯の香ばしい匂いが広がる。
具材は、季節の根菜をたっぷりと使った煮物。
そして、冷めても美味しく食べられるように工夫された揚げ餃子だ。
どれもこれも、派手さはないが、食べればほっとするような、心に染み渡る料理ばかりだ。
素材の味を最大限に引き出し、奇をてらわない、まさに『毎日食べたい』と思わせる料理。
それは、彼らが長年培ってきた、客の胃袋と心を満たすための知恵と経験の結晶だ。
料理人たちは、慣れない設備に戸惑いながらも、互いに協力し合い、活き活きと調理を進めていく。
彼らの顔には、自分たちの料理が生徒たちの胃袋を満たすであろう未来への期待と、料理人としての純粋な喜びが満ちている。
厨房の熱気は、彼らの情熱そのものだ。そんな中、メンサがぽつりと呟く。
「でも、こんなんで貴族チームの味に勝てるのかな……。
あっちの料理は、もっと華やかで、彩りも豊だろうし、舌の肥えた貴族でも唸らせるようなものばかりでしょう?
私たちが作ってるのは、あくまで素朴な家庭料理の延長だし……」
彼女の視線は、完成に近づく朴訥な料理に向けられている。
華やかな貴族料理とは対照的に、彼らの料理はどこか地味に見えるのかもしれない。
彼女の言葉には、わずかな不安の色が混じっている。
その言葉を聞きつけた一人の料理人が、メンサに顔を向け、力強く言い放つ。
彼は、屋台街で一番最初にスカウトに応じた、厳つい顔つきの男だ。
彼の顔には、額に汗が光っているが、その目はどこまでも穏やかだ。
彼はリオスの視線の先を辿り、貴族チームの厨房をちらりと見て、ふっと笑う。
その笑みには、諦めでもなく、侮蔑でもなく、ただ達観と自信が宿っている。
「メンサ嬢、料理ってのは、“毎日食える味”が一番なんだよ。
飽きないってのが、一番の贅沢だ。毎日食うもんに、そんな派手な飾り付けはいらねぇ。
俺たちは、見た目じゃなく、胃袋と心で勝負するんだ」
彼は、食材を混ぜる手を動かしながら続ける。その手つきは、力強く、そしてどこまでも丁寧だ。
「確かに、貴族のお抱えたちが作る料理は、見た目も豪華で、特別な日にはいいかもしれねぇ。
だがな、毎日食うもんは、体が喜ぶもんだ。飾らねぇ、実直な味が、一番体に染み渡るんだ。
それに、俺たちは、子どもたちのための料理を作るんだ。見た目よりも、腹持ちと栄養だ。
毎日食べて、健康でいられる飯こそ、本当に価値のあるもんだと、俺は思うね。
それが、下町の料理人の意地ってもんだ」
その言葉は、下町料理人たちの揺るぎない信念と、彼らが誇りとする料理哲学を表している。
リオスは、その言葉を聞いて深く頷く。そうだ、勝ち負けが目的ではない。生徒たちが毎日、美味しく、安心して食べられる食堂を作ること。
それが、この勝負の本当の意味なのだと、改めて心に刻む。
これは、子どもたちの評価によって食堂の料理方針が決定される『料理勝負』に向けた、下町チーム側の重要な準備エピソードの一部である。
彼らの料理には、下町の温かさと、彼らの人生が凝縮されている。
◇
勝負当日。
幼年学校の食堂の奥にある大きな厨房は、いつも以上の熱気に包まれている。
下町チームの料理人たちが、最終確認に追われている。
湯気と様々な食材の香りが混じり合い、食欲をそそる芳醇な匂いがリオスの鼻腔をくすぐる。
彼らの顔には、これまでの努力が実を結ぶことへの期待と、自信が満ち溢れている。
「リオスくん、もうすぐ準備完了だよ! あとは運ぶだけさ!」
メンサの声に、リオスは笑顔で頷く。彼女の表情にも、充実感が滲んでいる。
慣れない環境での作業は、彼女をさらに大きく成長させるようだ。
その時、ふと視界の隅に、貴族チームの様子が目に入ってくる。
そこにはまるで舞踏会の一幕のような光景が広がっている。
下町チームのそれとは対照的に、どこまでも華やかだ。
色とりどりの新鮮な食材が、まるで絵画のように美しく盛り付けられた皿の上に並べられている。
宝石のように輝く魚卵、美しく飾られた肉料理、芸術的なまでに繊細な装飾が施されたデザート、芳醇な香りを放つワインソース。
香り立つ料理の匂いが、厨房全体に満ちている。
料理人たちは、真っ白なコックコートに身を包み、洗練された動きで調理を進めている。
彼らの手捌きは淀みがなく、無駄な動きが一切ない。視線は鋭く、一切の妥協を許さないプロの矜持がそこにはある。
食材の鮮度、彩りの豊かさ、厨房内の無駄のない段取り――その全てが、『完璧』という言葉を体現しているようだ。
下町チームの料理が『実直』であるならば、貴族チームの料理は『洗練』そのものだ。
リオスは思わず息を呑み、その光景に釘付けになる。
「……勝てるのかな」
彼の口から、無意識のうちにそんな呟きが漏れる。
下町チームの料理は、確かに体が喜ぶ実直な味だ。
だが、この華やかさと洗練された技術を前にして、本当に生徒たちの心をつかむことができるのだろうか。
彼らの味覚は、下町の素朴な料理では物足りないと感じるのではないか。
不安が、リオスの胸に小さな重みとなって広がる。
リオスが立ち尽くしていると、背後から声が聞こえた。
「坊っちゃん、どうしたんだい? そんな顔して」
振り返ると、下町チームの一人の料理人が立っている。
屋台街で最初にスカウトに応じた、あの厳つい顔つきの男だ。
彼の顔には、額に汗が光っているが、その目はどこまでも穏やかだ。
彼はリオスの視線の先を辿り、貴族チームの厨房をちらりと見て、ふっと笑う。
その笑みには、諦めでもなく、侮蔑でもなく、ただ達観と自信が宿っている。
「あっちさんは、さすがに華やかだねぇ。俺たちとは、畑が違うってやつだ。
手間もかかってるだろうよ。だがな、坊っちゃん。こっちは、こっちの料理を出すだけだ。
派手さなんかなくたって、毎日食べたいって思ってもらえるのが、一番の強みだ。
それに、子どもたちは正直だからな。本当に満足するか、そうじゃないかは、ちゃんとわかるもんだ」
彼の言葉には、何の気負いもなく、ただ静かな自信が宿っている。
派手さで勝負するつもりはない。自分たちの信じる『毎日食べたい味』を提供するだけだという揺るぎない意志が感じられる。
それは、リオスが彼らをスカウトした理由そのものだ。
リオスは、その言葉に「うん」と力強く頷く。
そうだ、勝ち負けは関係ない。
目的は「みんなが毎日美味しく、安心して食べられる食堂」に近づくことなのだ。
彼が料理人たちを誘ったのは、彼らに思う存分、自分たちの料理を振る舞ってほしいからだ。
生徒たちの笑顔のために、そして、彼らが信じる料理のために。




