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5:夜のはじまり、知識の扉

 夜の帳がすっかり降り、グリムボーン家の屋敷は静寂に包まれていた。


 リオスの私室には、常夜灯の淡い明かりが灯っている。照明石の柔らかな光が、少年の白い肌をうっすらと照らしていた。


「……では、そろそろお休みの準備をいたしましょうか」


 フィノアは寝間着姿のリオスの髪を整えながら、いつものように微笑を浮かべた。

 けれど、その声音には、わずかに迷いと慎重さが滲んでいた。


 リオスは気づかぬまま、素直に頷く。


「うん……今日は、ちょっと疲れた。姉上、また本気出してたから……」

「ええ。今日も一日、よく頑張られましたね」


 整え終えた髪にそっと手を添えながら、フィノアはゆっくりと息を整える。

 そして、姿勢を正し、改まった調子で口を開いた。


「……今宵は、もうひとつだけ新しい学びを差し上げたいと思います」


 思わぬ言葉に、リオスはきょとんと目を丸くする。


「新しい、学び?」


 フィノアは静かに頷いた。


「はい。リオス様。今宵より、性に関するお話を、少しずつ始めさせていただきます」


 一瞬、空気が止まった。


「……せい?」


 リオスの声は戸惑いに満ちていた。

 どこか警戒するでもなく、むしろ、初めて聞いた言葉をどう受け取ればいいか分からない、そんな無垢な響き。


「……えっと……」


 眉を寄せ、リオスは考え込む。

 ふだんなら淀みなく言葉を選ぶ少年が、珍しく口ごもった。


「性って……子どもができるためのこと、なのかな?」


 曖昧な声でそう言いながら、目線が少し泳いだ。

 問いかけるようにフィノアの顔を伺っている。


「……前に、父上に聞いたことがあるんだ。あと、かあ様にも……」


 声は徐々に小さくなり、やがて囁くようになる。


「でも、まだ時期じゃないって言われて……それで、そのまま。あんまり、本とかも、読んでない……」


 語尾がかすれて消えた。

 自分の無知を恥じているわけではない。ただ、知らないという事実を淡々と告げたに過ぎない。


 フィノアは否定も肯定もせず、黙って見守る。


「……それで、たぶん……男の人と女の人が、くっついたり、なにかしたりして……それで、赤ちゃんができる……みたいな?」


 自信のない声音。言いながらも、正しいのか不安が浮かぶ。


「触っちゃダメとか、見ちゃダメっていう話も、聞いたことはあるけど……姉上は、ぜんぜん気にしてないみたいだったし。……僕も、なんとなく、そういうもんだと思ってた」


 フィノアは、その幼く正直な言葉に、わずかに目を細めた。


 それは、傷のない真珠のように、あまりに曇りのない答えだった。


「……ありがとうございます。とても、正直で、立派なお答えでした」


 彼女の声は、慈しみに満ちていた。

 それは、知識の欠落を咎めるものではなく、ただその誠実さを讃えるような音だった。

 しばしの沈黙。


 その中で、フィノアはゆっくりと息を吸った。

 言葉を選びながら、けれど隠し立てすることなく、静かに語り出す。


「……まず、性というものの本質について、お話しさせてください」


 リオスは、寝台の上で小さく姿勢を正した。

 彼にとって、それは知識の話――これまで誰も教えてくれなかった、大切なことだと本能的に理解していた。


「性とは……ひとことで申し上げるなら、子どもを授かるための行為でございます」


 その言葉は、ゆっくりと丁寧に発せられた。


「身体が成長し、男女が結び合うことで、命が宿る。

 これは、魔族であろうと人間であろうと、種族を問わず、世界に共通する原理でございます」


 その語り口に、厳しさはなかった。

 まるで古の書物を紐解くような、静かな敬意が込められている。


「……うん。なんとなく……そんな感じは、してたかも」


 リオスはぽつりと呟いた。

 それは不安げではなく、純粋な納得の響きだった。


 フィノアは、小さく頷いて続けた。


「そして――これは、少し難しい話ですが……」


 そこで、彼女はほんのわずか言葉を置く。

 リオスの目が、自然と彼女を見上げた。


「種族の異なる男女が結ばれた場合――たとえば、人間と魔人、エルフと獣人など――

 その間に生まれてくるお子さまが、どちらの種族になるかは、事前には分かりません」


 その言葉に、リオスは目を瞬かせた。


「えっ……でも、両方の特徴を持った子とか、そういうのは?」

「基本的には、どちらか一方の完全な形で生まれてまいります」


 淡く微笑みながら、フィノアは補足する。


「たとえば、人間の父とエルフの母であれば――生まれてくるのは、人間の子か、エルフの子です。

 魔人と、獣人が結ばれたとしても、混ざった特徴の子は、生まれません」


 この世界では、種族の混血は「存在はする」が、「特徴の継ぎ合わせ」ではなく、「どちらかの種族として生まれる」ものだった。


 その理由は誰にも分からない。ただ、長い歴史の中で例外がなかったため、それが“自然の理”として受け入れられている。


 リオスは、難しい話にも関わらず、真剣な顔でうなずいた。


「……じゃあ、たとえば……父上がダークオーガで、かあ様が人間だったら……僕が生まれるとき、どっちになるか分からなかった、ってこと?」


 その問いに、フィノアはゆっくりと微笑んだ。


「はい。ですが、リオス様は人間としてお生まれになりました。

 それは、ただそう決まったというだけで、そこに理由はありません」


 リオスは、少し考えるように目を伏せ――やがてまた顔を上げた。


「……でも、それなら……祖父母の種族になるとか、そういうのも、あるの?」


 フィノアは、わずかに目を見開いた。


 それは、幼い少年にしては珍しく鋭い問いだった。


 けれど、彼女はすぐにかぶりを振る。


「いいえ。種族においては、そのような現象は確認されておりません」


 さらりと、だが確かな調子で断言する。

 隔世遺伝の概念自体はあるが、種族に関しては無い。

 その辺りはあえて省略して、フィノアは伝える。


「種族は、あくまで両親のいずれかのいずれか。

 祖父母や曾祖母の影響が現れるようなことは、これまで一度も記録されていないのです」


「……そうなんだ」


 リオスは、どこか安心したように息をついた。

 自分の人間としての出自が、何か異常なものではないと知って、ほんの少しだけ、心の奥が軽くなったようだった。

 フィノアは、膝を正して座り直した。

 その視線には、柔らかな静けさと、わずかな緊張が混じっている。


「……ここからは、男女の身体の違いについて、少しお話しさせていただきます」


 リオスは、背筋を伸ばしたまま、真剣な眼差しで彼女を見つめている。


「……身体の違い?」

「はい」


 フィノアは一拍おいてから、言葉を選ぶように口を開いた。


「まず、基本的なことでございますが――人間でも魔族でも、男女には体のつくりにいくつかの違いがございます」


 その語り口は穏やかで、まるで医術の講義のように静かだった。


「男の方は、種をつくる器官を、脚の間の外側に持っております。

 対して女の方は、種を受け取り、育てる器官を、身体の内側に持っております」


 リオスは、少しだけ目を細めて考えるように頷いた。


「……それって、あれだよね? おなかの中で赤ちゃんが育つっていう……」

「はい。おっしゃる通りです。

 女性の体には子宮と呼ばれる器官があり、そこに新しい命が宿ります」


 言葉の途中で、フィノアはふと視線を落とし――ほんの少しだけ、頬に朱を浮かべた。


「また、もうひとつ……外から見て分かりやすい違いが、胸でございます」

「胸……?」


 リオスは、きょとんと首をかしげる。


「……でも、姉上とか、かあ様とか、僕とそんなに変わらないよ?」


 その言葉に、フィノアは思わず小さく咳払いをした。


「ご明察です……実際のところ、胸の大きさというのは、年齢だけでなく、種族や体質にもよるところが大きく――」


 少しだけ言葉を濁しながらも、しっかりと続ける。


「たとえば、わたくしのようなエルフ族は、全体的に身体が細く、胸のふくらみも控えめな者が多くございます。

 セラ様も、たいへん華奢でいらっしゃいますし……姉上のリュシア様も、まだご成長の途中です」


 リオスはこくりと頷いた。


「対して、メルヴィラ様は、体格に合わせて、ほどよいふくらみをお持ちですし……屋敷で働いている女中の方々の中にも、それなりに豊かな方はおられます」


 そして、少しだけ声を潜めて――


「……もっとも、リオス様のようなお歳の方からすれば、あまりご覧になる機会は少ないかもしれませんね」


 リオスは、少しだけ首を傾げた。


「……でも、胸って、なんのためにあるの? 大きい方がいいとか、そんな感じなの?」

「それは――お子を育てるため、でございます」


 フィノアは、まっすぐに言い切った。


「女性の胸は、本来赤ん坊に乳を与えるためにございます。

 ふだんは目立たない方でも――出産直後の授乳期には、どの種族であっても、乳房が大きくなります」


 それは、知識として語られるべき大切な事実だった。


「つまり……赤ちゃんを育てるために、大きくなるんだ」

「はい。……その時期が過ぎれば、また自然に元に戻るものです」


 リオスは、その説明に深く頷いた。

 わずかに頬を赤らめながらも、視線はまっすぐで――何よりも真剣だった。

 

 リオスの理解が深まったことを確認するように、フィノアは小さく頷いた。

 そして、声の調子をほんの少しだけ整えると、次の話題へと静かに進んでいった。


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