58:背中を託す者、背中を押される者
リオスは、あまりにも率直な拒絶に言葉を失った。まっすぐに想いを伝えたつもりだったが、届かないという現実がずしりと胸にのしかかる。
対するビルグは、しばし無言のまま腕を組み、重たく吐息を吐いた。
「理由は、ふたつある」
その口調は静かだったが、言葉には迷いがなかった。
厨房の熱気の中でも、背筋が粟立つような重みを帯びている。
「ひとつめ……
実のところ、あのときの処分――あながち、間違いでもなかったんだ」
「……!」
リオスは目を見開いた。冤罪だと信じていた。
そうでなければ、この場に来る意味もなかった。
だが、当の本人の口から出た言葉は、まったく逆のものだった。
「言い訳になっちまうが……俺は、不正そのものに気づいてたわけじゃねぇんだ」
ビルグは、ゆっくりと腕を組み直した。その眼差しは真正面からリオスを見据えている。
「でもよ――今なら、はっきりわかる。
"知らなかった"じゃ、責任者は務まんねぇんだよ」
リオスの目が揺れた。ビルグの言葉には、怒りも悔しさも混ざっていない。
ただ、淡々とした諦念、そしてそれでも逃げずに見つめようとする姿勢があった。
「当時の俺ぁ、料理にしか興味がなかった。
材料の発注も帳簿の処理も、ぜんぶアイツに任せっきりだった。
"うまい飯を作る"ことだけが俺の仕事だと思ってた。
……馬鹿だよな」
鼻で笑うように、ビルグは肩を竦めた。
「一料理人ならば、それで済んだかもしれない。
だが、俺は“責任者”だったんだ。責任とは、“任されたこと”を“自分の責任で見届ける”ということだ。
……俺はそれを放棄していた。だから――処分は妥当だった」
静かに、はっきりと語られた言葉に、リオスはぐっと唇を噛んだ。
(……そんな人だから、って思ってしまう)
彼の誠実さが、むしろリオスの胸を締め付ける。
「……それにな」
ビルグが目線を落とし、低く息を吐いた。
「ここには、恩があんだよ」
その声音には、先ほどまでとは違う穏やかさが混ざっていた。
「俺が幼年学校を放り出されて、行き場も金もなかったときによ……この娼館が拾ってくれたんだ。
不正で放逐された俺を厨房に入れてくれて、今じゃ厨房全体の采配まで任されてる」
ふと、ビルグの目尻にわずかな笑みが浮かぶ。
「ガキどもに、腹いっぱい飯を食わせられる――
……こんな充実した仕事は、そうそうあるもんじゃないさ」
リオスは、そっとまぶたを伏せた。
「俺が抜けりゃ、ここの厨房は回らなくなる。
いや、人手という意味じゃない。俺が急に消えれば、他の連中が混乱する。
料理というのは、舵取りする者がいなければ、味も空気も崩れてしまうものだ」
自分がいなくなれば、誰かが困る。
だからこそ、去れない。
「……それに、ここで俺を必要としてくれてる人間がいる。それだけで、十分だろ?」
ビルグの視線は、どこか遠くを見つめるようだった。
静かに語られたその言葉が、リオスの胸に深く突き刺さった。
責任。恩義。信頼。
どれも、リオスがまだ重さを知らない言葉だった。
彼は、小さく息を吸い、うつむく。
「……僕……何も考えていませんでした」
その声は、小さいながらも震えていた。
「その人が今、どこにいて、どんな立場で、どんな想いで働いているかも――見えていなかった」
言い訳ひとつなく、ただ頭を下げた。
その姿に、ビルグは目を細める。
「……いや、いいんだよ、坊主」
その口調には、責める響きはなかった。
「そうやって、自分の浅はかさを認められるというのは、立派なものだ。
お前はきっと良い“責任者”になるぜ」
そう言って、ビルグは静かに笑った。
「まあ、俺は戻れないがな」
ビルグは頭をかきながら、ふっと笑った。
「代わりの人間なら、紹介できらぁ。
下町で屋台引いてる連中の中には、腕の立つやつが何人もいる。
ちょっと口が悪かったり、見た目が荒っぽかったりするが……飯は真っ当だ」
リオスが顔を上げる。
「本当ですか……?」
「ああ。俺の名前を出せば、たいていは信用してもらえるはずだ。
『ビルグの紹介』と言えば、腕の良い奴は鼻息荒くして飛んでくるぜ」
ビルグは厨房の奥へ顔を向け、声をかけた。
「おーい、メンサ! ちょいとこっちへ来てくれ!」
「は、はい! なんでしょうか、ビルグさん?」
現れたのは、エプロン姿のサキュバスの娘だった。
先ほどネリアが声をかけた、あの子だ。
栗毛の髪を後ろでまとめ、頬には小麦粉の跡がついている。
「話は聞いていただろう? お前は手際が良いし、味付けも良い。
もし食堂の仕事が空いていたら、やってみたいとは思わないか?」
「えっ!? 食堂!? ……幼年学校の……?」
「おうよ。推薦状くらいなら書くぜ?」
メンサは目を丸くし、リオスとネリアを交互に見た。
「えっ……学校の食堂!? 私が!? 責任者に!?」
「馬鹿野郎、誰がそこまで言った!」
即座に飛んできたビルグの鋭いツッコミに、厨房には一瞬、ピリッとした空気が包まれた。
「いいか、メンサ」
ビルグが腕を組み直し、ぐっと睨むような視線を向けた。
「確かにお前の手際は良い。やる気もある。
だがな、責任者というのは“料理がうまい”だけでは務まらないんだ」
「……っ」
ぴしりと背筋を伸ばしたメンサに、ビルグはさらに続ける。
「仕入れも、人の采配も、トラブルの対処も、全て自分の責任になる。
味と現場の両方を見なければならない。
それをやるには、場数が足りない」
その言葉に、メンサは悔しさを噛み殺すように唇を噛んだ。
「だから、まずは見習いからだ。皿洗いでも、刻みでも何でもやれ。
そうして現場を学んで、料理だけじゃない、“責任の重さ”も覚えろ。
責任者を目指すのは、そこからだ。
わかったな?」
「……はいっ!」
大きく頷いたメンサに、ビルグはふっと笑みを浮かべる。
「責任者は、当面は今のスタッフから誰かを選んでもらう。
まずは食堂を落ち着かせ、それから全体を立て直せ。
坊主、それが筋というものだ」
リオスは、しっかりと頷いた。
「……はい。肝に銘じます」
◇
「……本当に、ありがとうございました」
リオスは深く頭を下げた。
年若いその姿に、不似合いなほど真剣で、礼儀正しい所作だった。
ビルグは腕を組んだまま、鼻を鳴らす。
「礼なんざいい。こっちは飯を作ってただけだ。
けどよ、坊主。これから責任者やるってんなら、忘れんな」
「……何を、ですか?」
「"人を使う"というのは、"その人の背中"も一緒に預かるということだ」
その言葉に、リオスはしばらく黙り――やがて、しっかりと頷いた。
「……はい。忘れません」
そうしてリオスは、フィノアに小さく合図を送り、厨房をあとにした。
ネリアは、その後ろ姿を無言で見送る。
――まっすぐで、ちゃんと話を聞いてくれて、でもまだどこか子供らしい。
けれど、その子供が一つ一つ「責任」というものに向き合っている姿を、ネリアはまざまざと見せつけられた。
(……私は、何をしてるんだろう)
気づけば、自分はただ「娼婦をやりたくない」と嘆いていただけだった。
でも、ビルグのように、メンサのように、
ここで「何かをやろう」としている人たちが、すぐそばにいた。
(目標……私、何も、持ってなかったんだ)
歩き出したリオスの背中を見送りながら、ネリアは静かに息を吸い込んだ。
(私も、何か……決めなきゃ)
そうして彼女は、小さく拳を握った。




