空席の厨房、帰る者あり
その日の昼、学校の空気は、朝とはまるで違っていた。
否、正確には、朝の喧騒や光が嘘のように遠ざかり、校舎全体に重苦しい鉛色の淀みが沈殿していた。
昼過ぎの鐘が鳴るころ、学校本部棟より全校に向けて公式な通達が発表された。
『西棟所属の食堂調理責任者および副責任者について、内部監査の結果、不正行為が確認されたため、拘束措置を実施した。調査は引き続き継続される。生徒諸君には冷静な対応を求める』
それだけの簡潔な文章だったが、その1文がもたらした衝撃は、想像以上に大きかった。
講堂に張り出された掲示の前には、あっという間に人だかりができ、生徒たちの間ではざわめきが広がる。
そのざわめきは、低い唸り声のように講堂の壁に反響し、やがて不穏な熱を帯びる集合的な感情へと膨れ上がっていった。
「拘束って、まさか……」
「やっぱり横領って、ほんとだったのか……?」
明言されていないものの、すでに噂は広まっていた。
不自然な帳簿、消えた銀貨、過剰な仕入れ価格。
食堂での日々の違和感は、最早、取り繕えない一つの「事件」として、生徒たちの目に焼き付くほど明確な形をなしつつあった。
一方、職員室でも静かな動揺が広がっていた。
数名の補助職員が、目を伏せて黙り込み、他の者たちも互いに視線を交わすだけで言葉を発さない。
その視線には、困惑と、そしてどこか怯えの色が滲んでいた。
沈黙は、誰も触れたくない真実の重みに耐えかね、ガラスのように砕け散る寸前だった。
「……あの人が? ついに……」
誰かがぽつりと呟いた声が、沈黙の中に溶けていく。
まるで、その言葉自体が、安堵とも、不安ともつかず、空間に吸い込まれていくかのように。
◇
その頃――学校本部棟の最上階、生徒会専用の執務室では、リオスたち数名が集まり、報告書の最終整理を進めていた。
広々とした空間には、柔らかな光が斜めに差し込み、机上の書類に長い影を落としている。
光の中を舞う微かな塵が、この静寂が破られることのない永遠の空間であるかのような錯覚を与えていた。
重厚な長机の上には、何枚もの文書が並べられ、それを前に、リュシアがペンを走らせていた。
「……“不正徴収と仕入れ価格の不当な上乗せに関しては、調理責任者および副責任者が主導していたと見られる”……。
うん、こんな感じでいいかしら?」
「それで大丈夫だと思います。学校側からの調査報告とも齟齬はありませんし、保護者会に出すには、やや硬いくらいが妥当です」
そう答えたのは、生徒会長――ラミア族の上級生だった。
いつものように冷静な口調だが、その手元の筆圧には、わずかに緊張の色が見える。
それは、組織の長としての重責と、未だ燻る不穏な状況への深い懸念の表れだった。
隣でルーシーがふっと肩をすくめて笑った。
その笑みには、目の前の混乱をまるで他人事のように見つめる、醒めた知性が宿っていた。
「しかしまあ、思ったよりも処分が早かったのう。もう少し揉めるかと思うたが……
ま、証拠が揃えば、上の判断も早いということかの」
リュシアが椅子に背を預け、ペンを回しながら呟く。
「……あまり言いたくはないけど、あの食堂の状態を考えれば、時間の問題だったわ。問題は、これからよね」
その言葉に、全員の視線が自然と書類へと戻る。
学校の厨房から責任者が消えた。
だが、それで終わりではなかった。むしろ、これからが始まりなのだ。
事件の全容が、少しずつ明らかになりつつあった。
学校の内部調査が進む中、職員たちから正式な証言書が次々と提出された。
調理補助を務める者、食材の搬入係、清掃員や洗浄担当――そのほとんどが、これまで沈黙を守っていた者たちだった。
ある者は、震える文字でこう綴っていた。
『副責任者から、“余計なことを言えば職を失うぞ”と、何度も言われました』
『本来なら報告すべき在庫の過不足も、帳簿上でごまかすよう命じられた』
『おかしいとは思っていたけれど、逆らえませんでした』
証言のほとんどが、“副責任者”による強圧的な支配の存在を示していた。
調理責任者が主導していた横領の裏で、副責任者は現場の口封じを担い、事実の隠蔽に加担していた――
いや、むしろ、現場でそれを率先していたと言っても過言ではない。
結果、食堂職員のうち約半数が処分の対象となり、うち数名はすでに解雇通告を受けたという。
――それは、現場の崩壊を意味していた。
生徒たちの胃袋を支える要が、音を立てて崩れ去ったのだ。
◇
報告を受けた生徒会の会議室には、重苦しい空気が漂っていた。
窓の外の光ですら、その淀んだ空気を透かしきれず、室内に微かな陰影を落とすばかりだ。
会長は、報告書の束を前に、静かに唇を引き結ぶ。
その眼差しは、生徒たちの未来を案じるかのように深く、そして決意に満ちていた。
「……これは、想像以上に深刻です。
責任者を欠いたこともそうですが、職員の多くが処分対象となれば、もはや日常の運営すらままなりません」
リオスは思わず、椅子の背に体を預けた。
彼の胸中に去来したのは、生徒たちの不安げな顔と、空腹に耐える姿、そして彼自身がかつて味わった理不尽な状況への、微かな既視感だった。
「……じゃあ、食堂は……?」
「現場の混乱は、避けられないでしょうね。
すでに、今朝の仕込みもまともに回っていなかったと聞いています」
上級生の1人が、ため息混じりに応じた。
会長が、手元の書類に目を落としながら続ける。
「ただし、学校としても黙っているわけにはいきません。
応急措置として、東棟の食堂から数名の料理人が派遣されることになりました」
「貴族食堂の料理人たちが、平民用の料理を……?」
シエラが、少し驚いたように声を上げる。
「料理人というのは、気質の面でも職人肌ですわ。
しかも、いきなり交代となれば……混乱は避けられませんわよ?」
その言葉に、ルーシーがくくっと喉を鳴らして笑った。
彼女の笑い声は、目の前の現実が、まるで滑稽な芝居であるかのように、会議室に静かに響き渡った。
「ま、上から押しつけられても、そのうち鍋は噴きこぼれるじゃろうな」
会長は頷きながらも、改めて声の調子を引き締めた。
「いずれにしても、これ以上の混乱を避けるためにも、安定した運営体制の再建が必要です。
食堂職員の補充と指導――これは、生徒会にも任される範疇となります」
静かに、その言葉が落ちる。
生徒会の人数が比較的多いのは、この辺りの事情もある。
学校運営に、かなりの裁量が与えられているのだ。
リオスは、その意味を理解しながら、机の上の報告書に目を落とした。
厨房から人が消えた――
誰かが、そこを埋めなければならない。
そのとき、不意に上級生の1人が静寂を破った。
まるで、忘れ去られた過去のページをめくるかのように、その声は静かに響き、場に新たな風を吹き込んだ。
「……ところで。先輩に聞いた話を思い出したのだけど――
以前にも責任者が、突然辞めさせられたことがあったのでは?」
柔らかな口調ではあったが、その言葉が会議室の空気に小さな波紋を走らせた。
会長が、手元の資料から顔を上げる。
「……その件、私も断片的にですが聞いたことがあります。
たしか、表向きは依願退職というかたちで処理されていたはずです」
メンバーは各々思考しながら、無言で会長に目を向ける。
前任者に関する問いかけは、単なる回顧ではなく――明確な意図があった。
リオスもまた、軽く眉を寄せていた。
「……その方、なにか問題を起こしたんでしょうか?」
「記録上には、理由の記載はありません。ただ、職員記録の分類では“除籍扱い”となっています。
普通の退職とは違いますね」
会長は机上の資料を確認しながら答える。
記録は残っていたが、詳細は削除され、職員履歴の正式な登録からも外されていた。
「処分という形ではなく、記録から除かれている……?」
リオスがぽつりと呟く。
「――それって、逆に怪しくない?」
誰かの呟きに、室内が静まり返る。その問いが、まるで凍てつく氷のように場の空気を冷たく引き締め、張り詰めた緊張を生んだ。
「そもそも、何を理由に責任者を交代させたかが明確でないのは、不自然ですわ」
シエラが冷静に補足した。
そのときだった。
リオスが、ぐっと顔を上げた。
彼の瞳には、これまでの観察と考察、そして胸の奥に燻る正義感が、揺るぎない炎となって宿っていた。
「もし……その前任の方が、冤罪で“追われた”だけだったとしたら。
今、改めて厨房に戻っていただくことはできないでしょうか」
誰も、すぐには答えられなかった。
リオスの言葉が、会議室の全員の心に、新たな可能性の光と、同時に重い問いを投げかけたからだ。
会長がやや困惑の表情を浮かべる。
彼女の脳裏には、学院の秩序と、隠された真実の狭間で揺れる、複雑な葛藤がよぎっていた。
「……復帰についての規定もありませんし、先ほど申し上げた通り、職員記録から除外されています。
追跡は困難ではありますが……」
「でも、もしその方が潔白で、今でも厨房に戻る意志があるなら……」
リオスの声は、静かだったが、芯の強さを持っていた。
それは、どんな困難にも臆さず、真実と向き合おうとする彼の本質、そして他者の不当な扱いを見過ごせないという信念を表していた。
「いま、この混乱のなかで、本当に食堂を立て直せる人材がいるのなら――僕は、その人を探してみたいです」
「ふふっ。気に入ったぞ、その考え」
ルーシーが肩を揺らし、愉しげに笑う。
彼女は、目の前の問題解決だけでなく、その裏に潜むドラマティックな展開に、純粋な好奇心と興奮を隠せない様子だった。
「冤罪で追い出された料理人か。まるで劇でも始まるようじゃな」
「確かに、筋書きとしては“面白い”わね。真相がわからないなら、なおさら」
リュシアも、小さく頷く。
会長は、しばらく無言で書類を見つめたあと、静かに息をついた。
「……学校側には、私の方から掛け合ってみます。
ですが、追跡調査そのものは、あくまで非公式な扱いになります。それでも?」
「はい」
リオスは、迷いなく応じた。
その瞳に浮かんでいたのは、単なる職員探しへの興味だけではなかった。
かつて、何かに負け、何かを失った誰かが、今なおその場所に戻れるのか。
――それを、確かめたいという想いだった。
彼自身の過去の経験が、この「冤罪」の可能性に強く共鳴し、彼を突き動かしているかのようだった。
会議室の空気に、短い沈黙が落ちた。
その中で、最初に口を開いたのはルーシーだった。
「よいのう、それ。“料理人の復帰譚”……なんとも興味をそそる響きじゃ」
からかうような調子ではあるが、どこか本気の色を含んでいる。
シエラも、小さく頷いた。
「学校の未来のためにも、信頼できる人材をもう1度迎えるのは自然なことですわ。
それが、かつて追いやられた方なら、なおさら」
「じゃあ……探してみます」
リオスが、真剣な声でそう告げた。
「……名前くらいは、分かるかもしれません」
会長がそう呟き魔導端末を操作すると、記録管理室から古い帳簿が転送されてきた。
「……このあたりの期ですね。当時の食堂責任者は……“ビルグ”。家名が無いので、平民の方だったようです」
書類には、当時の記録が並んでいて、責任者の名が記載されていた。
除籍はされても、こうした記録には残っていたのだ。
「この人が、冤罪で……?」
「真実は、会って話してみないとわかりませんけれど」
各々がそんな事を呟く中、リオスは静かに顔を上げた。
「……ありがとうございます。調べてみます」
その表情は、決意に満ちていた。
まるで、かつて失われた何かを、もう1度掘り起こそうとしているかのように。
その瞳の奥には、単なる好奇心を超えた、強い意志と希望の光が、揺らめく炎のように燃え盛っていた。
「ふふっ。厨房という戦場に、再び戻ってもらえるか……わくわくするではないか」
ルーシーが、くすりと笑った。
会議はそこで打ち切られ、資料の整理と確認を終えた生徒たちは順に退出していく。
最後に、扉が静かに閉まる。
それを見届けるように、ルーシーがふと、独りごとのように呟いた。
「……勇者のお手並み、拝見じゃな」




