51:歪んだ学園の食卓
昨日、見学の際に立ち寄った、西棟の食堂――。
校舎の一角に設けられた広い空間。
開放感のある高い天井と、調理台に並ぶ魔熱炉が印象的だった。
だが、今日はその印象がまるで違って見えた。
重厚な木製の扉を抜けた先、広々としたホールには生徒たちの話し声がわずかに響いている。
だがその声には、どこか活気が感じられなかった。
中は、意外なほど静かだった。
ざわついているかと思えば、そうでもなかった。
昼時だというのに、列はそれほど長くない。
食堂の奥には木の長机が並び、まばらに生徒たちが座って食事をしている。
話し声は小さく、笑い声もない。
全体的に、どんよりと沈んだ雰囲気だった。
「……思ったより、空いてるんだね」
リオスがぼそりと呟くと、隣のルゥナが小さく頷いた。
「うん……もっと混んでるかと思ったけど」
食堂の構造は単純だった。
カウンター式の配膳口に向かって、壁際に並ぶ形で一列の行列が形成されている。
その奥には、厨房らしき区画がガラス越しに見え、数人の職員が調理をしている姿がちらほらと。
列に並びながら、リオスは周囲をさりげなく観察する。
彼の前方に立っていたのは、身長が3メートル近くある大柄なミノタウロスの少年だった。
肌はくすんだ灰色で、短く刈られた髪。たくましい背筋だった。
制服の肩には金色のラインが二本――それは上級生の証だ。
その隣には、帽子をかぶったスキュラの少女もいる。
こちらもリボンの色が違う。間違いなく、東棟の上級生だ。
(……優良種の上級生が、なぜ西棟の平民食堂に?)
疑問が湧く。
東棟――すなわち優等生区画に属する彼らは、本来ならば西棟など滅多に足を運びはしないはずだ。
まして、専用の貴族食堂があるのなら、なおさら。
リオスはちらりとミノタウロスの表情を盗み見た。
険しくはない。だが、どこか目を伏せるような、周囲の視線を避けるような雰囲気があった。
(……たぶん、貴族食堂には馴染めないのかな)
その理由は想像に難くないだろう。
彼らが優良種であっても、生まれが平民であるならば――貴族の輪にはやはり入りづらいのだろう。
東棟に所属していながら、西棟の食堂に足を運ぶ者たち。
それは、この学院の階級の歪みをまさに象徴しているように思えた。
それでも、この食堂に来るということは――背に腹は代えられない、という切実な理由があるということだ。
ただし、それにしても人数が少ない。
行列はほんの十数人で、座席にも空席が目立つ。
全校生徒の規模を考えれば、ここを利用している者は決して多くはない。
リオスは列の前に進みながら、静かに考えを巡らせた。
(……この食堂は、平民のために用意されたはずだよね? それなのに、生徒は少ない。混雑もない。なぜ?)
ふと見ると、先頭の生徒が、無言で銀貨を木のトレーの上に置いていた。
小さな木のトレーに銀貨を乗せ、担当者が受け取り、それと引き換えに料理を渡す――
ただそれだけの無機質なやり取りだった。声も、表情もない。
リオスの中で、何かがざらりと音を立てたような気がした。
列に並んでしばらくした頃、リオスの視線は、脇に貼り出された掲示板へ向いた。
紙に書かれているのは、今日のメニュー――〈日替わりランチ:パン・スープ・野菜炒め〉とだけ、まるで飾り気のない簡素な筆跡で記されていた。
「……これだけなんだね」
リオスがそう呟くと、背後からルゥナの声が返ってきた。
「まー、たまにはいいけど、これでこの値段はちょっとねー」
その視線が向いた先、掲示の下には小さく書かれた価格表示があった。
銀貨1枚……王都の一般的な食堂と同じか、それよりもやや高い水準だ。
「銀貨1枚……って、けっこう高いんだね……」
リオスがそう言うと、隣にいたリコリスも、小さく頷いた。
「寮でお弁当も、毎日は難しいから……たまにこういうところを使いたくなるけど、これじゃあ……困るよな」
彼の声には、疲れのような響きがにじんでいた。
寮住まいの平民の身では、この価格はとても気軽に払えるものではないに違いない。
「うーん、毎日ここで食べたら、おこづかい、すぐになくなっちゃうよ」
ネリアが不安げに言うと、ルゥナが苦笑いしながら頷いた。
「だね。あたしも無理だなー、これじゃ」
「んー、うちで出てくるやつのほうが……味はわからないけど、もうちょっと量が多いな」
ヴィーゼルが腕を組みながら、掲示板をじっと見つめた。
「王都やったらまあフツーの値段やけどな……ここの内容でこれは、ちぃと割高に感じるわなあ」
皆が口をそろえて、その負担の大きさを口にしている。
それに、内容もスープとパン、あとはわずかな炒め物だけ。
栄養や味の面でも、正直言って特に期待できそうにはなかった。
(……高い。これじゃ、通う人が少ないのもわかる)
カウンターに近づくと、料理担当の職員がやはり無言で手を差し出した。
その手の下に、木のトレーが置かれており、リオスはそっと銀貨を一枚、その上に乗せた。
カチャリ、と小さく控えめな音がした。
職員は無言のまま、それを奥に引っ込めると、すぐに木の皿を差し出してきた。
リオスは両手でそれを受け取る。
皿の上には、茶色いパンがひとつ、かろうじて透き通ったスープが少々、そして野菜炒めのようなものが端に盛られていた。
「……少ない、ね」
思わず口に出た言葉に、すぐ後ろのネリアがそっと頷いた。
「なんか……見た目が、ちょっとさみしいかも……ね」
リオスは席へ向かいながら、皿を改めて見つめた。
パンは固そうで、焼きムラがあり、スープの中には数個の申し訳程度の刻んだ根菜が寂しげに浮かんでいるだけだった。
野菜炒めも、油気がなく、炒めたというよりただ湯通ししただけのように見える。
皆で向かい合わせに席に着く。
サララがパンを手に取り、ちぎって口に運ぶと、たちまち顔をしかめた。
「……これ、パサパサだね……」
ルゥナはスープをひとくち飲んで、眉をひそめた。
「うーん、薄いっていうか……なんか、やたらと水くさい」
「炒め物も、味がない……」
ネリアがぽそりと呟いた。
リオスも、野菜炒めを少しだけ口に含む。
炒められてはいるが、調味料の味はほとんど感じない。
塩気はあるものの、単調で、食欲をそそるような香りもなかった。
決して美味しくないわけではない。
だが――工夫や誠意といったものが、まるで微塵も感じられない。
「……これで銀貨1枚なんだよね?」
リオスがそう呟くと、ルゥナが苦笑交じりに肩をすくめた。
「王都の裏通りなら、これの3倍は食べられるよ。パンとスープだけで済ますって人でも、銀貨1枚出せばちゃんと肉とか入ってるし」
「それって、ほんと?」
リコリスが目を丸くすると、ルゥナは大きく頷いた。
「うち、そっちのほうだからね。裏通りの安いとこ、けっこう知ってるんだ」
リオスは、皆の言葉に耳を傾けながらも、厨房のほうへと目を向けた。
ガラス越しに見える調理場では、職員たちがただ無言で手を動かしている。
大きな鍋をかき混ぜる者、パンを並べる者、皿を運ぶ者――誰もが黙々と。
誰も笑っていないし、誰も会話していない。
(……まるで、感情のない魔法人形みたいだな)
リオスは、ふとそんなふうに思った。
料理は、ただ作られているだけだった。
味わってもらおう、喜んでもらおう、という気配は微塵もなかった。
それが、皿の上の味にそのまま現れているような気がしたのだ。
(……やる気が、ないんだな)
厨房にいる者たちは、ただ与えられた作業を淡々とこなしているだけのように見えた。
だからこそ、味が薄く、量が少なく、雰囲気まで冷たいのだと、リオスは確信した。
食事を終えた頃、リオスはふと、足元に視線を落とした。
床の隅――テーブルの脚の陰には、細かいパンくずや、乾いた野菜片のようなものがいくつも落ちていた。
掃き掃除の行き届いていない様子が、はっきりと目に見えた。
食器を下げに立ち上がったサララが、椅子を引いたときにも、床にこびりついたシミを踏んで「あっ……」と小さく声を上げたのだった。
「ごめん、床が滑った……」
床はわずかに湿っており、古い油のような臭いがかすかに漂っていた。
昨日、食堂の前を通ったときにも、似たようなにおいがした。
そのときは、営業していない日だったから、掃除をしていないだけかと思っていた。
だが、今日――営業中であるにも関わらず、床や壁、机の隅々にまで目をやると、やはり清潔とは言い難い状態のままだった。
リオスは、食器を持ったまま静かに辺りを見渡した。
天井の梁には、埃がうっすらと溜まり、照明のガラスには手の跡のような汚れが付いている。
厨房の奥も、整理されているとは言い難く、道具類は無造作に棚に置かれ、調理台の隅には使い古された布巾が丸めて押し込まれていた。
(……これが、毎日のことなんだな)
どこを見ても、昨日だけの特例ではないことがわかった。
むしろ、これがこの食堂の日常であり、誰も疑問を抱かないまま、日々が流れているのだとしか思えなかった。
料理の味、量、そして値段――
加えて、この掃除の状態と、働く者たちの表情の乏しさ。
(……おかしい)
リオスの胸の奥に、疑念が灯った。
この食堂は、維持されていない。「平民のために用意された場」のはずなのに、その中身は、形だけで空っぽだった。
(料理はともかく――清掃にはもっと労力をかけていても良いはず……)
スープの味が薄い理由も、床が汚れている理由も、単に平民を軽視しているだけなのか――
リオスは、食器を返却口へと静かに運びながら、心の中でひとつの決意を固めたのだった。
まずは、このことを――生徒会に持ち込んでみようと。




