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4:目覚めの兆し

 朝にはまだ遠い時刻――夜と呼ぶにも惜しい、空の輪郭がぼやける静寂の刻。

 グリムボーン家の屋敷の廊下には、一条の光もなく、深い沈黙が満ちていた。


 その静寂を、かすかに乱す影がひとつ。


 す、と。

 吸い込まれるような足取りで音も立てずに歩むのは、夜明け前の当番を任されたひとりの侍女――フィノア=リエルである。


 彼女の身を包むのは、真っ黒な制服地に真白な前掛けを重ねた、格式高いメイドの正装。

 淡い翡翠色の髪は丁寧に結われ、胸元のブローチも規律通りの位置に光っている。


 その姿は、ただ「美しい」というよりも、「整っている」と評すべきだろう。


 フィノアは、魔国の中でも上級に属するエルフの家系の一員である。

 とはいえ本家ではなく、分家筋のさらに枝のひとつに過ぎず、グリムボーン家の主婦メルヴィラと彼女の母の、幼年学校以来の個人的な縁によって仕えている立場だった。


 だが、その能力と信頼は極めて高く――

 いまや彼女は、主家の子息たるリオス=グリムボーンの「専属付き」として、日常のほぼすべてを任されている。


(本日も、予定通りの時刻……体温調整、空気の流動、湿度は良好ですね)


 誰にも聞かれぬ内心で、淡々と廊下の状態を確認する。

 この時刻、屋敷はまだ起きていない。けれど、主の生活は既に始まっている。


 訓練は夜明け前から。

 それに間に合わせるための起床時間は、当然――さらに前だ。


 東棟の一角、リオスの寝室の前に立ち、フィノアは白手袋のまま、静かに扉へと手を伸ばす。

 ノックの音すら立てず、するりと鍵を外し、わずかに開いた扉の隙間から、寝台を確認した。


「……リオス様。お目覚めの時間でございます」


 部屋の灯りは点けない。

 目が慣れていれば十分な薄明りが、窓の外から静かに漏れていた。


 白い布団に埋もれるようにして眠る少年。

 雪のように透き通る肌。寝息は整っており、眠りは深い。


(……本日はやや深め。連日の鍛錬の影響でしょうか)


 布団の端にそっと膝をつき、彼女はためらいなく、布を持ち上げる。


 その瞬間――


(……あら)


 目に入ったのは、布団の下でわずかに盛り上がる膨らみ。

 その位置と形状、温度勾配、布の張りの方向。

 彼女の眼は、わずか数秒でそれを特定した。


(――所謂朝立ち。はじめてね。……正常成長の範囲内といったところかしら?)


 表情に変化はない。

 目も逸らさず、ただ必要な情報として処理する。


「リオス様。朝でございますよ。……お身体に触れますね」


 小さく、しかし確かな声でそう告げて、肩を軽く揺する。


 しばらくして、少年が寝返りを打ち、ようやくまぶたが開いた。


「……ん、ふぁ……フィノ……?」

「おはようございます、リオス様。朝の準備を整えてございます。お召し替えから始めましょうか」


 そう言って立ち上がると、衣装棚から運動着を取り出す。

 地味に良い布で、乾きが早く、冷えにも強い。


 リオスはぼんやりと目を擦りながら、着替えを始めた。

 初めの数手を手伝うだけで、あとは自力で進めていく。


(……あの膨らみも、すでに収まりましたね)


 洗面器を差し出しながら、さりげなく観察を続ける。


「洗顔用の水は、少し温かめにしてございます。……どうぞ」

「ん……ありがと」


 リオスが顔を洗い、瞼がしゃんと持ち上がった頃には、すっかり訓練の顔つきに成っていた。


「じゃ、行ってくるね。今日もがんばるよ」

「はい。お気をつけて、リオス様」


 その背を見送り、扉が閉まるのを確認したあと――

 フィノアは、その場で小さく一礼し、すぐに寝室へと視線を戻した。


 淡い寝息が消えた部屋は、さながら深海のように静かだった。

 けれど彼女にとっては、ここが“日常”だった。


「……では、後片付けを」


 誰に聞かせるでもなく、小さくそう呟くと、彼女は布団の端に膝をつく。

 さきほどリオスが眠っていた寝具――まだ微かに体温が残るその場所に、手早くも丁寧な手つきで手を伸ばした。


 布団を引き上げ、内側のシーツをめくる。

 湿りも汚れもなかった。けれど、それでも一度使ったものは全て替えるのが彼女のやり方だ。


 予備のシーツを取り出し、手際よく四方を整えながら、彼女の思考はすでに次の仕事へと移っていた。


(報告事項。第一徴候の発現を確認。リオス様は無自覚)


 報告において、どこまでを述べ、どこからを言外に含めるか。

 メルヴィラに伝えるべき語彙と構文を、脳内でひとつずつ整理する。


(補足事項。羞恥の兆候は見受けられず、感情的な動揺もなし。知識導入の適切な時期と判断。といったところね)


 手は止まらない。

 枕の位置を直し、掛け布団を折り返し、最後に毛布を乗せて、一連の寝台整えを終える。


「……よし」


 それは、仕事を終えた自分に向けた小さな確認だった。

 そして、ほんのわずかに表情を緩めると、フィノアは部屋を出た。



 朝の光が屋敷の奥にも届き始めた頃――

 主婦たちの支度が整い、執務前の一息を取る時間を見計らって、フィノアは西棟の貴婦人居室へと向かった。


 大理石敷きの床を静かに歩き、絹の裾がわずかに揺れる。

 気温もすでに上がり始めており、廊下の壁に取り付けられた魔導灯はひとつ、またひとつと消されていた。


 扉の前に立ち、控えめな呼吸とともに、三本の指先で軽くノックを打つ。

 次の瞬間、内側から音もなく扉が開かれた。


 現れたのは、淡い銀髪に落ち着いた色味のエプロンドレスを纏ったエルフの女性――リリノアだった。

 セラの専属であり、フィノアにとっては実の姉にあたる。


「……入っていいわ。もう、お揃いよ」


 囁くような声で告げると、リリノアは音を立てずに道を開ける。

 その動作に一切の無駄はなく、まるで影のように姿勢を戻して壁際へと下がった。


 室内には、正妻メルヴィラ=グリムボーンと、もう一人――

 人間でありながら魔族の貴婦人として迎えられたセラが、椅子に腰掛けていた。


 すでに朝の支度は整っている。

 メルヴィラは濃紺の正装上衣に身を包み、書簡を開いて目を通していた。

 セラは淡い藤色の巻き衣を羽織り、膝に温かな香草茶のカップを置いていた。


 その背後には、それぞれの侍女が控えていた。

 リリノアに加え、メルヴィラ付きの従者も、すでに配置についている。

 いずれも視線を落とし、気配をほとんど感じさせずに、ただ主の後方に控えていた。


 フィノアもまた、音を立てずに進み、定められた位置で膝をつく。

 胸元に手を添え、丁寧に一礼した。


「失礼いたします。リオス様、お目覚めとご出発は定刻どおりでございました」


 メルヴィラが顔を上げた。

 穏やかだが、見落としのない目を向ける。


「そう……ありがとう。何か、変わったことは?」

「……はい。ひとつ、ご報告がございます」


 フィノアの声は、わずかも揺れなかった。

 だが、控えていた侍女たちがほんの一瞬、視線を交わす気配がある。

 空気の動きが、静かに変わった。


「本日の起床時、リオス様において……“お目覚めが盛ん”でございました」


 セラの瞳が、瞬きを忘れたように動きを止めた。

 メルヴィラも軽く姿勢を正し、言葉の続きを待つ。


「睡眠中に発生したものでございます。触発や羞恥による反応ではございません。……本人は、兆候に気づいておられない様子でした」


 リリノアが音もなく一歩、背中で扉を閉める。

 部屋の中が、さらに静かになった。


「……その後は?」

「支度は平常通り。洗顔、お着替え、すべてご自身でこなされました。……異変の兆候も見受けられませんでした」


 メルヴィラが、ごく小さく頷いた。


「……そう。成長の第一徴、ね」


 セラは、胸元のカップをそっと両手で包むように持ち直し、唇を小さく結んだ。

 その瞳には、少しの戸惑いと、柔らかな感情の揺れが浮かんでいる。


「……気づいてなかったのね、本当に」

「はい。お顔に驚きも、照れも、ございませんでした」


 フィノアがそう言い終えた瞬間、部屋に一瞬の静寂が満ちた。

 メルヴィラは視線を落とし、ゆるやかに頷く。


 セラはカップを両手で抱いたまま、微かに目を細めていた。


「……気づく前に教えられるのは、僥倖ね。何の準備もなく知識を得てしまうと、感情や身体の混乱も生じるから」

「はい。初観測でございますので、知識吸収における心理的負担も、ほとんどないかと存じます」


 メルヴィラは、机の端に置いた硝子器を一つ手に取り、その手を止めぬまま問うた。


「――では、フィノア。あなたの意思を、ここで確認させて」


 静かに、だが確かな響きで放たれた言葉だった。


「リオスの性教育は、お付きの侍女が直接あたるのが、魔族社会の慣例。

 そのまま、夜伽に至ることも珍しくはない。……あなたも、それを承知の上で、この任を預かっているわね?」

「はい。理解しております」

「けれど――これは、あくまで“制度”ではない。

 あなたの意志なくして進めることは、絶対にありません。

 断ったとしても、不利益が生じることは、絶対にありません」


 それは、ただの口約束ではない。


 グリムボーン家は、魔族社会において――いや、人間も含めて貴族として異端だった。

 種族や地位によって従属させるのではなく――

 志と信頼によって、仕えることを「誇り」として選ばせる家だった。


 この屋敷で働く者たちは皆、それを肌で知っていた。

 使用人であれ、警備兵であれ、庭師であれ。

 拒んでも追われることはない。

 ましてや、主人が約束を違えることなどありはしない。


 そして――リオスの立場はあまりにも微妙だ。

 人間でありながら、バルトロメイの子として迎えられ、守られ、育てられている。


 魔族社会であれば、まずありえぬ存在。

 人間の少年に仕え、夜伽を任されるなど、誇り高き一族の娘であれば侮辱とすら感じるかもしれない。


 けれど――


「……わたくしは、望んでお仕えしております」


 フィノアは、膝をついたまま深く頭を下げた。


「リオス様に関する務めであれば、教育でも、奉仕でも……その一切を、喜んでお引き受けいたします。

 それが、わたくしの与えられた役割であることを、誇りに思っております」


 その声には、曇りもなければ、揺らぎもなかった。


 メルヴィラは、そのまなざしをしばし受け止め、口元にかすかな笑みを浮かべた。


「……それなら、安心したわ。

 進め方については、あなたの裁量に任せる。

 けれど――そうね、心身の変化について、実感に先んじて教えてあげて」

「承知いたしました。段階的に、無理のない範囲で進めてまいります」

「ありがとう、フィノア」


 セラの声には、温かな安堵が滲んでいた。


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