その想い、剣よりも真っ直ぐに
静寂に包まれた寝室には、どこか甘い気配が残っていた。
シエラの残り香か、それとも昨夜の余韻か。ほんのりと香るその空気は、温かく、柔らかかった。
窓の外では夜の闇が次第に薄れ、朝の気配が静かに部屋へと忍び込んでくる。
カーテンの隙間から差し込む淡い光が、室内をぼんやりと照らしていた。
リオスは、そんな空気に包まれながら、ゆっくりと目を覚ました。
胸元には、小さな頭のぬくもり。ぴたりと寄り添って眠るシエラの重みが、じんわりと伝わってくる。
彼女の髪――夜空を思わせる銀紫の柔らかな髪が、朝露のように頬へと触れ、さらりと肌をくすぐった。
その横顔は穏やかで、まるで昨日の涙も恥じらいも、すべて夢だったかのように静かだった。
昨夜のことを思い出すと、胸の奥がじんわりと熱を帯びる。
肌に触れた柔らかさも、潤んだ瞳に滲んだ涙も、そしてあの無垢な笑顔も――
すべてが、深く焼きついて離れなかった。
そっと指先で、彼女の頬にかかる髪を払った。
その気配に反応するように、シエラがわずかに眉をひそめ、まどろみの中で瞼を持ち上げる。
長い睫毛が震え、やがて紫水晶のような瞳が、リオスを見上げた。
「……おはようございます、リオス様」
その声は、まだ眠気を引きずったままの柔らかさで、昨夜の甘やかな気配をそのまま引きずっているかのようだった。
どこかぼんやりとした表情で、シエラはリオスの胸元に顔を擦り寄せ、再び目を伏せる。
「おはよう、シエラ」
リオスが囁くと、シエラは恥ずかしげに頬を染め、胸元に顔をうずめた。
肩まで覆うシーツが、ゆっくりとわずかに揺れる。
「……今朝は、少しだけ……恥ずかしいですね」
湯気のような囁き。
その吐息が、リオスの肌にふわりと触れ、彼の鼓動をやさしくかき乱していく。
シーツの下、ふたりの体は昨夜と同じように寄り添ったまま――
素肌が触れ合う心地よさが、静かな余韻となって残っていた。
けれど不思議と、気まずさや照れ臭さはなかった。
むしろ、確かにそこにある温もりが、かつてないほど自然に、心の奥へと染み渡っていた。
そのとき――扉の向こうから、控えめなノック音が響いた。
静けさに包まれていた寝室に、かすかに現実の気配が差し込む。
トントン、と二度。
その穏やかなリズムは、決して急かすものではない。けれど、ふたりの微睡みにそっと区切りをつけるには、十分だった。
シエラの体がぴくりと反応し、リオスの胸元でわずかに身じろぎする。
「……フィノアか、リリュアでしょうか」
「うん……もう起きてるって、伝えていいかな?」
「……はい。でも――もう少しだけ、このままで……」
恥じらうような小さな声とともに、シエラはリオスにそっと身を寄せた。
その言葉に、リオスは無言でうなずき、彼女の背中に腕をまわして優しく抱き寄せる。
ふたりだけの静かな時間。
シーツのぬくもりの中で、またひとときの沈黙が訪れる。
……しかし、再びノックが響いた。今度は先ほどより、わずかに強く。
リオスは小さく息をつき、シエラの髪をそっと撫でてから、柔らかく声を発した。
「入っていいよ」
カチャリ、と扉が静かに開く。
姿を現したのは、いつもの従者たち――
フィノアと、リリュアだった。
フィノアは、優しく気遣うような笑みを浮かべながら、そっと頭を下げる。
一方のリリュアは、従者らしい冷静さを崩さず、一定の距離を保って控えていた。
フィノアが昨夜、気を利かせて部屋を訪れなかったこと。
リリュアが、本来は主であるシエラの部屋へ赴くべきところを、わざわざこの寝室を訪れたこと――
そのすべてが、ふたりの従者が“察している”ことを、何よりも物語っていた。
ベッドの上では、シエラがまだシーツを胸元まできゅっと引き寄せていた。
リオスの隣に寄り添ったまま、頬を朱に染め、恥ずかしげに視線を伏せている。
リリュアと目を合わせることはできず、細い指先が布をぎゅっと握り締めていた。
その様子をちらりと見たリオスは、微笑を浮かべながら、努めて自然な声で口を開いた。
「おはよう、フィノア。リリュアも……朝早くから、ありがとう」
「お目覚めのようで、何よりです」
フィノアは、まるで何事もなかったかのように、いつも通りの穏やかな口調で応じる。
その笑みには、深く静かな理解と、気遣いの温かさがにじんでいた。
ベッド脇に歩み寄ったフィノアが、一歩踏み出して、おだやかに問いかける。
「本日は……いつものように朝の鍛錬をなさいますか?
それとも、少しゆっくりとお過ごしになりますか?」
その問いは、詮索ではなかった。
ただ、昨夜の出来事を踏まえたうえでの、心からの配慮――
気遣いと信頼のこもった、従者としての提案だった。
リオスとシエラは、思わず顔を見合わせる。
目が合った瞬間――ふたりの間に、言葉はいらなかった。
シエラは、小さく頷いた。
その頬にはまだ熱が残っていたが、その瞳には、はっきりとした意志が宿っている。
リオスもまた、確かな微笑みを浮かべてから、フィノアへと向き直った。
「……いつも通りでお願い」
その一言には、揺るぎない決意と、少しだけ背伸びした気概がこもっていた。
「承知しました」
フィノアは深く頷き、振り返ってリリュアに視線を送る。
すると、無言のまま、リリュアが訓練着を手に近づいてきた。
訓練着がベッド脇に置かれると、リオスとシエラは、自然と背を向け合った。
シーツの中で動く気配。わずかな気恥ずかしさと、でもそれ以上に――相手を気遣う静かな思いやりが、その沈黙の中に満ちていた。
それは、昨夜までとは違う距離感。
遠慮ではなく、尊重。緊張ではなく、信頼。
一夜をともにしたからこそ生まれた、柔らかな変化だった。
シエラの背後に控えたリリュアは、無言のまま、洗練された手つきで寝間着の紐を解いていく。
気配だけで動くその所作は、完璧な従者の仕事だった。
シエラは一瞬だけ肩をすくめたが、すぐに落ち着きを取り戻し、静かに訓練着へと腕を通す。
一方、リオスの背後では、フィノアが慣れた手つきで髪を整え、肩布を掛け、帯を結ぶ。
その仕草には、ただの従者ではない親密さがあった。
母のようでもあり、姉のようでもあり――けれど、何より「リオスの信頼する者」としての立ち居振る舞いだった。
やがて、ふたりが着替えを終えて振り返る。
目が合い――そして、自然と微笑がこぼれた。
言葉はない。ただ、今の空気を壊したくないという思いが、互いの表情に込められていた。
そして、ごく自然に、シエラがリオスの隣に並び立つ。
リオスも、何の躊躇いもなく、そっと腕を差し出した。
シエラの小さな手が、その腕に絡みつく。
その動作に、もう戸惑いはなかった。
恥じらいはあっても、拒む気配はなく――ごく自然な絆として、そこにあった。
従者たちは深く一礼し、部屋の扉を静かに開ける。
その先に広がるのは、まだ朝靄の残る、訓練場への道だった――。
◇
訓練場へと続く通路を抜けると、朝の光が濃くなり始めていた。
湿った土の匂い、風に揺れる草のざわめき。
そんな中、すでにその場に立っていたのは――リュシアだった。
朝陽に銀髪を揺らしながら、漆黒の肌に濃紺の訓練着をまとい、仁王立ちするその姿は、まさに威風堂々。
その背筋は一直線に伸び、目を細めてこちらを見据えるその表情には、どこか姉らしい温もりが宿っていた。
腕を組み、ふっと笑みを浮かべる。
リオスとシエラが連れ立って歩いてくる姿を見て、肩を軽くすくめた。
「……ふふ。やっと、それらしくなってきたわね」
冗談めかした調子。それでいて、確かな満足がにじんでいる。
その言葉を受けて、リオスは一歩前に出た。
三人の顔を順に見つめ、言葉を選ぶように口を開く。
「――僕は、姉上も、シエラも、フィノア……好きだ。
一人一人が、大切で、かけがえのない存在なんだ。
これから先、どんな困難があっても……絶対に守るって、誓うよ」
その真っ直ぐな想いに、シエラの頬がふっと染まる。
小さくうつむき、袖を握る手がそっと震えた。
「……っ、リオス様……」
フィノアは目を丸くして、それから照れたように微笑んだ。
「……もったいないお言葉です、リオス様。
わたくしには、贅沢すぎるくらいで……」
そして、リュシア。
彼女は腕を組んだままリオスをじっと見つめ、くすりと唇をゆるめる。
「ふふん。やっと、ちゃんと言葉にしたわね」
そして――小さく、いたずらっぽく首をかしげる。
「でもね。オーガの女は、自分より弱い男なんて……眼中にないのよ?
知ってるでしょ?」
冗談めいた言葉。けれど、その瞳の奥には冗談だけではない本気の光が宿っていた。
それは――ただの皮肉でも、気まぐれな意地悪でもない。
彼女なりの、真剣な“激励”だった。
本来、オーガの女は“強き者を伴侶に選ぶ”という古い慣習があった。
けれど今は、そこまで厳格な者は少ない。
リオスもまた、それはもう“形式”に過ぎないと、理解していた。
だからこそ、リュシアがあえてそれを言った意味――
その裏に込めた想いを、リオスは言葉にはせず、ただ真っ直ぐに見返す。
そして、静かに頷いた。
それを見て、リュシアは――
ふっと、唇の端を綻ばせた。
まるで、「言葉なんて、いらないわ」とでも言うように。




