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【なろう版】魔国の勇者  作者: マルコ
幼年学校1年 :新生活

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48/70

ぬくもりの誓い

 夜のとばりが降り、窓の外は深い藍色に染まっていた。


 リオスは寝支度を整え、ベッドの端に腰掛けたまま、そっと扉の方へ視線を向ける。


(そろそろだよね)


 従者フィノアによる“夜の授業”は、もはや日課の一部だった。

 彼女はいつも決まった時刻に、決まった調子で扉を叩き、静かに現れる。

 その気配すら、就寝前の安定した儀式のようにリオスの感覚に深く刻まれていた。

 何一つ変わらない、静かで確実な夜の訪れ。


 ――だからこそ、その夜のノックには、ほんの僅かな違和感があった。


 コン、コン……


 控えめではあるが、わずかな緊張が滲む間。

 フィノアならもう少し柔らかく、間も短いはず――。


 リオスは小さく眉を寄せながらも、静かに告げた。


「……入って」


 返事とともに、扉の向こうから足音が一歩。

 現れたのは――予想とはまったく異なる姿だった。


 月光に照らされた銀紫の髪、青白い肌に紫の瞳。

 夜具の上に羽織った薄手の外套が、静かに揺れる。


 立っていたのは、フィノアではなく、シエラだった。


 しかし、そこにいたのは、いつもの自信に満ちた堂々たるシエラではなかった。

 彼女の整った顔立ちはどこか不安げで、肌からは血の気が引いたように見える。

 かさついた唇もその異変を物語っていた。

 伏し目がちに立つその姿は、まるで迷子の子どものように頼りなく、深く澄んだ紫の瞳は、どこか潤んでいるようにも見える。


 リオスは、一瞬、言葉を失った。


 いつもなら、どんな時も毅然としていたはずのシエラが――

 今、目の前で、嵐に晒された小鳥のように、かすかに震えている。


 そのあまりに大きなギャップに、リオスの胸は締め付けられるような痛みを覚えた。


「あの……リオス様」


 シエラが、か細い声で彼の名を呼んだ。

 その声は微かに震えており、今にも掠れて消えてしまいそうだった。


 彼女が身につけていたのは、初夜のときに目にしたような煽情的なネグリジェではない。

 柔らかな綿素材で仕立てられた、日常的に使われているのであろう簡素な寝巻き姿。

 だが、その飾り気のなさがかえって彼女本来の魅力を引き立てていた。


 完璧を装う仮面を外したようなその姿は、いつもの凛然とした彼女とは違い、どこか親しみを覚えさせる。

 リオスには、まるで彼女の等身大の素顔に初めて触れたような感覚があった。


 それが、心の奥に、じんわりと温かな何かを芽生えさせる。


 シエラを家族になる者として認識している。

 その意識は、目の前の不安げな姿を見たことで、より一層、強く、深く、胸の内に刻まれていった。


「どうしたの? こんな時間に」


 リオスが問いかけると、シエラは青白い頬を微かに染めながら、まるで勇気を振り絞るように、掠れるような声で言った。


「今日は……一緒に眠っても、いいかしら?」


 予期せぬ、けれどどこか切実な願いを込めたその言葉に、リオスは一瞬たじろいだ。

 だが、その潤んだ瞳に宿る、今にも消えてしまいそうな不安の色を見たとき――彼は、それを否定することができなかった。


 むしろ、その一言は、リオスの胸を強く揺さぶったのだ。


 彼は無言でシエラを部屋の中へと招き入れる。


 足を踏み入れた彼女の身体から、ふわりと甘い石鹸の香りが漂い、リオスの鼻腔をかすかにくすぐった。

 肩よりやや長い淡紫の髪が、彼女の動きに合わせてさらりと揺れ、そのたびに月光が滑るように髪を照らす。


 ベッドに並んで座るふたり。

 柔らかなシーツが擦れる微かな音だけが、静まり返った部屋の中に淡く響いていた。


 言葉はない。


 けれど、空気はかすかに震えていた。


 重たい沈黙と、張り詰めた緊張感が、肌を伝って胸の奥まで満ちていく。

 互いの呼吸音が、不自然なほど大きく耳に届き、ベッドの軋む音すら、この密やかな空間では異様なほど際立って感じられた。


 シーツ越しに触れ合った太ももから、じんわりと温もりが伝わる。

 それはまるで、体温と共に思考までもがじわじわと溶け合っていくようだった。


 言葉よりも雄弁に、互いの意識は、これから起こるであろう“何か”へと引き寄せられていく。


 シエラは、握りしめた手のひらをじっと見つめながら、唇をきゅっと引き結び、何かを言い出すべきか迷っているようだった。

 彼女は感情を言葉にするのが得意ではない。

 リオスも、それをよく知っていた。


 幾度となく、言葉を紡ごうとする。

 だがそのたびに、喉の奥で引っかかってしまう。

 臆病な自分が――恥ずかしい自分が、それを拒んでいるのだ。


 やがて、シエラは小さく息を吸い込むと、まるで決意を固めたかのように――震える声で、そっと呟いた。


「……わたくし、本当は……少し、不安だったのです」


 その声は、今にも消えてしまいそうなほど頼りなく、けれど彼女の本心を宿していた。


 彼女は、昼間――リオスが8組の女子たちと楽しげに談笑していた、その光景を目にしたときのことを語りはじめた。


 自分にはない柔らかさ、明るさ、無邪気な親しさ。


 彼女たちに囲まれているリオスを見たとき――

 言いようのない嫉妬が、胸の奥からふつふつと湧き上がってきたのだと。


「まるで……わたくしだけが、リオス様の世界から置いていかれるような……そんな気がして」


 伏し目がちに呟くその言葉は、シエラらしからぬ弱音だった。

 だが、それゆえに――リオスの胸には、深く刺さった。


 完璧を求め、常に毅然とあろうとしてきた彼女が見せた、初めての“かたちにならない不安”。


 その言葉に込められた背景と、胸の奥に沈んだ傷の深さは、彼女の声色から痛いほど伝わってきた。

 リオスのまわりに集う多くの女性たち――その存在が、どれほど彼女の心を揺らし、不安の種となっていたのか。

 今のシエラは、強さや誇りでは覆い隠せないほど、脆く揺れている。


「リュシア様やフィノアとは、きっと仲良くできると思うのです。

 けれど……ほかの子たちとは、うまくやれるか分からなくて……それが、怖いんです。

 それに……リオス様を、取られてしまいそうで……」


 シエラの声は、次第に切迫したものへと変わっていった。

 潤んだ瞳に、再び涙の気配が滲みはじめる。


「こんな、浅ましいことを考えてしまう自分が……嫌で仕方ありません。

 でも、それでも……わたくし、リオス様に――嫌われたくないのです」


 絞り出すように告げられたその言葉は、彼女の誇りと羞恥、そしてどうしようもないほどの不安と愛情が絡み合った、本心そのものだった。


 彼女の胸の内では、独占したいという衝動と、嫌われたくないという乙女の願いが、激しく葛藤しているのが見て取れた。

 表情に乏しく見える彼女の奥底に、これほど繊細で豊かな感情が渦巻いていたことに、リオスは改めて気づかされた。


 シエラの震える声を聞きながら、リオスは自分の鈍感さに思い至る。

 その声は、まっすぐに彼の胸を貫いてきた。


 ――こんなにも純粋な彼女を、知らず知らずのうちに苦しめていたのか。


 胸の奥から、後悔にも似た痛みが込み上げてくる。

 今日、クラスの女子たちと接してみて――リオスは気づいていた。

 彼女たちと過ごす時間は決して嫌ではなかった。

 だが、シエラや姉のリュシア、そしてフィノアと向き合うときに心に灯る“何か”とは、明らかに違っていた。


 それは単なる好意や興味とは違う、もっと深くて強い感情――。


 たとえまだ「恋」や「愛」という言葉に結びつけられなかったとしても、リオスは確信していた。


 シエラに対して抱くこの想いは、間違いなく“特別”なのだと。


 リオスは、そっとシエラの震える手に手を伸ばした。

 その手は、冷たく、小刻みに震えていた。


 リオスは自分の温もりを伝えるように、その手を両の手で包み込み、しっかりと握りしめた。

 そして、潤んだ彼女の瞳を真っ直ぐに見つめる。


 迷いのない決意を宿した声が、リオスの唇から紡がれる。


 その声音はまだ少年らしさを残していたが――

 それでも、まっすぐで、真剣で、ひとつの誓いにも似た力強さが宿っていた。


「好きだ、シエラ。

 ――僕は君が、大切だ」


 その言葉が響いた瞬間、シエラの瞳から、大粒の涙が堰を切ったようにこぼれ落ちた。

 感動と安堵が入り混じった嗚咽が、押し殺すように、かすかに部屋の静けさを震わせる。


 リオスは、そんな彼女を、優しく、しっかりと抱きしめた。

 彼女の小さな身体が、熱い涙でリオスの胸元をじんわりと濡らしていく。


 その胸に顔を埋めた彼女からは、甘く、どこか清らかな香りがふんわりと漂ってきた。

 それは、まるでこのひとときだけが永遠であるかのように、リオスの心を深く安らげてくれた。


「不安にさせて、ごめん」


 リオスの謝罪の言葉に、シエラは何も言わず、ただそっと彼の胸元に顔をうずめた。

 彼の温もりと、先ほどのまっすぐな想い―― その両方が、彼女の心を優しく包み込み、満ち足りた幸福感をじんわりと広げていく。


 リオスがそっと腕を回し、彼女の肩を抱き寄せると、二人の身体は自然に距離を縮めていった。


 視線が絡み合い、吐息が交わる。

 呼吸は次第に乱れ、互いの体温が肌へと伝わってくる。


 胸の奥で何かが高鳴り、熱が滲むように空間を満たしていく。


 そして――ゆっくりと、顔が近づいた。

 柔らかな唇が、そっと、静かに重なり合う。


 最初の口づけは、羽根のように軽く、触れるだけのものだった。

 だが、温かな吐息が交じり合うたびに、互いの中に眠っていた渇望が、静かにその触れ合いを深めていく。


 シエラの香り――甘く清らかで、どこか幼さを残したその匂いが、リオスの鼻腔をくすぐった。


 二人の唇は重なり合い、ぎこちなくも確かな温もりを交わす。

 それは最初こそ短い触れ合いだったが、互いの心を確かめるように、次第に長く、深いものへと変わっていった。


 シエラは小さな吐息を漏らしながら、そっとリオスの首筋へ腕を回す。

 淡い髪が彼の頬に触れ、細い指が背中を頼るように握りしめる。


 リオスもまた、彼女の頬に手を添え、その震えを包み込む。

 言葉よりも強い想いが、手のひらを通じて確かに伝わっていた。


 やがて、互いの体温に酔うように、時間の感覚すら薄れていく。

 胸の高鳴りと熱が重なり合い、部屋にはふたりの息づかいだけが響いていた。


 そして――

 シエラは潤んだ瞳を閉じ、かすかな囁きに自ら区切りをつけた。


「……今日は、ここまでに、してくださいませ……」


 その声は夢から覚めたくないと願うように、か細く、切実だった。

 それは拒絶ではない。これ以上進めば、すべてが壊れてしまう―― そんな本能的な怖れにすがる、最後の理性の声だった。


 シエラの言葉を受け、リオスはゆっくりと手を止めた。

 だが、抱き合うふたりの身体は、なおも離れることを拒むかのように、強く密着したままだった。

 を帯びた余韻の中で、互いの肌の温もりが、これまでにないほど心地よく感じられる。

 先ほどまで交わされた愛撫の熱が肌に残り、微かな汗が、甘く官能的な香りを漂わせていた。


 シエラの胸元から伝わる鼓動はまだ少し速く、その生命のリズムがリオスの胸にもじんわりと響く。

 物理的な距離が縮まっただけではなかった―― 心の奥深くで、ふたりの魂が結びついたような感覚があった。


 シエラは、リオスの胸元に顔をうずめたまま、熱い息をそっと吐き出した。

 その表情に、不安の色はもうなかった。

 口元には、安堵と満ち足りた幸福感が柔らかく浮かんでいる。


「……もうすこしだけ、このままで」


 甘えるように、しかし確かな意志を宿して、シエラはリオスの胸に頬を寄せながら囁いた。

 その吐息には、もはや不安の影はなく、甘く、満ち足りた響きが込められていた。

 完全に心を許した者の仕草――その可憐さが、リオスの胸をあたたかく締めつける。


「……うん」


 リオスは彼女の淡く銀紫の髪を優しく撫でながら、静かに応えた。

 その腕は、しっかりとシエラの身体を抱きしめていた。

 彼女の放つ甘やかで落ち着く香りが、リオスの心を穏やかに満たしていく。


 だが、リオスの心の中には、まだ小さな後悔が残っていた。

 シエラと完全に繋がることができなかった。

 そのことに、彼は申し訳なさを感じていた。


「シエラ……ごめん。

 僕、まだちゃんと……繋がれなくて……」


 リオスが小さな声でそう呟くと、シエラは顔を上げ、潤んだ瞳で彼をまっすぐに見つめた。

  その瞳に宿るのは、責める気持ちではなく、むしろ慈しみに満ちた優しさだった。


「いいえ、リオス様。わたくしは、これだけで十分……

 いえ、十分すぎるくらい幸せでございます」


 シエラはそう言って、リオスの頬にそっと手を添え、優しく微笑んだ。

  その指先が、あたたかく彼の肌を撫でていく。


「でも……」


 リオスはわずかに視線を逸らしながらも、再び彼女をまっすぐに見つめ返した。

 その瞳には、少年らしい誠実な決意が宿っていた。


「いつか、僕がちゃんと準備できたら……そのときは、きちんと、ひとつになるから。

 ――約束だよ」


 その言葉に、シエラの瞳が大きく見開かれ、また涙がこぼれそうになる。

 何も言わず、彼女はリオスの首筋に顔をうずめ、ぎゅっと強く抱きしめ返した。


 それは、言葉を超えた――約束の証だった。


 窓から差し込む月明かりが、ふたりの身体を優しく、幻想的に照らし出していた。

 闇夜に静かに降り注ぐその光は、窓枠から漏れ、寄り添うふたりに淡い銀のヴェールをまとわせる。


 まるで一幅の絵画のように、美しく、神聖だった。


 リオスは、シエラの柔らかな髪をもう一度撫でながら、静かに目を閉じた。

 彼の胸元で聞こえる、安らかな寝息――

 それは、シエラが心から安心している証であり、何よりも尊い音だった。


 互いの存在を確かめ合うように身体を寄せ、ふたりはそのまま深い眠りへと落ちていく。


 静寂に包まれた部屋には、ただ、ふたりの穏やかな寝息だけが、規則正しく、静かに響いていた。


 夜は深く、静かに更けていった。


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