46:特別な日常、あるいは別邸の午後
馬車の車輪が砂利道を転がる音が止み、石造りの別邸の重厚な門が目の前に現れた。朝の光が門柱に伸びやかな影を落としている。
扉が開き、まず先にリュシアがひょいと軽やかに飛び降りる。
次いでリオス、シエラが続き――そして最後に、当然のように姿を現したのは、ルーシーだった。
彼女は馬車のステップを降り立つや否や、まるで小さな女王が玉座に座るかのように、腕を組み、えらそうにふんぞり返る。
「ふふん、なかなかよき揺れ具合であったぞ。……とはいえ、やはり馬車というものは、わらわの好みではないのう」
別邸の侍女たちが整然と並んで出迎える中、幼い少女の姿にわずかに緊張した気配を漂わせたが――どこか慣れたような空気もある。
侍女たちの控えめな視線が、ルーシーの自信に満ちた佇まいに向けられている。
「……なんでウチに来てるんですか、陛下」
「今は陛下と呼ぶなと言うに……
なに、ちょっと遊びに寄っただけじゃ。
友の家に遊びに来るのは、なにもおかしなことではないじゃろう?」
あっけらかんと言うルーシーに、リオスとシエラは、まるで嵐の後の木々が互いにもたれかかるように、呆れとも畏れともつかぬ表情で顔を見合わせた。
二人の間に、困惑と諦めが入り混じった空気が流れる。
そんな中で、リュシアが平然とした様子で尋ねた。
「ルーシー、お昼を食べていくでしょう?」
「おぬし、話が早くて助かるのう。うむ、わらわ、ちと小腹が空いておってな」
「じゃあ、食堂で軽く用意してもらおっか」
「うむ、もてなされる準備は万端じゃ!」
堂々と胸を張るルーシーに、シエラがそっとリオスに囁いた。
「……この様子では、結構頻繁にいらしているようですわね」
リオスは、苦笑しながらも、なんとなく空を仰いだ。
空は抜けるような青さで、彼の内心の諦めを際立たせるようだった。
――魔王って、案外暇なのかな?
◇
馬車を降りて数分後、一行はグリムボーン家の広々とした食堂へと案内された。
昼食の席には、焼きたてのパンの香ばしい匂いが漂い、湯気を立てるスープと数種の副菜が並んでいた。
ほどよく落ち着いた雰囲気が、午前の喧騒を忘れさせる。
「うむ、このスープ、なかなかよき香りじゃの。もう少し塩を足せば完璧じゃが……まあ、及第点というところかのう」
パンを片手にうなずくルーシーの言葉に、侍女のひとりが緊張しながらもほっとした表情を見せた。
その顔には、わずかな安堵の色が浮かんでいた。
そんな中、スプーンを口に運んでいたリオスが、ふと真剣な声で問いかけた。
彼の表情には、午前の出来事が影を落としているようだった。
「ねぇ……僕が、あのクラスに編成されたのって、やっぱり、学校の上の意向なのかな?」
その言葉に、リュシアが手を止める。ルーシーもパンをちぎる手を止めた。
食堂の穏やかな空気が、一瞬にして張り詰める。
「……おそらく、のう」
ルーシーが静かに口を開いた。
その声には、どこか諦めにも似た響きがあった。
「編成基準そのものは、あくまで公開された能力審査によるものじゃが……あのクラス分け制度自体、今の校長が就任してから始まったものじゃ」
「平民と貴族、優良種、劣等種を明確に分けるようになったのって、ここ数年くらいなんだって」
ルーシーとリュシアの言葉に、リオスは納得したように頷き、続けた。
「でも、せっかく貴族と平民が一緒に学べる学校なら、もっと混ぜた方が良いと思うんだけど。
僕も今日、平民のみんなの考え方とか知れたし」
それにルーシーは、ぱちりと瞳を細めた。
彼女の瞳の奥には、何かを見据えるような鋭い光が宿っていた。
「……実際、問題じゃと、わらわも思うておる。
平民と貴族の交流が滞っているのは、学校全体の風通しを悪くする。
まるで淀んだ水たまりのような閉塞感が漂うのじゃ。
特に下の学年ほど、分断が強くなっているのう」
その横でシエラが、ふと尋ねる。
彼女の声には、貴族としての立場からの率直な疑問が込められていた。
「でしたら、魔王として、そういった制度に意見を出せばよろしいのでは?
陛下の権限であれば、校長など一存で動かせそうですわ」
「……簡単に言うのう、そなたは」
苦笑まじりに首を振るルーシー。
「魔王とはいえ、わらわが直接“教育の領分”に手を突っ込めば、それは“越権”となる。
ましてや、わらわが在学中の身であればなおさらじゃ。
そのくらいの分別はつけているのう」
「……なるほど。律儀ですのね」
シエラの言葉に、ルーシーはどこか誇らしげな表情を浮かべた。
「当然じゃ。なればこそ、リュシアのように“引っかきまわす者”の存在が大切なのじゃよ」
「……誰が引っかきまわしてるって?」
パンをかじっていたリュシアが、不服そうに目を細める。
「わらわの代わりに、よく騒ぎを起こしてくれておる。……いやはや、たいした功労者じゃて」
「皮肉なの? それ……」
そんなやりとりに、リオスは苦笑いしながらパンをちぎった。
彼の心には、魔王と生徒たちの意外な関係性が刻まれていく。
しばし談笑が続いたあと、リオスはふと思い出したように口を開いた。
「そういえば……今日、校内見学で回った西棟――けっこう古かった。
壁も床も年季が入ってたし、掃除もあまり行き届いてる感じじゃなかった」
疑問に思って、リオスは隣のシエラに視線を向ける。
「東棟も、そんな感じだった?」
「いいえ。東棟は、設備も新しいものがそろってましたわ。
部屋もきれいで、廊下の手入れも行き届いていましたわ」
はっきりとした答えに、リオスは目を細めた。
彼の脳裏には、二つの棟の対比が鮮明に浮かび上がる。
「……じゃあ、やっぱりあれも格差ってこと?
校長の方針……ってやつかな?」
「その通りじゃ」
スープをすくっていたルーシーが、さらりと頷く。
彼女の言葉には、確信が込められていた。
「とはいえのう――それに関しては、平民の側からは“むしろ気が楽”と好評じゃぞ」
「え?」
リオスが目を瞬かせると、ルーシーは涼しい顔で続けた。
「貴族と同じ設備を使えれば、確かに便利じゃ。
じゃが、いざそうなると、細かいことで“気後れ”するのが庶民というもの。
高価な家具や豪華な寝具を与えられれば、気が張ると言うのじゃ。
“壊したらどうしよう”とか、“見合ってない”とか、そういう不安の方が先に立つ。
その点、西棟は“自分たちの領分”という安心感がある」
「……そういえば、クラスの反応も悪くなかったな。
誰も文句とか言ってなかったし……ああいう空間の方が、落ち着けるのかな?」
リオスは頷きながらも、眉を少しだけ寄せた。
彼の表情には、新たな発見に対する思索の色が浮かんでいた。
「でも、掃除とか、書庫の整理とか……
ああいうのはちゃんとした方がいいと思う。埃が舞う空気は、思考を鈍らせるから」
「……ふふっ。まったく、リオスは真面目ね」
笑いながら、リュシアが軽く肩をすくめる。
彼女の仕草には、リオスの真面目さを微笑ましく思う気持ちが表れていた。
「なら、それは“クラス代表”として、生徒会に提案したらどう?
掃除・整理整頓・生活環境の改善……言い方を工夫すれば、通る案件よ」
「……え、生徒会って、そんなのも扱ってくれるの?」
「ちゃんと筋を立てて話せば、通る案件じゃ。……まあ、うちには“筋ごとぶっ飛ばす奴”もいるがのう!」
「誰のこと言っているのよ……」
「自覚はあるようじゃな」
リュシアとルーシーの軽口に、リオスとシエラからもくすりと笑いが漏れる。
昼食の場はいつしか、ほどよく打ち解けた空気に包まれていた。
ナイフとフォークが静かに皿を鳴らす音のなか、シエラがふと顔を上げて口を開く。
彼女の視線は、何かを確かめるようにルーシーに向けられていた。
「そういえば……カエリウスさんが、布製の訓練用武器を使っていたようなことを仰っていましたけれど……
王都では、それが一般的なのでしょうか?」
その問いに、パンをちぎっていたルーシーが、ぴくりと耳を動かした。
彼女の顔つきが、わずかに真剣なものに変わる。
「うむ、最近は布巻きが主流じゃのう。特に年少者ではな。
刃の芯こそ入っておるが、打撃の負荷を和らげるため、柔らかい素材で巻いてある」
リオスは目を丸くした。彼の脳裏には、訓練用武器の奇妙な形状が浮かんだことだろう。
「布って、あまり丈夫じゃないよね?
少し力を入れたら潰れそうだし、軽すぎて振ったときの感じもまったく違うと思う。
それじゃ、実戦の感覚って、あまり身につかないんじゃないかな?」
その反応に、ルーシーは苦笑いをする。
その笑みには、呆れと、わずかな優しさが混じっていた。
「――やれやれ、何度も言うがのう。王都が“軟弱”なのではなくての、
伝統とやらにかこつけて、子供に鉄の訓練具を使わせる方が、どうかしとるのじゃよ」
リオスの眉がぴくりと動いた。その言葉は、彼の常識を覆すものだった。
ルーシーは腕を組み、続けざまに言い放つ。
「王都の学校では、鉄製の訓練具など、高等課程に進んでから使うものじゃ。
それまでは、“身を守る術”をきちんと学ばせるのが先。
それをじゃな、幼年のうちから鉄でぶっ叩き合うなど――
グリムボーン家とルキフェル家くらいのものじゃ」
「……そっちが異常ってことか……」
リュシアも小さく吹き出しながら口を開いた。
「ふふっ。でも、そう言いながらルーシーも鉄で訓練してるじゃない。
私と、しょっちゅう剣を交えてるし?」
「わらわは例外じゃ。――身が保つからのう」
そう言い切ったルーシーの横顔は、どこか不敵な笑みに彩られていた。
その瞳には、揺るぎない自信が宿っている。
「それとな――これは再確認じゃが」
そう言って一拍置くと、ルーシーはリオスにぴしりと指を突きつけた。
彼女の指先は、まさに釘を刺すかのように真っ直ぐだった。
「――武器は、壊すな。絶対にじゃ。よいな?」
「……いや、今日だって壊してないけど……」
「念のためじゃ。世の中にはな、壊しまくる輩がいるでの」
ルーシーの視線から、そっと目を逸らすリュシアの横顔を見て、リオスは盛大にため息をついた。
その空気を少しだけ振り払うように、リオスは隣のシエラに顔を向ける。
「ねえ、シエラ。1組って、あのカエリウス以外に……強そうなやつって、いる?」
問いかけに、シエラは少しだけ考えるように視線を上げた。
彼女の思考は、1組の生徒たちの顔ぶれを辿っているようだった。
「そうですわね……力という意味なら、何人か“モノになりそうな者”はおりますけれど。
ただ、性格面でまともなのは……三分の一もいませんわね」
肩をすくめて苦笑するその様子に、リュシアがくすっと笑いながら小声で返す。
「それ、案外多い方じゃない?」
リオスは一瞬、ぽかんとし、それでも多いのかと内心で小さく驚いた。
彼の常識が、ここでも揺さぶられる。
そんな彼の反応をよそに、シエラはフォークを一口運びながら、問いを返す。
「では、逆にお聞きしますわ。8組はどうですの?
可愛らしい方がけっこういらっしゃいましたわね。
妾候補が増えたようですし?」
「い、いや、そういうのは別に……! というか、男子も混ざっていたし……!」
リオスが焦ったように言い返すと、彼の頬はわずかに赤らんだ。
リュシアが「ふふっ」と含み笑いを漏らした。
彼女の目は、面白がるようにリオスを見つめている。
「……どうせすぐ慣れるわよ。そのうち、どの娘が料理上手かとか、わかってくるから」
「……あの、それは前提がもうおかしいと思う」
「ええい、うるさいのう。男子でも女子でもよいから、まずは仲良くすることじゃ。
――そのうえで、将来を見据えて“口説く”のが筋というものじゃぞ?」
こうして、昼食の時間は、笑いと突っ込みの混じるまま、ゆるやかに流れていった――




