45:契約と誘い
試合終了の鐘が鳴り響いたとき、しばしの沈黙が競技場を支配した。
やがて、まるで呪縛が解けたかのように、8組の面々から歓声が沸き上がる。
「リオスくん、すごいよ! 本当に勝っちゃった!」
「うそ……デーモン族に……!」
感情が噴き出すように、クラスメイトたちは拳を突き上げ、跳ね、リオスの名を叫ぶ。
一方――
1組の生徒たちは、全く別の空気をまとっていた。
勝者を称えるよりも、敗者を突き放すように。
その視線は冷たく、無慈悲だった。
「……あれだけ威張っておいて、負けるなんて」
「やっぱり種族だけじゃダメってことだな。所詮は口だけの坊ちゃんか」
侮蔑と落胆の混じった声が、ひそやかに交わされる。
だが、すべての視線がそうではなかった。
幾人かは、リオスの姿を鋭い目で見つめる者がいた。
「……あの一撃、わざと大剣を狙った?」
「まさか、そこまで調節していたのか……?」
その目には、敗者を貶める色はなかった。
むしろ――
認めざるを得ない、という戸惑いと警戒。
同時に、「あれはただの人間じゃない」とでも言いたげな、異質な存在への畏怖が宿っていた。
沈黙のなかで、敗者――カエリウスは歯ぎしりしながら、口元を歪めた。
「……おぼえてろよ、クソガキが……」
その低くくぐもった声は、明らかに敵意を含んでいた。
だが、それを聞きとがめたのは、リオスではなかった。
ひときわ凛とした声が、場の空気を鋭く裂く。
「それ以上は、おやめなさい」
リュシアの声だった。
「決闘外での妨害、待ち伏せ、報復行為……それらはすべて、規則の重大な違反よ」
リュシアの声は静かでありながら、威厳をはらんでいた。
「――単なるルールでなく、魔術契約に基づく誓約。破ればどうなるか、知らないわけではないでしょう?」
「それに加えてじゃな、見届け人への無礼と見なされるのじゃぞ!」
その言葉に、周囲の空気が明確に変わる。
だが、カエリウスは鼻で笑った。
「はっ、たかが同じ生徒の分際で偉そうに……
デーモンやダークオーガだからって威張ってるがな、こっちだってデーモンで貴族様だっつーの!
他の貴族に指図される覚えなんざ、ねえんだよ!」
その瞬間――
1組の数名が顔をしかめた。
さきほどまでリオスの実力に目を見張っていた者たちだ。
「……バカか、あいつ」
「終わったな、色んな意味で……」
呆れたように誰かが吐き捨てる。
そんな中、芝居がかった仕草で、ルーシーが前に進み出た。
「このお方を、どなたと心得る――!」
場に響き渡る声。
その手が示す先には、悠然と佇むリュシアの姿があった。
「かの大魔将――バルトロメイ=グリムボーンの御息女、リュシア=グリムボーン様であらせられる!」
あまりに堂々とした口上に、一瞬その場が凍りついた。
(……それ、むしろ陛下がやられる方のやつでは?)
リオスは内心で突っ込みを入れながらも、ルーシーの狙いに気づいていた。
――幼年学校では、まだ正体を隠したい。
だからこそ、誇張じみた演出でリュシアの陰に隠れるつもりなのだと。
そして、それは効果を発揮していた。
グリムボーンの名のおかげで、それを奉るルーシーが何者かなど、誰も気にしていない。
いや、そんな余裕がないと言うべきか。
カエリウスの顔からは、見る見るうちに血の気が引いていく。
周囲の生徒たちも、どよめきながら距離を取っていた。
場の緊張が冷めやらぬなか――
1組の一角から、ひとりの少女――シエラが静かに前へと歩み出た。
淡い銀紫の髪に、青白い肌。深い紫の瞳が、勝者――リオスをまっすぐに見据え、言葉を発した。
「……一応、クラスメイトですし。彼の名誉の為に言っておきます。
彼が負けたのは、ただの人間ではありません」
その声音は、落ち着いてはいたが、どこか釘を刺すような響きがあった。
「リオス様は、リュシア=グリムボーン様の弟。そして――私の婚約者です」
周囲が一斉にどよめいた。
「えっ、婚約者って……!?」
「ちょ、マジで言ってんの……!?」
動揺する1組、ざわつく8組。
ついさっきまで「下位クラスの人間」だと思っていた相手が、実は名門中の名門とつながっていた。
とりわけ、カエリウスは顔を引きつらせて絶句していた。
そんな中――
「もう、ばらしちゃったか」
艶やかな銀髪を揺らしながら、リュシアが微笑ましげに肩をすくめる。
その口元には、どこか楽しげな色さえ浮かんでいた。
「……ほんとは、もう少し隠しておきたかったんだけどね。あの子の実力だけで、どこまで認めさせられるか、って。
でも……いいわ。今日の一戦で、十分証明されたもの」
そう言って、リュシアは視線をリオスに向け、わずかに微笑んだ。
(……なんか、勝手に話が大きくなっていくな)
リオスは内心でそう思いながらも、黙ってその視線を受け止めていた。
周囲のざわめきが続く中、シエラはふわりとスカートを揺らし、振り返った。
――その視線の先には、自らと同じ1組の面々がいる。
「そうそう、ついでに申し上げておきますけれど」
さらりとした口調で、シエラは続けた。
「私に求婚なさるのなら――まずは、リオス様を打ち負かしてからになさってくださいな」
ぞわり、と空気が凍る。
言葉の意味を理解した瞬間、1組の男子たちは微妙な顔を浮かべ、中には後ずさる者さえいた。
だが、シエラは構わず言葉を継ぐ。
今度は――8組の方を向いて、花のように微笑む。
「でも、妾の席でよろしければ――いくつでも空いておりますわよ?」
その笑顔は、まさに貴族令嬢の余裕と品に満ちていた。
「3人が8人になっても――わたくし、構いませんわ」
8組の女子たちが、一瞬きょとんとし、それから目をそらしたり、興味深げな表情をしたり、それぞれの反応をみせる。
男子は、再び女子と間違われたことに気づき、苦笑いを浮かべていた。
その中央で一人、リオスは深いため息をついた。
「……いや、ただのクラスメイトだし、男子いるし」
冷静に突っ込んだ彼の声に、シエラは「ん?」と小首をかしげた。
そして、8組の生徒たちを眺めまわし――
「……あら、たしかにふたりほど男子の制服ですわね」
どこか間の抜けた空気が広がり、重かった緊張がふっと緩む。
「……え、てことは、リオスくんって、貴族だったの……?」
ようやく理解がおよび、沈黙を破ったのは、ネリアだった。
その声をきっかけに、他の面々も一斉にざわめきはじめる。
「えっ、えっ、じゃあ、さっきの決闘って……貴族同士のアレだったの!?」
「え、でも下位クラスだし……いや、でも……え、え?」
戸惑いの渦の中、ひとりだけ、眉一つ動かさずに腕を組んでいた少年がいた。
「おーん? なんや、いまさらかいな」
ウィーゼルだった。
相変わらずの糸目でにやにやと笑いながら、隣のネリアとリコリスを肘でつつく。
「ワイは最初っから知っとったけどな。せやけど、気にするようなことやあらへんて」
だが、その言葉にもふたりは戸惑いを隠せない。
「……でも、そういうわけには……いかないでしょ?」
ネリアが、言葉を濁しながらリオスに視線を送る。
「わたしたちなんて、ただの平民どころか、父親も分からない、娼館の娘だし……」
リコリスも、花のような髪を揺らしながら小声で付け加えた。
「……貴族って、すごく、遠い存在っていうか……」
リオスはふたりの言葉に、少しだけ眉をひそめた。
「そういうの、気にせずにさ……。僕は僕だし。仲良くしてくれたら、うれしい」
真剣な声音だった。
だが――その言葉が届く前に、明後日の方向からの声が飛んだ。
「じゃあさ、あたしたちも妾にしてくれない!?」
元気いっぱい、ほぼ同時に飛びついてきたのは――
ルゥナとサララ。
ルゥナは無邪気な笑顔を浮かべながら、リオスの片腕にぴったりと胸を押しつけ、身体を擦り寄るように絡ませた。
「ねぇねぇ、あたし意外と一途だよ? でもリオスくんなら、妾でも……がまんできそう♡」
無自覚な距離感で、息がかかるほど顔を近づけ、瞳を潤ませて上目遣いに見つめる。
対するサララは、もう片方の腕をすっと引き寄せ、しなやかな指でリオスの胸元をなぞるように撫でる。
「妾でも、大事にしてくれるって約束してくれるなら……いいわよ。ほら、わたしって大人だし?」
その吐息交じりの声には、明らかに魔力が混じっていた。
ほんの微細な魅了――本能的な誘惑の術。
両腕を柔らかな肢体に挟まれたリオスは、耐えるように眉をひそめた。
「ちょ、ちょっと、待ってってば……っ!」
リオスは両腕をつかまれたまま困惑の極みにいた。
その様子を見て、ネリアとリコリスがますます沈んでいく――はずもなく、
「……なんか急に、貴族とかどうでもよくなってきたかも……」
「……たしかに、貴族ってより、演劇の主人公みたい……」
そんな声が漏れたあたりで、再びウィーゼルが口を開いた。
「まぁまぁ、落ち着きぃ。ウチのオトンがグリムボーン家の御用商人なんやけど、気さくでええ人やって話やで?
無理難題言わへんし、若旦那もそんな感じやろ」
「……え? 御用商人って……グリムボーン家の?」
リコリスがぽつりと呟く。
「え、それって……めちゃくちゃ、お金持ちじゃない……?」
ネリアも目を見開く。
すると今度は、リオスにまとわり付いていた、ルゥナとサララがぴたりと動きを止め、互いに顔を見合わせた。
「え、どっち?」
「お貴族様? それとも商人の御曹司? どっちに本気出そっか?」
「わ、わかんないけど……とりあえず両方!?」
「いけるいける、どっちも押さえとこ!」
「いやいやいやいや、ちょっと待てぇや」
さすがのウィーゼルも、慌てたように手を振った。
「えーいいじゃん」
「良い男にはつばつけとかないとね」
「なあ……お願いやから、ワイの人生設計を勝手に上書きせんといてくれぇっ!」
――だが、ウィーゼルの叫びは、虚空に吸い込まれていくだけだった。




