43:決闘か、屈服か
「おいッ、劣等種が……なんでこんなところにいるんだよッ!」
叫んだのは、明らかに苛立ちを露わにした少年――デーモン族の男子だった。
整えられた制服に身を包みながらも、顔立ちにはまだ幼さが残り、威圧感よりも感情のままに動いた粗野さが目立つ。
ヤギのような、湾曲した一対の角が額から斜めに突き出していた。
その先端は細く鋭く、青黒い光沢を放ってはいたが、少なくともリオスの美的感覚からすれば、その角は、あのルーシーの持つ荘厳な角に比べてずっと小さく、貧弱に見えた。
(……デーモン族の基準では、どうか知らないけど)
心のうちでそう呟きつつも、リオスの表情に動揺はない。
ただ静かに、その少年の姿を見つめ返していた。
デーモン族。それは魔王と同じ種族。
多くの魔族にとって、「格が違う」と思わされる、象徴のような存在。
だが――
(僕の知っている限り、デーモン族の高位貴族で、今の年齢――幼年学校に通うような子供なんて、いないはずだ)
ルーシーは例外中の例外だが。
もちろん、すべてを知っているわけではない。
中級以下の家、あるいは他家からの養子といったものまでは、正確に把握しているわけではなかった。
だが、それでも目の前の少年は、リオスの知る「名のあるデーモン族」には該当しなかった。
加えて、その所作。
(振る舞いが変に力んでいる。……身体つきも、鍛え方が甘い。
たぶん、あの子は――1組の中でも、下の方なんじゃないかな?)
本人の年齢に見合わぬ冷静さと観察眼で、リオスはそう分析した。
そしてそれは、魔王と同じ種族だからといって恐れることなく相手を見極めようとする意志の現れでもあった。
周囲がひたすら沈黙し、空気が張り詰める中、訓練場の一角で、声を張り上げたデーモンの少年を前に、
リオスは、まったく動じなかった。
彼の目は冷静なまま、周囲を一瞥する。
そして、静かな声で、ただ必要な説明をするように口を開いた。
「……見学しているだけだけど」
その一言は、感情の起伏を含まない、ごく普通の口調だった。
だからこそ、場の緊張をいっそう際立たせた。
「なに……っ!?」
少年の顔が、瞬間的に怒りに染まる。
「劣等種のくせに……ッ! ここは、お前みたいな奴が立ち入っていい場所じゃないんだよッ!!」
声が跳ね、響き渡った。
その怒気に、8組の生徒たちは思わず体をすくめる。
誰もが、彼の言葉の理不尽さに気づきながらも、それを正面から否定する勇気を持てなかった。
――デーモン族が、怒っている。
その事実だけで、劣等種と呼ばれる彼らにとっては「理屈よりも危険」が優先された。
だが、リオスは違った。
彼は微かに首を傾げ、ほんのわずかに眉を上げる。
「でも、ここって……東西共用の施設でしょ? 僕たちのクラスも使っていいはずだよ」
その声音に、怯えや逆上はない。
むしろ、淡々とした確認のようで、誰に対して語りかけるでもなく、空気に向かって発せられた一言だった。
「それに、立ち入り禁止の札もなかったし。訓練場は、生徒なら誰でも使っていいって書いてあったけど」
静かに放たれたその言葉は正論であり、同時に、少年の怒鳴り声を無力化する現実でもあった。
デーモンの少年の目が、わずかに揺れる。
当然だった。生徒向けの規則に照らしてみれば、訓練場に限らず全ての施設は東西両方のクラスが共用で使える施設として明記されている。
少なくとも建前上はそうだし、訓練場のように屋外の施設はなおさらだ。
確かに「危険物保管庫」や「魔力炉制御室」など、明確な立ち入り禁止区域は存在するが、そこは、この場とはまったく関係がない。
少年自身、それを知らないはずがなかった。
それでもなお、あえて禁止を叫んだのは、ただ怒鳴りたかったからだ。
自分より下に見える相手を、叩きつける理由が欲しかっただけなのだ。
そして、その虚勢が、リオスの言葉によって見事に打ち砕かれた。
「この俺に……逆らうつもりか」
静かに、だが底冷えするような声音で、デーモンの少年が言い放った。
それは怒りというより、侮蔑。
当然のことに反論されたこと自体が、彼にとっては許せない不敬だったのだろう。
彼は、ゆっくりと顎を上げる。
その動きには、誇示というより、名乗ることが「義務」とでも言いたげな自負のようなものが込められていた。
「カエリウス=デクラディウス。
魔王陛下の血統に連なる、デーモン族・正嫡の一系。この名、記憶に刻め」
その言葉に、周囲がさらにざわめいた。しかし――
(……デクラディウス?)
リオスの眉が、ほんのわずかに動く。
思い返す。記憶を巡らせる。だが、引っかかるものがない。
(そんな名前……聞いたことない。上位の家系にその姓はなかったはず)
念のため、リオスは視線を前方、1組の集団の中にいる、淡紫の髪の少女に送る。
視線が合った。無言の問い。「知ってる?」
シエラは、わずかに首を傾げたあと、すぐに目だけで「知らない」と返してきた。
動きは小さかったが、意志ははっきりとしていた。
ルキフェル家はグリムボーン家とは違い、社交も重視している。
魔族上層の名家については、リオス以上に熟知しているはず。
その彼女ですら「知らない」と即答するなら、この少年の名乗りは、少なくとも“格”を伴うものではない。
(やっぱり、そういうことか)
リオスの瞳が、わずかに細められる。
デーモン族ということは、魔神ヴァルゼルグに連なる血筋ということにウソはないはずだが、だからといって嫡流というわけでもない。
分家の分家といったところだろう。
名乗りを終えたカエリウスは、さらに一歩前に出た。
威圧的な足音を鳴らしながら、じりじりとリオスとの距離を詰める。
「女ばかり侍らせているようなやつだ。おおむね、格好つけているんだろうが、やりすぎないようにしろよ!」
吐き捨てるようなその言葉に、周囲の空気がわずかにざらつく。
明らかな挑発。それも、貴族の矜持とはかけ離れた、下卑た嘲り。
だが、リオスはほんの少し眉をひそめただけだった。
(……女ばかり?)
一瞬、意味を取り違えたかと疑ったが、文脈的にそうではない。
つまりカエリウスは、自分が「女を侍らせて虚勢を張っている」と言いたいらしい。
リオスは、ちらりと自分の後方に目をやる。
そこには確かに少女が3人。
ネリア、ルゥナ、サララ。
いずれも目立つ存在だ。
だが、同時にそこには――
(……僕と、リコリスと、ヴィーゼル。合わせて3人。男子も同じ人数いるんだけど……)
女を侍らせているとは言い難い。
だが、思考の中で、ふとひっかかる感覚。
(……あ。そういえば)
リコリスは、アルラウネ。見た目は完全に女の子にしか見えない。
仕草も、声も、立ち姿も。制服姿ですら、リオス自身が見間違えたくらいだ。
さらに、ヴィーゼル。
あの肩にかかる、柔らかそうな銀髪のボブカット。
あれも、遠目から見れば、確かに少女っぽく見えなくもないだろう。
(……なるほど、そう見えたのか)
リオスは、小さく息を吐いた。
「別に……女の子ばかり侍らせているわけじゃないけど」
淡々とした一言。事実を述べた、それだけのつもりだった。
だがその瞬間、リオスの脇にいたヴィーゼルが、口元に手を当てて小声でささやく。
「……それ、逆効果だと思うで」
誰にも聞こえないように、こっそりと。
しかしその表情は、あきれと困惑がない交ぜになっていた。
リオスはわずかに目を瞬かせるが、それ以上何も言わなかった。
言ってしまったものは、もう戻らない。
それに、事実を否定する理由もない。そう思っていた。
だが、それがカエリウスの癇に、見事に触れた。
「……はァ?」
低く、押し殺した声。
それはまるで、底の浅い水面に投げられた石のように、小さく音を立てて怒気を広げていく。
「ふざけやがって……! てめぇ、どこまで俺を舐めれば気が済むんだよッ!!」
カエリウスの顔が、怒りに紅潮していた。
瞳に宿るのは、明確な敵意。
もはや小突くだけでは済まさない、暴力の予兆。
その声に、生徒たちがざわついた。
誰かが一歩引き、誰かが息を飲む。
だが誰も、止めようとはしない。ここは魔族の学校。
強さと誇りがものを言う場所で、口論の末に拳が交わることも、決して珍しくはなかった。
そんな場で、カエリウスは右手を突き出すようにして、リオスを指差す。
「この場でひざまずいて謝るか、決闘だッ! どっちか選べ、劣等種ッ!!」
カエリウスの怒声が訓練場に響き渡った瞬間、空気が張り詰め、そして、すぐに弛緩した。
困惑と、安堵。
その奇妙な入り混じった気配が、周囲の生徒たちの間に広がっていく。
(……まあ、そうなるか)
(決闘なんて口にしているけど、実際にやるはずがない)
(人間が、デーモン族に勝てるわけないだろう……)
誰もがそう思っていた。
デーモン族。魔王と同じ種族に生まれた存在に、劣等種とされる人間が勝てるはずがない。
ならば、リオスはこの場で屈服し、謝罪して終わるはずだ。
そうなるように。そうなってくれと、心のどこかで願っていた。
一方的に弱者をいたぶるような光景は見たくない。
平伏のほうを選ぶだろう。
1組の面々ですら、そう思っていた。
ほんの、数人の例外を除いて。
例えば、シエラ。リオスと対等にぶつかり合ってきた彼女の瞳は、静かに彼を見つめていた。
例えば、ヴィーゼル。飄々とした笑みの裏で、お手並み拝見といったような、沈黙。
そんな中、リオスは、ただ淡々と、静かに言った。
「ひざまずく気はないよ」
それは、決して挑発ではなかった。ただ、選択肢の一つを冷静に否定しただけ。
だが、それは結果として、もう一方の「選択肢」を選んだに等しかった。
「――ッく、はああぁ……っ!」
カエリウスの肩が大きく震えた。
拳を強く握り締め、爪が手のひらに食い込む音すら聞こえてきそうだった。
「てめぇ……っ、この俺を……ッ!」
顔は真っ赤に染まり、喉を震わせるように、言葉が怒りに焼かれていく。
「いいだろう……! そこまで言うなら、いいだろうッ!!」
彼は、怒声を絞り出すように叫んだ。
それは、もはや挑発でも誇示でもなかった。
ただ、自尊心が潰されかけたことに対する、野生のような本能的な反発だった。
「――決闘だ! この場で正式に申し込んでやるッ!! 逃げるなよ、劣等種がッ!!」
その叫びには、感情のすべてが乗っていた。
自らの正しさを証明したいという執念。
見下していた相手に、冷静に否定された屈辱。
そしてなにより、自分が“劣っている”とは認めたくない幼さ。
その怒号が、訓練場の空気を再び、刺すような緊張に染め上げた。
カエリウスが言い放った直後だった。
ざっ、と風が吹いた。
砂煙が小さく巻き上がり、熱を帯びた訓練場の空気をわずかに揺らす。
その風の向こうから、ふたつの影が静かに歩み寄ってきた。
陽を浴びて、銀色の髪がひときわ鮮やかに煌めく。
堂々たる足取りで進み出たのは、鍛え抜かれた肢体に、研ぎ澄まされた気配をまとった少女、リュシア。
ただ立っているだけで、肌を刺すような“圧”が生まれていた。
その源が、魔族の中でも特に屈強とされるダークオーガの血によるものだと気づく者もいたが、そうと知らずとも、それが“ただ者ではない”と察するには十分だった。
続いて現れたのは、ヤギのような角と艶やかな黒髪をもつ少女、ルーシー。
長く伸びた睫毛の奥に潜む真紅の瞳が、無言のまま周囲を流し見るだけで息が詰まりそうになる。
生徒たちは、誰もが無意識にその歩みに道を譲っていた。
威圧感。風格。そして、“位”の差。
たとえ名前も立場も知らなくとも、その場にいた全員が本能的に理解した。
――このふたりは、自分たちとは“格”が違う。
上級生。それも、ただ学年が上というだけではない。
魔族の中でも、上位に位置する種族、ダークオーガとデーモン。
そんな存在が、揃って目の前に現れたのだ。
つい先ほどまで声を荒げていた男子ですら、肩を竦め、息を呑む。
訓練場に、再び沈黙が落ちた。
ふたりは、迷いもなく場の中央へと歩み寄っていく。
空気が引き締まる。
「騒がしいと思ったら、ずいぶん愉快なことになってるじゃない」
リュシアが片眉を上げて言った。
その声音には余裕と威厳が混ざり、年長者としての風格が滲んでいた。
「勝手な私闘は、校則違反よ。生徒会役員として、放ってはおけないわ」
その一言に、カエリウスの肩がびくりと揺れた。
怒気が萎えるわけではなかったが、相手が“本物の上位者”と悟り、戸惑いが混じる。
ルーシーが続ける。
「決闘を行うのならば、まずは申請書に記名せねばならぬぞ。立会人の承認印と第三者の見届けも必要じゃ。
わらわたちは生徒会に認定された上級生ゆえ、仮申請ならここで受理してやってもよいぞ?」
手には、本物の申請書が握られていた。
どうやら、最初からこうした騒動を見越していたらしい。
その瞬間、リオスはふと気づく。まったく気配を感じなかったが、いつからそこにいたのだ。
あれほど目立つふたりが、まるで空気のように存在を消していたという事実に、内心で思わず笑いそうになった。
(……なんだよ。待ち構えていたのか。まるで、舞台の幕裏に隠れていた役者じゃないか)
だがそのとき、銀の髪がわずかに揺れた。
リュシアが、誰にも気づかれぬ角度で、ちらりとこちらを一瞥する。
視線に言葉はないが、その意味ははっきりと伝わった。
――ばらすなよ。
言葉にすればそんなふうな、無言の牽制。
リオスは肩をすくめそうになるのを必死で堪え、口元だけでにやけそうになるのを押しとどめた。
(……はいはい。秘密にしておくよ、姉上)
声にならない言葉を呑み込みながら、リオスは静かに事態の成り行きを見守り続けた。
「軽い鍛錬のつもりだったけど……ふふっ、ちょうど面白い場面に出くわしたわね。ね、ルーシー?」
「うむ。ひと汗流すつもりで来たのじゃが、これなら、退屈せずに済みそうじゃな」
ふたりの間で交わされた言葉は軽いものだったが、周囲にとっては、まるで裁定が下されたかのような重みをもって響いた。
カエリウスが言葉に詰まりながらも、渋々頷く。
「……けっ。いいさ。やってやるよ。正規の手続きとやらでな」
こうして、騒動は正式な決闘として進行することが決まった。




