42:校内見学
エルネストが教室を去ると、張り詰めていた空気が一気に緩み、生徒たちはざわつき始めた。
初日から密度の濃い時間を過ごした反動か、早くも疲れた様子を見せる者もいた。
リオスは、そんな教室の空気からわずかに距離を置くように、自席で静かに座っていた。
(……さて、どうしようか)
このまま帰ってもいい。明日から本格的に始まるという授業に備えて、体力を温存するのも悪くない。
だが、どこか物足りなさも感じていた。
(シエラは、同じ1年だし、そろそろ終わる頃合いかな? 寄ってみてもいいかもしれないな)
そして、ふとリュシアの顔が脳裏をよぎった。学年が違うので、まだ授業などあるかもしれないが……。
「――おおっと。何を物思いにふけとるんや、決闘男?」
不意に、背後から軽快な声が飛んできた。
振り返ると、銀髪を肩まで垂らした少年――ウィーゼルが、糸のような目でにやにやと笑っていた。
「さっきの“決闘質問”、あれにはわいも震えたで。初っ端から先生の目をまっすぐ見て、あんな質問。度胸あるやんか、ほんま」
「……変なあだ名を勝手につけないでよ」
眉をひそめるリオスに、ウィーゼルは軽く肩をすくめてみせた。
「ほな、『若旦那』とでも呼べばええか?」
その一言に、リオスは胸の奥でぼんやりとくすぶっていた既視感の正体に、ようやく思い至った。
いや、独特の訛りを聞いた瞬間から、ほぼ確信に近かったのだ。
それを、ようやく言語化して認識したというべきか。
「一応、聞いておくけど……キミの御父上って、ライカンスロープで、名前はドランって言わない?」
それは、グリムボーン家の御用商人だった。
リオス自身も何度か顔を合わせ、多少なりとも世話になったことのある人物の名だ。
「ご名答や。せやけどな、――『御父上』やなんて立派な言い方、わいらみたいな平民には似合わへん」
ウィーゼルはいたずらっぽく笑いながら、指を振った。
「『親父さん』くらいにしとき。――せやないと、浮くで?」
リオスは少し目を細め、思案するようにウィーゼルを見つめた。
特に身分を隠しておくつもりはない。
だが、だからといって、自ら積極的に距離を置きたいとも思っていなかった。
「……そうか。確かに、そういう言い方は、ちょっと目立つのかもしれないね」
苦笑交じりに言うと、リオスは小さく頷いた。
「ありがとう、ウィーゼルくん。教えてくれて」
ウィーゼルが「くん付け」に一瞬むず痒そうな顔をしたが、何も言わずに肩をすくめる。
「……それと、もしよかったらだけど――」
リオスはほんの少し、言いづらそうに言葉を継いだ。
「こういう場での言葉づかいとか、常識みたいなもの……教えてもらえないかな?」
「……ほほう」
ウィーゼルの糸目が、笑いとともにやや吊り上がった。
「若旦那、なかなか素直やな? ええで、その心意気があれば上等や」
そして、ニィと笑った。
「ねえねえ、なに話してるの~?」
背後から、ふわんとした声が割って入った。
振り返れば、ツインテールのルゥナが、好奇心そのままの瞳でリオスとウィーゼルの間に首を突っ込んできた。
その後ろには、黒髪をなびかせたサララが、ゆるやかな微笑みを浮かべて歩いてきた。
「ふふっ。男子だけでこそこそ話すなんて、ずるいわね」
「おっと、えらい美人ふたりが来たもんやな。これはこれは」
ウィーゼルはやや大袈裟な動きで頭を下げると、にやりと笑って言った。
「何を話してたかいうたら――こちら、クラス代表殿との親睦を深めとったんや」
さらりとリオスに目を向けると、今度は自分の胸を軽く叩いて続ける。
「ちなみに、わいはその補佐を仰せつかってますんで。代表殿のサポート、しっかり務めさせてもらいまっせ」
「代表……あっ、それならネリアも“手伝え”って言われてたよね?」
ルゥナが無邪気に振り返ると、ネリアは小さく目を瞬かせた。
「え、えっと……たしかに、そう言われたけど」
「なら、やっぱり交友を深めないと~」
にこにこと笑うルゥナの隣で、サララがふわりと髪をかき上げて言った。
「だったらリコリスくんも誘わなきゃね。さっきから荷物の片づけに困ってるみたいだし、放っておけないでしょ?」
その言葉に、リオスは視線を後ろの席へと向けた。
ちょうどすぐ後ろの席で、赤い髪の少年――リコリスが荷物をまとめようと、鞄の紐と悪戦苦闘していた。
細い指が布に引っかかり、小さなため息を漏らした。
何度かやり直しているようだが、まだ終わっていない様子だった。
「……リコリスくんも、一緒にどう?」
リオスが声をかけると、リコリスはほんのわずかに目を見開き、動きを止めた。
すぐに、すっと立ち上がると、恥ずかしそうに小さく頷く。
「うん。……断る理由も、ないし」
それだけ言って、彼は静かに輪へと加わった。
集まったのは、リオスを中心とした、クラス代表やその補佐を任された面々だ。
それに、何かと自由なサキュバスのふたり――ルゥナとサララだった。
結果的に、ちょっとした小集団が出来上がった形になった。
「ふふん、いい感じに“クラスの中核”って雰囲気になってきたやん?」
ウィーゼルがひときわ大袈裟に腕を組み、得意げに言った。
「じゃあ、校内見学、行こっか!」
ふわりとした声でルゥナが手を挙げた。
言い出しっぺのくせに、その顔はどこか無邪気すぎて、まるで思いつきで口にしたようにも見えた。
「せっかくだし、教室だけじゃなくて、校庭とか渡り廊下とかも見てみたいな~」
「ふふっ、いいわね。広い敷地を歩くには、今がいちばん余裕があるもの」
サララも軽く頷いて同意した。その言葉に、ネリアも小さく頷き、リコリスも荷物を肩にかけ直して静かに歩き出した。
自然と歩き出しかけたそのとき、リオスが少し躊躇するように口を開いた。
「……あの、一つだけ聞いていいかな」
みんなが立ち止まって、振り返る。
「もしかしたら、途中で他のクラスの友達に会うかもしれない。そのときは……合流しても、いいかな?」
ほんの少しの不安を含んだ問いかけだったが、返ってきたのはどこまでも軽い笑みだった。
「もちろん! そんなん、ダメな理由ないよ~!」
とルゥナが即答し、
「ええ。親睦、ですものね」
とサララも笑った。
ひと安心したリオスが笑い返した、そのとき――
ウィーゼルがそっと肩を寄せ、小声で囁いた。
「他のクラスの“お友達”いうのんは……もしや、ルキフェル家のご令嬢やったり?」
「……うん。よく分かったね」
リオスは特に隠す素振りも見せず、あっけらかんと笑いながら答えた。
その笑顔に、ウィーゼルの頬がひきつる。
「……やっぱり、そないか……」
そして遠くを見つめながら、ぼそりと呟いた。
「たぶん、みんな……“平民のお友達”やと思ってるんやろなあ……。このあと、どんな顔するんやろ……」
◇
見学は、教室の扉を出て、廊下を真っすぐ進むところから始まった。
床に敷き詰められた石材は所々ひび割れ、天井の魔力灯も点滅していた。
空気にはほんのりと鉄錆のような匂いが混じっている。
リオスは何気なく足を進めながら、
(……思っていたよりも古びているんだな)
と心の中で呟いた。
最初に訪れたのは図書室だった。
重たい扉を開けると、むわりとした空気が迎えてくる。
埃と革表紙の混じった匂いが鼻をくすぐり、並ぶ本棚は不揃いで、どこか落ち着かない雰囲気だった。
中には魔力に反応してうっすらと光る書もあったが、それ以上に、修繕待ちらしき本が机の上に山積みされていた。
「こんなに……たくさんの本……!」
ネリアが小声で感嘆の声を漏らした。隣のリコリスも、目を輝かせながら呟く。
「……王都の学校って、やっぱりすごいんだね。僕の村の図書室とは比べ物にならない」
ウィーゼルも本棚を見上げて唸る。
「平民の施設じゃ、こんなに蔵書も充実しとらんからな。さすがは王都の学校、えらい立派や」
リオスは彼らの言葉に微かに頷きながらも、ふと内心で思っていた。
(やっぱり、かなり施設が古いな……)
――書見台の脚はがたつき、机の布地は裂け、蔵書の目録も年季が入っていた。
次に訪れたのは食堂だった。
天井が高く開放感はあるが、空気には調理済みの油と焦げのにおいが染みついている。
カウンターから覗く調理台には魔熱炉が並び、ところどころ塗装の剥げた鉄板が貼り付けられていた。
きっと過去に魔力暴発か何かがあったのだろう。
「広いし、わくわくするよね!」
ルゥナが笑顔で駆けていく。
ネリアも、天井の高い空間を見上げて目を丸くする。
「こんなに広い食堂があるなんて、昼食の時間が楽しみになりそう……!」
リコリスも「うちの学校はもっと狭くて、席取りが大変だったんだ」と少し困ったように笑った。
ウィーゼルが腕を組み、満足そうに頷く。
「こんな立派な設備はなかなか見られへんからな。さすがは王都、食いもんにありつくにも格が違うわ」
サララも
「ふふ、何を食べさせてくれるのかしら」
と肩を揺らした。
次は、地下へと続く階段の前で足を止めた。
「こっちが……“懲戒室”。行きたくないところの代表やな」
ウィーゼルが指差す先、階段の下は暗く、ひんやりとした冷気が這い上がってきていた。
魔力灯も途中で切れており、奥はまるで穴蔵のように真っ暗だった。
「……行かない方が、いい、よね……?」
ルゥナが胸の前で腕を抱き、小さく震えるように言うと、サララも
「ええ、行かないに越したことはないわ」
と同意した。
重たい空気の残る階段を背に、最後に向かったのは訓練場だった。
そこは、まるで空気が一変するかのように、整備されていた。
東西共通の使用施設らしく、敷地は広く、整った魔力練土が地面を覆っている。
魔力の残滓が空気に漂い、リオスは肌にかすかな痺れを感じ取った。
武器棚には木剣や槍が整列し、観覧席の背もたれには、「○勝○敗」や「◯組最強」といった言葉、過去の勝負を誇る記録や挑発的な言葉、応援の名乗りが刻まれていた。
中には「ここで泣いたら負け」「ぜってー見返す」など、熱く泥臭い落書きすらあった。
それらがこの場所の“使い込まれた歴史”と、“剣を交える者たちの誇り”を無言で物語っていた。
「うわあ、ここ、すごい!」
ルゥナが目を輝かせて駆けていく。
リコリスも、整然と並んだ武器棚を見上げ、感動を隠せない様子だ。
「ちゃんとした訓練場って、初めて見たかも……。村では広場を使ってたから、こんなに本格的な場所があるなんて、夢みたいだ」
ネリアも感心したように頷く。
「こんなに綺麗に整備されているなんて……。安全に訓練ができそうです」
ウィーゼルは地面の魔力練土に触れ、満足げな表情を浮かべる。
「平民が出られる訓練場なんか、もっとボロボロで埃まみれやからな。こないな立派な場所で鍛えられるんやったら、さぞかし腕も上がるやろな!」
(――やっぱり、“訓練場”って、落ち着くな)
リオスがそんなことを思っていたときだった。
もう一方の入口から、ぞろぞろと別の一団が姿を現した。
明らかに風格が違う。
整った身なり、迷いのない足取り。
オーガやオーク、ドワーフといった上位種族が揃い、その中央には見覚えのある銀髪の少女がいた。
(シエラ……1組か)
リオスが自然と歩み出しかけたその時――
「おいッ、劣等種が……なんでこんなところにいるんだよッ!」
鋭く響いた声が、空気を裂いた。
訓練場の緊張が一気に張り詰めた――




