3:穏やかな朝に
その朝の食卓は、ただ静かで、穏やかだった。
けれど、セラの胸の奥には、ほんの名残のように、過去の影が霞のように揺れていた。
朝の食堂には、湯気の立つ皿がいくつも並んでいた。
肉と根菜をじっくり煮込んだスープの香りが、陽光の中にふわりと広がる。
香草と脂の温かな匂いが鼻をくすぐり、陶器のふちに結露が光を受けて瞬いていた。
軽く焦げ目のついたパンは、割ると柔らかな蒸気を立て、焼きたての甘い香りを放つ。
いくつかのチーズが銀の小皿に並び、リュシアはその中から辛味の強いものを選んで口に運んでいる。
スプーンが器の内側をかすめる音が、ひときわ静かな朝の空気を震わせた。
重厚な木製の長卓に、家族四人が席を揃えていた。
バルトロメイ=グリムボーン。その隣には、正妻メルヴィラ=グリムボーン。銀髪に赤い瞳、気品と知性を湛えたこの家の“柱”たる貴婦人。
そして対面に座るのは、色素の薄い銀髪と、透き通る白肌を持つ儚げな女性――セラ=グリムボーン。かつて人間の村で囚われ、深い絶望の底に沈んだ娘。
その隣には、今もなお成長を続けるあの時の子――リオスがいる。
セラは、少年の白い指先がスプーンを握る様子を、そっと見つめていた。
その手元が、ふと己の膝に触れたような錯覚を呼び、胸の奥にじんわりとした温もりが広がる。
(……私は、この子を、心から愛している)
そう思える自分になれた。心のどこを探しても、もう疑いはなかった。
あの過去は消えない。けれど、それはもう彼女を支配していない。
――あの人に抱き上げられたとき。
あの人の妻に、対等に迎え入れられたとき。
そして、何よりもこの子が、生きて、笑って、隣に座っている今――
そのすべてが、過去を乗り越えるだけの力をくれた。
傷を“救うべきもの”として受け止めてくれた男。
誇り高く、温かく、共に家を支えてくれた正妻。
弟に惜しみなく愛情を注ぎ、導いてくれる娘。
そして何より――この子が、自分にとって、かけがえのない「我が子」であるということ。
セラは、安心を胸いっぱいに満たしながら、目を細めた。
「……ふふ。今日も、ずいぶんと本気の訓練だったようね」
口火を切ったのは、メルヴィラだった。湯気の立つスープを軽くかき混ぜながら、静かに言う。
「ええ。リオスが策を使ってきたから、ちょっとだけ本気を出したの」
リュシアはパンを小さく割りながら言った。
その横顔には、どこか誇らしげな、姉としての笑みが浮かんでいた。
「……額の痕、まだ赤いじゃない」
思わず、セラが声をかけていた。
リオスはばつが悪そうに頭を掻いた。
「大丈夫だよ。姉上の攻撃は……ちゃんと手加減してくれてたし」
「ふふっ。“ちゃんと”ね」
リュシアがわざと肩を竦める。
その柔らかな空気を、低く震える声が引き締めた。
「……リオス」
バルトロメイの声だった。その一言に、少年の背筋がぴんと伸びる。
「は、はいっ」
「“策”は悪くない。ただし――策を仕掛けたあとの動きが、勝敗を分ける」
「……はい」
「今日の動きは評価に値する。隙を突く目は、戦場の目だ」
その一言に、リオスの顔がぱっと明るくなった。
セラは、その横顔を見ながら、胸の奥で手を合わせるように祈る。
(――この子が、愛されて育つ家で、本当によかった)
◆
朝食を終えた二人は、屋敷の一角――書院へと足を運んだ。
そこは魔道書や歴史書が整然と並ぶ、学問のための空間。大窓から朝の光が差し込み、木と紙の香りが鼻をくすぐる。
机の上には筆と墨、そして教本が用意されている。
座るなり、背筋を伸ばすリオスとリュシアの姿に、教師――メルヴィラは微かに頷いた。
「さて、今日からは新しい写本に入ります」
彼女は机の端から一冊の本を取り上げた。
それは、黄味がかった厚手の紙を綴じたもの。漂白されていない分、素朴だが力強く、魔国では一般に使用される筆記用紙だ。墨の吸いもよく、魔力に強く、破れにくい。
「これまで習った文字は、もう十分に形になっているわ。これからは“物語”の中で、“言葉”を学んでいきましょう」
メルヴィラの声が落ち着いた調子で響くと、リュシアとリオスは机の上の写本を見つめた。
そこには古き寓話や建軍史、英雄譚などが並んでいた。
「題材は決めてもいいのよ。今日は……リオス。あなたに選ばせましょう」
「えっ、ぼ、僕ですか?」
一瞬たじろいだが、リオスは迷わず口を開いた。
「じゃあ……あの……『夜明けの巨影』がいいです!」
数拍の沈黙。
その静寂を破ったのは、姉のささやかな笑い声だった。
「ふふ……父上推しね? リオス、わかりやすい」
「えっ、ち、ちがっ……!」
「ふふふ。冗談よ」
リュシアの笑みに、リオスは真っ赤になって目をそらす。
そのとき――
部屋の隅で読書椅子に座っていたバルトロメイが、ちらりとこちらを見た。
その巨体は一切動かない。視線も、表情も、まるで彫像のように整っている。
――だが。
その耳の付け根が、わずかに赤く染まっていた。
それを見逃さなかったのは、ふたりの妻だけだった。
メルヴィラは、気づかぬふりで視線を落とす。唇の端が、ほんの少しだけ持ち上がる。
セラは肩を震わせ、柔らかな笑みを浮かべていた。
(……まったく。そういうところ、隠しきれないのよね)
(あれは……本当に嬉しそうだわ)
視線を交わすことなく、ふたりの女が静かに頷き合った。
「では、今日はその“巨影”の冒頭から、書き写しを始めましょう」
メルヴィラが表紙を開き、筆を取る。
その動きに合わせ、リオスも墨を含ませた筆を、紙の上に滑らせた。
静かな書院に、紙を擦る音だけが響いていた。