37:密室の語らい
用を済ませたリオスは、回廊に戻り、先を行くフィノアの背を追う。王城の廊下は広く、壁には精緻な魔紋が浮かび、天井には淡く光る魔光灯が連なっている。
だが――何かがおかしい。
(……さっきと、雰囲気が違うような……?)
曲がり角をいくつか越えるたび、少しずつ、空間が変化しているような気がした。壁の文様の角度、絨毯の縁取りの色、柱の陰の長さ……どれもが微妙に違って見える。
違和感は存在する。しかし、フィノアは特に気にする様子もなく先を歩いていた。
――いや、少し様子が異なる。
「……ええと、こちら……でしたよね?」
珍しく戸惑いを見せたフィノアが、曲がり角の前で立ち止まり、小さく首を傾げた。その姿は冷静そのものではあるが、少し焦っている。
「フィノ……?」
「失礼、少々……方向を誤ったかもしれません。回廊が思ったよりも複雑で……」
リオスは、思わず立ち止まって辺りを見回す。
(でも、さっきは迷わず来られたはず……)
喉まで出かかった違和感の言葉を、リオスは飲み込む。フィノアが何も言わないということは、たぶん気のせいなのだろう。あるいは、王城という建物そのものが、こういう構造なのかもしれない――
「……いや、大丈夫。ちょっと広いだけだと思う。案内、頼むよ」
「承知しました。すぐに正しい道を見つけます」
フィノアはそう応じ、歩幅を広げながら再び歩き出す。
その背中を追いながら、リオスは胸の奥のもやもやを、ひとまず飲み込むことにした。
◇
何度か角を曲がったのち、急に空気が変わった。
石畳の模様、壁の質感、照明の光の加減――どれも見覚えがある。リオスは思わず立ち止まり、あたりを見回した。
「……ここって」
「ええ。間違いありません。控室エリアです」
フィノアが頷いた。
控室の扉には、それぞれ貴族家の紋章が貼られている。ひとつには、グリムボーン家の黒獅子の印。さほど前でもない、今日の準備時に立ち寄った場所――その記憶が、安堵を呼び起こす。
「よかった……やっと戻ってこれたね」
「ご安心ください。やはり少し道を間違えただけのようです」
ふたりがほっと胸を撫で下ろしたその時だった。
ギィ――
控室のひとつの扉が、ゆっくりと音を立てて開いた。
中から現れたのは、一人の女性。
腰まで届く艶やかなワインレッドの髪が、滑らかに波打つように揺れていた。深紅のスリットドレスは、しなやかな曲線を描き、見る者を惹きつけるような優雅さを放っていた。
瞳は琥珀色。まるで宝石のように輝き、一度見たらもう目を離せない、不思議な魅力を宿している。
彼女は扉の縁に指を添え、くすりと微笑んだ。
「まあ……かわいらしい子が、ふたり」
その声は、絹の衣がそよぐように甘く、耳の奥にじんわりと残る。
足取りはゆったりとしているのに、なぜかリオスは視線を奪われ、釘付けになってしまう。彼女の動き一つ一つが、まるで見る者を引き込むために作られた、繊細な舞踏のようだった。
それがサキュバスという存在だと知らなくても――リオスは、無意識のうちに身じろぎ、魅入られていた。
艶やかな微笑を浮かべたまま、サキュバスがゆっくりと歩み寄ってくる。
その気配に圧されるように、リオスは無意識に一歩だけ後ずさった。
すると、すかさずフィノアが身を寄せ、囁くように言った。
「――リリシア=ヴェルファーン。大魔将のひとり、です」
「……っ」
短く呼吸を止めた瞬間、リオスの脳裏に、数カ月前の会話がよみがえった。
自分の種を望んだ人物。バルトロメイとの会話の中で語られたその名が、まさにいま目の前に立っている――。
それを理解した瞬間、リオスの表情がきゅっと引き締まった。
深く呼吸を吸い込み、背筋を伸ばす。そして一歩、前に出る。
「……初めまして。バルトロメイ=グリムボーンの子、リオスと申します。本日は、光栄な出会いを賜り、誠にありがとうございます」
小さな手を胸元に添え、礼装にふさわしい深い一礼を捧げた。
声はやや緊張していたが、言葉選びも動きも、子どもとは思えないほど端正だった。
その一連の所作を、リリシアはじっと見つめる。
(――ふふ。これは、驚いたわね)
大人の貴族でさえ、このレベルの挨拶ができない者もいるというのに。
これはきっと、バルトロメイの血筋……いや――メルヴィラの教育の賜物か。
リリシアは一歩、リオスに歩み寄ると、豊かな髪を肩に流しながら微笑んだ。
「――リリシア=ヴェルファーン。僭越ながら、名乗りを返させていただきますわ」
その声音には、艶やかさと高貴さが同居していた。そして、興味を隠そうともしないまなざしでリオスを見つめたまま、軽く腰を傾ける。
「少しだけ、お話ししていっていただけるかしら? よろしければ、中でお茶でも」
控室の扉の奥――緋色のカーテンがかすかに揺れていた。その向こうには、誘惑と密かな興味の気配が渦巻いているように感じられる。
リオスは、しかし迷いなく、穏やかな口調で答えた。
「……そのお誘い、大変光栄です。ですが――実は私、少し席を外す用事があるとだけ姉たちに伝えてきたもので……。これ以上遅れると、心配をかけてしまうかと」
年若いながらも、言葉選びは丁寧で、拒絶ではなく礼節を尽くした断りとして成立していた。
リリシアは、ふっと目を細め、表情の奥に少しの愉悦を覗かせる。
「まあ……ふふ。心配させるのは、もっともなことですわね」
そして、ふと視線をフィノアに向ける。
「それでは――お姉さま方には、私から少し遅れる旨をお伝えさせていただきましょうか。従者のあなた、お願いしてもよろしくて?」
「……はい、かしこまりました」
フィノアは一礼すると、躊躇なくその場を離れ、すぐに廊下を折れて姿を消した。
「……今のって、もしかして、魅了でしたか?」
リオスの問いは、警戒よりもむしろ好奇心に近い声音だった。問いかける目も素直で、隠し立てのない少年のまなざしだった。
リリシアは、その純粋さに微笑を深める。
「どうして、そう思ったのかしら?」
「……フィノが、あんなにすぐに離れたからです。彼女、普通なら命令の確認をするはずなんです。少なくとも、“本当に僕を置いていいのか”って、問い返してきたと思うんです」
リオスの言葉には、よく観察された実感がこもっていた。
リリシアは少しだけ感心したように頷くと、緩やかに首を傾げて尋ねる。
「じゃあ、そんな風に魅了かもしれないと思っていたのに……どうして、あなたは私のところに残ったの?」
その問いに、リオスは一瞬考え込み、小さく答えた。
「……あなたは大魔将でしょう? 父の同僚で、魔王軍の幹部。だったら、敵じゃないと思いました」
――その返答に、リリシアの瞳が、少し細められた。
そして、ふわりとした笑みを崩さぬまま、低く諭すように告げる。
「それは、危うい考えよ。幹部同士であっても、“敵”になることは、あるのよ?」
その声は決して咎めるものではなかった。むしろ、少年を守るような優しさすら滲んでいた。
リオスは、少しだけ目を伏せ、それから問い返した。
「……じゃあ、あなたは、僕にとって“敵”ですか?」
率直に向けられたその問いに、リリシアは一瞬だけ沈黙し――そして、艶やかな微笑をたたえて答える。
「いいえ、私は“敵”ではないわ」
しかし次の瞬間、その唇が艶やかに歪む。
「でも、こんな時に“敵です”って、素直に名乗る敵なんて……そうそういないでしょう?」
くす、と喉を鳴らして笑うその声は、甘い香のように空気をくゆらせた。
――それでも。
リオスは、そのまなざしの奥にある色をじっと見つめた。
この人は、嘘をついているかもしれない。けれど、自分を害そうとはしていない。その直感は、不思議と信頼できるものとして胸に残った。
(……この人は、やっぱり“敵”じゃない)
幼いながらも、リオスの心はそう結論づけていた。
◇
扉が閉まると、控室の中は一転して私的な空気に包まれた。絨毯は深紅、壁には淡く光る魔石が埋め込まれ、空間全体にほのかな甘い香りが漂っている。
リリシアはゆるやかに流れるような仕草でソファを示した。
「どうぞ、おかけになって。緊張しなくていいのよ?」
そう優しく言うと、彼女はソファの背に手を添え、まるでリオスを招き入れるように、ゆっくりと身をかがめた。その刹那、深紅の布地がしとやかに揺れ、胸元の装飾がちらりと見えた。リオスは、視線が吸い寄せられるのを必死にこらえ、思わず顔をそむけながら、少し熱くなった頬のまま、ソファの端に腰を下ろした。
リリシアは優雅に奥の卓へ向かい、小ぶりな銀のポットを手に取った。彼女の背中を追いかけるリオスの視線は、すらりとした腰の動きに、まるで誘われるかのように、またも吸い寄せられてしまう。
ポットを傾ける腕の動きは滑らかで、ドレスの袖が少し下がり、透き通るような白い肩のラインが、ふわりと視界に現れた。
「まだお酒は早いでしょうから……代わりに香りのよいお茶を」
微笑と共に戻ってきたリリシアは、リオスにカップを差し出す際、まるで彼に近づくように、再びそっと身をかがめる。その瞬間、彼の視界の片隅に、胸元の影が再び入り込み、リオスは思わず身じろぎ、慌ててカップを受け取った。
リリシアは何のためらいもなく彼の隣に腰を下ろすと、しなやかに脚を組み替えた。その動きに合わせて、深紅のスカートの裾が少し持ち上がり、優雅な姿勢を見せた。甘く上品な香りと、吐息すら感じられるほどの近い距離が、一瞬にしてリオスを包み込んだ。
「ねえ、リオスくん。あなたに興味があるの。たとえば――あの“罠”の件とか」
その言葉に、リオスは意識を正面に戻そうとするが、鼓動がやや早まっていた。
「……あのときは、助かりました。ぼくの、つたない案から……きちんとした作戦にして、対処してくださって」
「ふふ。あれって、本当にあなた自身が書いたのかしら?」
問いかけと同時に、リリシアはまるでリオスの反応を確かめるように、再び優雅に脚を組み替えた。そのたびに、深紅のドレスは肌に寄り添うように少し斜めに滑った。リオスは、視線を逸らそうとしながらも、抗うことのできない引力に抗えず、思わずちら、とそちらを見てしまい、少し震える指先で慌ててカップを持ち直した。
「書き方は教えてもらいながらでしたけど……内容は、自分で考えました」
「そう。それは素敵なことね」
声に合わせてリリシアは肩を傾け、髪がさらりと流れてリオスの肩に触れそうになる。
「そういえば――昨日、人間の子供に、オークやオーガがいじめられたって話を聞いたの。……あなた、じゃない?」
リオスは苦笑気味に目を伏せた。
「……はい。恥ずかしながら、僕です」
「まあ」
「……僕は、人間だからそんなに強いと思っていません。だけど、“自覚が足りない”って……あとで怒られました」
リリシアは頬に手を添え、まるで優雅な猫のようにしなやかに脚を組み替えた。その動きに合わせて、揺れる深紅のドレスが光を反射した。
リオスの視線は、まるで磁石に引かれるかのように、その少しの魅惑の隙間に、再び吸い寄せられ――
「――ねえ、さっきから。ちらちらと見てるでしょう?」
ふと、囁くような声が耳に届いた。
リオスはびくりと跳ねるように背筋を伸ばす。
「ご、ごめんなさいっ……!」
即座に頭を下げるリオスに、リリシアは少し面白そうに笑った。
「どうして謝るの?」
「……姉上に言われました。婚約者でも家族でもない女性の身体を見るのは、失礼だって……」
「まぁ、立派な心構え。でもね――私たちサキュバスに対しては、それ……当てはまらないわ」
リオスが戸惑うように顔を上げると、リリシアは微笑んだ。
「見られないと、悲しいの。だって、それが存在の意味でもあるのだから。あなたが見てくれるなら……私は、ちょっと嬉しいわ」
リオスは言葉を失い、湯気立つお茶のカップを見つめながら、鼓動が早くなるのを感じていた。
リリシアは、紅い唇に笑みを浮かべたまま、まるで秘密を打ち明けるように、そっと身体をリオスに傾けた。
そして、カップを置いたリオスの小さな手に、絹が滑るように、優雅に、自らの指をそっと重ねた。
「それにね……お礼もしたいの」
耳元で囁くような甘い声と共に、リリシアは彼の小さな手をそっと取ると、そのまま、彼の指先が自身の温かい太ももに触れるほどの距離に近づけた。
薄い布地を隔てて、ほんのりとした温かさが、リオスの指先に伝わってきた。
リオスは、全身が少しこわばり、呼吸すら忘れたかのように、抗うことなくされるがままだった。
しかし、その瞳は、困惑と、微かなドキドキ、そして抗いがたい好奇心で揺れていた。
「……お礼?」
控えめながらも疑問の声を上げた少年に、リリシアは目を細めた。
「ふふ、そう。昨日の一件――あなたのおかげで、私の“敵”を倒すことができたの」
淡い語り口の中に、冷ややかな響きが混じる。
「詳しいことまでは、あなたの立場じゃお話できないけれど……それでも、心から感謝しているのよ。あなたの行動が、状況を動かしてくれた」
リオスは、太ももの感触に意識を持っていかれそうになりながらも、彼女の言葉を正面から受け止めようとした。
「……そうだったんですか」
「ええ。だから……こうしていてもらうくらい。ね?」
リオスの小さな手は、リリシアの太ももの上に、まるで居心地の良い場所を見つけたかのように置かれたままだった。
リリシアの指が、その手の甲を優しく、あるいは少しいたずらっぽく、なぞった。
そのたび、リオスの胸の奥に、不思議な感覚が広がる。
それは、まるで未知の物語の扉を開くような、不思議な魅惑だった。
「緊張してるのね。可愛いわ」
リリシアは、甘く、そして少しからかうように囁きながら、彼の心をくすぐるかのように、指先でリオスの手の甲を、小鳥の羽が触れるかのように、そっと、そして繰り返しくすぐる。
自らの心臓が、少し早鐘を打つのを自覚しながらも、リオスは震える視線を、リリシアの魅力的な瞳に合わせようと、必死にこらえていた。
「……そういえば、あなたのその手」
彼女の視線が、リオスの右手に巻かれた包帯へと向けられる。
「包帯なんてして……怪我? それとも、何か理由があって?」
突然の問いに、リオスは少し戸惑ったように目を瞬かせたが、その後に答える。
「……生まれたときから、痣があるんです。だから、隠してるだけで。痛みはありません」
リリシアは、軽く目を細めた。
「ふうん……じゃあ、痛くないのね。なら、別にいいわ。隠すのはあなたの自由だもの」
まるで興味を失ったかのように軽やかに言い、再び彼の手を包むように撫でる。
視線は合わさず、ただそっと触れているだけのようで、その実、リリシアの指先は語りかけていた。
「ほら……触れられるって、悪くないでしょう?」
妖艶な微笑が、彼の耳元にふわりと落ちる。
「ねえ、リオスくん」
リリシアは表情をやわらげ、問いかけるように声を落とした。
「あなたのお姉さま、幼年学校で随分活躍しているみたいだけど……あなた自身の強さって、どうなのかしら?」
リオスは少し困ったように眉を下げる。だが、リリシアはその反応を待たず、わざとらしく目を細める。
その間、リオスの手は、リリシアの太ももにそっと置かれたままだった。
最初こそぎこちなかった動きは影を潜め、指先は、布の下の体の線に沿うように動いていた。
「“自覚が足りない”と怒られたって、さっき言ってたけど……“牙獣を一瞬でミンチにした”って噂も聞いたのよ?」
それは、わざと得ているうわさ話より誇張していた。冗談めかした調子だが、その裏には、鋭い観察があった。
少し間を置き、真面目な口調でリオスは続けた。
「実際は、突進してきた牙獣の下に潜り込んで、剣を腹に突き立てただけなんです。勢いがあったので……そのまま腹が裂けたんです」
その言葉に、リリシアは内心で目を見張る。それは――彼女が、グリムボーン領に潜り込ませた娼婦から得た情報と一致していた。
(……やっぱり。本当に、やったのね)
客の兵士が酔って話を盛っている可能性も考えていたが――この素直な口ぶりと、照れたような顔を見れば、むしろ真実味がある。
リリシアは唇の端に、意味ありげな笑みを浮かべた。
「……それで、あなたは。グリムボーン領の中では、どのくらいの強さなのかしら?」
リリシアがリオスの髪に手を添えて、そっと問いかける。その声音には、試すような響きがあった。
「新兵とか、鍛錬場にいる普通の人たち相手なら……多分、勝てます」
「……ふふ、なかなか堂々としているじゃない」
あくまで余裕のある笑みを崩さず、リリシアはそっと目を細めた。
ふと、控室の外から、かすかに足音が響いてきた。
リリシアはその音に気づくと、吐息と共に、リオスの手の上に自らの手を重ねた。
「……そろそろ、おしまいにしましょうか。これ以上は、お父様に叱られてしまいそうですもの」
冗談めかした囁きには、名残惜しさと余裕の両方がにじんでいた。
リオスは、小さく頷きながら手を引き、その頬に熱の余韻を残したまま、そっと身を引いた。
カップに残ったお茶はすっかり冷めていたが、ふたりの間には、温かい記憶がしっかりと残っていた。
そして――
◇
控室の扉を開けたリオスとリリシアに、冷たい空気が流れ込んできた。
通路の奥からは、重い足音が近づいてくる。先頭に立つのは、堂々たる風格を備えた男――バルトロメイ=グリムボーン。その後ろに、メルヴィラ、セラ、リュシア、シエラ、そして数人の従者たちの姿が続いていた。
「……我が子を保護してくださっていたようだな。礼は言う。だが――」
バルトロメイの声音は低く抑えられていたが、その内に宿る威圧は明確だった。
「我が家の従者に、妙な術をかけるのは控えていただきたい。……大魔将リリシア=ヴェルファーン殿」
その目がリリシアを捉える。
リリシアは、唇に微笑を浮かべたまま、少し肩をすくめて言った。
「まあ……そんな怖い顔なさらないで。私はただ、“種”をくれるあなたの大事なお坊ちゃまと、ちょっとお話をしていただけ」
そして、妖艶にリオスのほうを振り返り、そっと指先を唇に添えて囁くように言った。
「それに……これはほんの、ささやかなお礼。彼のおかげで、“敵”をひとり排除できたのだから」
その言葉に、バルトロメイの眉が少し動いた。
だが、それ以上は口にせず、リリシアは一礼して控室から身を翻した。
去り際、通路を歩きながら、彼女は振り返ってフィノアに言った。
「あなた……もしグリムボーンが嫌になったら、うちにいらっしゃい。歓迎するわよ?」
その言葉に、フィノアはぴしりと背筋を伸ばして言い返す。
「お断りします。私は……リオス様に、お仕えすると決めております」
リオスの隣で、フィノアの声は凛と響いた。
それを聞いたリリシアは、またもや面白そうに笑い、しなやかな身のこなしで歩み去って行く。
リオスは、彼女の姿が廊下の先へと消えていくのを見つめていた。その背中には、ただの妖艶さではない――魔族の矜持と、本物の知性があった。
先ほどまでの濃密な時間が、まるで夢のように遠ざかっていく。けれど、肌に残る熱も、心に残る問いかけも、現実だった。
(僕はまだ、知らないことばかりだ。だけど、見て、触れて、感じることで――学べることもある)
リリシアの言葉も、触れた肌も、そして心の揺れさえも。すべてが、リオスという少年を育む糧となる。
こうして、今年の生誕祭は、終わりを告げたのだった。




