36:祝宴
魔王降臨祭の夕べ。
王都の中心にそびえる王城――その中枢、大広間には既に数百の魔族たちが集っていた。
金糸を織り込んだ天蓋、淡い紫と青の光を照らす魔光灯、壁一面を飾るのは、伝説の初代魔王ヴァルゼルグを称える絵巻と、歴代魔王たちの威厳に満ちた肖像。
艶やかなドレスに身を包んだ貴族令嬢たちは、香のように甘く微笑み合い、男たちは深い色合いの礼服をまとい、静かに杯を傾けながら互いの近況を交わしていた。
そして、その一角。
招待客のひとつ、グリムボーン家の一行が、貴族席の中央寄りに並んでいた。
例年、この祝宴にはバルトロメイのみが名代として出席していた。
だが今年――長女リュシアの幼年学校入学を祝し、家族ぐるみでの参列となったのだ。
リュシアは金属細工の留め具をあしらった赤の礼装に身を包み、幼さの中にも凛とした気迫を宿しながら、まっすぐ前を見据えていた。
シエラは、白銀の刺繍が施された落ち着いた紺色のドレスで、隣に控える姿からは自然と気品が滲み出ていた。
そしてリオス。艶を抑えた漆黒の礼服に、黒曜石のように深く澄んだブローチを添えている。
周囲の空気にやや緊張しながらも、背筋を伸ばし、視線を泳がせては礼儀正しく挨拶を交わしている。
大広間の中央付近には、子供たちのために特別に設けられた広場があり、年の近い魔族の子弟たちが、いくつもの小さな輪をつくって談笑していた。
飾り付けられた果実水や菓子が並ぶ卓を囲みながら、にぎやかに笑い、時に照れくさそうに言葉を交わすその姿は、貴族であっても年相応の無邪気さを隠しきれない。
子供たちの笑い声が天蓋に響き、果実水の香りが空間にふわりと漂っている。
焼き菓子の甘い匂いに誘われた小さな悪戯心が、あちこちで花開く。
煌びやかな魔光灯の照明は、床に埋め込まれた宝石細工に反射し、まるで夢の中の舞踏会のような幻想的な空間を創り出していた。
その光景に、リュシアの瞳がぱっと輝く。
「……あっ、いた」
小さなつぶやきと同時に、彼女の足が自然と前へと動き出す。
ドレスの裾を揺らしながら、軽やかな足取りで歩を速めるリュシアの視線は、広場の一隅――飾り柱の陰に集まっていた一団に注がれていた。
そこには、幼年学校で共に学ぶ馴染みの学友たちの姿があった。
親しい顔ぶれを見つけた喜びが、そのまま表情にあふれ出す。
リュシアの頬には、自然と柔らかな笑みが浮かんでいた。
飾り柱の脇に集う小さな輪へと歩み寄ると、リュシアは背筋を伸ばしたまま、凛とした声で口を開く。
「昨日ぶりね。……みんな、楽しんでる?」
その声に、子どもたちが一斉に顔を向ける。
ひとりが「あっ」と声を上げたかと思うと、すぐに周囲にも笑顔が広がっていった。
「リュシア! 来てたんですね」
「うん、しかも今日は家族と一緒に」
気さくな応対の中にも、リュシアという存在への尊敬がにじんでいた。
学年の中でも頭角を現しつつある彼女の姿に、仲間たちは自然と一歩下がって道をあける。
だがリュシアはそれに甘んじることなく、軽く会釈を返したのち、自分のすぐ後ろに控えていたふたりに視線を向ける。
「――こちら、うちの弟と妹よ。紹介するわ」
すっと片手を差し出して、まずリオスへと目を向ける。
「リオス。弟だけど、礼儀はちゃんとしてるわ。あと、けっこう強いの」
冗談めいた調子の中にも、誇らしげな響きがこもっていた。
周囲の子どもたちが興味を示し、好奇心まじりの視線をリオスへ向ける。
その視線を真正面から受け止めながら、リオスは胸に手を当てて一礼した。
手のひらには微かな汗がにじんでいたが、それを感じさせぬ所作だった。
彼の姿勢は弓なりに伸び、教本どおりの角度で礼をとった。
「グリムボーン家のリオスです。よろしくお願いします」
少しだけ声は硬かったが、それでも彼は堂々と立ち、目を逸らすことはなかった。
数人の子弟たちが、目を見合わせてから順に口を開く。
「こちらこそ、よろしく」
「グリムボーン家のご子息なら、きっと強いんだろうね」
種族や身分を問うような言葉は、誰の口からも出なかった。
少なくとも、この場においては――リオスが人間であることを揶揄するような雰囲気は、どこにもない。
それは、リュシアの存在が築いた信頼の表れであり、またグリムボーン家という名の重みでもあった。
続けて、リュシアは隣のシエラへと視線を移す。
「そして、こちらがシエラ。私の――大事な妹よ」
その言葉に、シエラはゆっくりと一歩前へ出て、静かにお辞儀した。
「初めまして。ご挨拶だけで失礼いたしますわ」
その物腰には、控えめながらも確かな品格があった。
場にいた子どもたちは、彼女の佇まいに自然と頷きながら、それぞれに挨拶を返していく。
学友たちの輪に自然と溶け込むように、ひとりの少女がいるのをリオスが見つけたのは、その時だった。
――え?
黒髪のストレートが背に流れ、真紅の瞳がこちらを見て、ふわりと笑みを浮かべている。
「うむ、来たか、リュシア。それに、そなたたちも」
朗らかながら、どこか威厳を帯びた声音。まぎれもなく、ルーシーである。
リオスとシエラの身体が反射的に動く。深く頭を垂れかけ、片膝を折り――
「こら、やめい」
ぴしゃりと、鋭い声が落ちた。
ルーシーは、にっこり笑いながら、しかし目元だけは鋭く、ふたりをたしなめる。
「今は“ルーシー”として来ておるのじゃ。この場で余を崇める必要はないぞよ。……よいな?」
そう囁くと、軽く指を唇にあてて「しぃっ」と仕草で口止めまでしてみせる。
リオスとシエラは、動きを止めたまま小さく頷いた。とっさに口を挟めるような空気ではない。
学友たちは何も気づいていない様子で、それぞれに軽食を取ったり、話題に花を咲かせたりしていた。
そんな中、ルーシーはそっと横目でリュシアを見やり、小さくつぶやいた。
「……ふむ。リュシアは、余の正体を知っても、やはり態度を変えぬのじゃな」
その言葉に、リュシアは肩越しにちらりと微笑み返す。
「当たり前でしょ。……友達なんだから」
一拍の間――
「うむ、そうか」
ルーシーの表情に、ふっと柔らかな色が差す。
その声は、ひどく満足げで、どこか嬉しそうだった。
しばしの談笑が交わされたのち、リオスはふと周囲を見回し、声を潜めてルーシーに問いかけた。
「……あの、ルーシー……さんがここにいるってことは……その、玉座の方には、誰が……?」
さりげなく視線を向けた先――広間の最奥、煌びやかな薄布の帳が掛けられた玉座の影に、ぼんやりと人影があった。
姿は布越しで曖昧だが、そこに誰かが静かに座っていることだけは、確かにわかる。
ルーシーは、その方向にちらりとも目をやらず、肩をすくめるようにして言った。
「ふむ、あれはミリナじゃよ。姿かたちをわらわに似せて、じっと座っておるように眠らせておる」
「……ミリナが、ですか?」
「うむ。長時間、動かずにおるのは苦行のごときじゃからな。わらわも、パーティを楽しみたかったのじゃ」
そう言って、ルーシーは軽く笑った。
悪びれる様子もなく、それどころか当然の知恵のように振る舞っている。
リオスは、一瞬だけ言葉を失った。
――もしかして、このために……ミリナを奴隷にしたのか?
問いかけにもならぬ疑念が、胸の奥に生まれては消える。
けれど、ルーシーが楽しそうな顔をしていたので――
リオスは深く考えるのをやめた。
◇
華やかな宴の賑わいの中、甘く香る果実酒や菓子の匂い、きらびやかな魔光の輝きに囲まれながらも――リオスは、ある現実的な欲求を自覚せざるを得なかった。
(……トイレ、行きたくなってきた)
派手な装飾と、幼いながらも格式張った会話が続くなか、下腹の軽い違和感が次第に無視できない圧迫感へと変わっていく。
リオスは周囲を気にしつつ、そっと姉たちの元へ戻った。
「……ちょっと、席を外してきます」
声を潜めて言うと、シエラは瞬時に察したように軽く頷き、リュシアはわずかに眉を上げる。
「フィノアを連れていきなさい。場所も入り組んでるし、ひとりは駄目よ」
「分かってます」
リオスはわずかに気恥ずかしさを滲ませながら、肩越しにうなずく。
彼女の注意は護衛という意味だけでなく、礼儀として当然という含みもあるのだろう。
貴族の子として、そして男子として、こうした場でひとりで歩き回るのは好ましくない。
軽く手を挙げてフィノアを呼ぶと、従者の少女はすぐさま歩み寄り、無言でリオスの隣に立った。
子どもたちの輪から離れ、広間の外れへと歩き出したところで、フィノアがぽつりと問う。
「……何か、あったのですか?」
その声音には、警戒というよりは、常のように細やかな配慮がにじんでいた。
「いや……トイレに行きたくなっただけ」
「……承知しました。こちらへ」
フィノアはわずかに表情を緩め、先導するように歩き出す。
その後ろ姿を追いながら、リオスは少しだけ胸を撫で下ろした。
――賑やかな祭典の裏でも、こうして日常は続いているのだ。




