御前裁判
ガルドルク=ドレアノスは、オーク族でありながら戦士としての気骨は皆無だった。
くすんだ肌はたるみ、二重顎の奥に埋もれた口元は常に脂で光っている。
鼻下に蓄えた鬱陶しい髭は、不潔な体臭をわずかに誤魔化すための装飾に過ぎない。
本来、オーク族の肉体は屈強な筋肉と、それを守る鎧のような脂肪で構成されている。
だが、この男の腹に張り詰めた膨らみは、鍛錬の賜物などではなかった。
――ただの不摂生と贅沢の結果である。
にもかかわらず、彼は自信満々に胸を張り、政治の場では常に顔を利かせていた。
ガルドルクは、口先と根回し、そして陰湿な工作によって、のし上がってきた男だった。
政敵を陥れることにかけては天才的な才覚を見せ、ついには魔人族の名門、ドレアノス家に婿として迎えられるに至る。
その後はとんとん拍子で話が進み、正妻との間には娘も生まれた。
その娘の容姿について、魔人族の間では「器量が良いとは言えない」と評されているが、ガルドルクは気にも留めていない。
種族が違えば美の基準も違う。
オーク族の金持ちのバカ息子でも引っかけられれば万々歳だ。
そんな風に考えていたが、その娘がまたなにかやらかしたらしい。
とはいえ、娘の失態――人間の未登録奴隷を連れ歩いていた一件など、金さえ積めば簡単に揉み消せるとたかをくくっていた。
それが、いざ蓋を開けてみれば御前裁判などという大事に発展している。
(……なにをバカな。たかが人間のガキ一匹に、どれだけの価値があると?)
吐き捨てるような思考を胸の内で反芻しながら、ガルドルクは裁定の間へ足を踏み入れた。
天井は高く、紫黒の大理石が敷かれた広間は冷気すら漂うような静謐さに包まれている。
玉座の奥には、黒いヴェールが垂れ下がり、その向こうに現魔王が鎮座しているという。
――幼くして即位した、最年少の魔王。
どうせグリムボーン家あたりの操り人形だと、ガルドルクは心の底で見くびっていた。
だが、居並ぶのは大魔将の面々。
軍の実権を握る重鎮たちの視線が、一斉にガルドルクへ向けられている。
その視線の重さに、いささか汗が滲むのを感じた。
壇上、ゼヴァド=ルキフェル――大魔将随一の冷徹な男が、厳然と声を放つ。
「これより、ドレアノス家に対する御前裁判を執り行う。
本日は魔王降臨祭。神聖なる祝日であるが――
陛下は本件の重大性を鑑み、裁きの場を自らご決定なされた。
罪状は、違法な奴隷狩り、および未登録奴隷の売買に関する疑義である」
広間に低く、ざわめきが起こる。
(……こんな場で、大仰に読み上げおって)
内心で舌打ちしながらも、ガルドルクは鷹揚に手を広げ、堂々と答えた。
「確かに、あの人間の少女は我が娘に付き従っていた。
だが、それは我が家が慈悲をもって保護していたに過ぎぬ。
登記が遅れていたようだが、志願奴隷として正式な契約も準備されていたと聞いている。
それを、さも違法行為の証左のように取り上げるとは――遺憾であるとしか言いようがない。
……これが、我がドレアノス家を貶めんとする謀略でなければ、なんなのか?」
「ではドレアノス卿、貴家の娘が連れ歩いていた人間の少女――
その登録が、入学時から数か月もの間、行われていなかった理由をお聞かせ願いたい」
ゼヴァドの眼光は鋭く、まるで腐肉に集る鳥のように見える。
「たしかに登録が完了していなかったのは事実でしょう。
しかし、当家としては書類作成を担当に指示し、提出手続きも進めていたはず。
商会の確認体制が機能していれば、もっと早期に是正されていたはずであり……
むしろ我が家こそ、その遅延の被害をこうむった立場ですぞ。
娘が独断で連れ回していたなどという中傷は、看過できませんな。
名誉あるドレアノス家に対し、あまりにも無礼では?」
「不手際――か。
では、その少女の声帯が潰れていたにもかかわらず、貴家が治療を行わなかった件については?」
ゼヴァドの追及に、ガルドルクは小さく鼻を鳴らす。
「人間の喉一つなど、気にかけるに値せん。
――どうせ道具に喋らせる必要はないでしょう」
その瞬間、場内に一拍の沈黙が落ちた。
だが、さして非難の空気は広がらない。
一部の者は眉をひそめたものの、大半はわずかに肩をすくめたり、顎を引いたりと――
あくまで「そういう家もあるだろう」程度の反応にとどまった。
そんな空気が、沈黙の中で緩やかに流れる。
魔族社会における人間の奴隷とは、それほどまでに軽い存在。
傷ついたまま放置された奴隷など、珍しくもない話だった。
――意図的に傷つけるなら、話は別だが。
バルトロメイも、ゼヴァドもまた、表情ひとつ変えず、視線だけをわずかに細める。
「それよりも――聞いたところでは、昨日グリムボーン家の娘君が暴れて、我が娘の従者を傷つけたとか。
幼年学校でも、暴力沙汰が続いていると聞きますが、いかに武家の娘といえど、秩序を乱すとは……何とも嘆かわしい」
ガルドルクが話題を逸らすように言い募ったその瞬間。
空気を切るような艶やかな声が、沈黙を断ち切った。
「……そこは、情報が誤っているようですわね」
場内に揺れる甘やかな香気。
漆黒のドレスを纏い、血のように深い紅を瞳に宿す女が、立ち上がる。
大魔将、リリシア=ヴェルファーン――サキュバス族随一の妖艶なる将。
胸元を大胆に開いた衣の合間から、滑らかな谷間が覗き、わずかに身を捻るたび、その柔肌が艶を増す。
だが、その美貌とは裏腹に、発せられる言葉には一片の情もなかった。
「グリムボーンの娘は、むしろ、けがをした従者を治しただけよ。
――声を失った奴隷の喉もね。
それを暴力と呼ぶのは、ずいぶんご都合のいい解釈じゃないかしら?」
ガルドルクの頬が引きつる。
「それに、その従者――オークとオーガらしいのだけれど、”いじめていた”のは人間の子供だとか」
場に似合わぬ失笑がそこかしこで漏れるが、リリシアは意に介さず、その指が、艶やかに空をなぞる。
「そして、そのいじめられていた“オークの子”。
――どこのお子さんか、ご存じかしら? ドレアノス卿」
リリシアの唇が、ゆっくりと笑みに歪んだが――
その端に、黒い炎のような殺意が、確かに宿っていた。
広間の空気が、明らかに変わった。
「……王都の裏通りで、最近目につく“無登録の出張娼婦”をご存じかしら?
正式な認可もなく、未成年の人間を出向かせるかたちで淫を売る、下劣な店」
リリシアの声が、絹のように柔らかく、それでいて底光りする怒気を含む。
「その店主の息子――
その子こそが、あなたのご息女と、親しく連れ立っていた従者よ」
ざわめきが起きる。誰かの喉が小さく鳴った。
リリシアは誰の視線も気にせず、扇を畳むように指を胸元に添えた。
(なかなか黒幕にたどり着けなかったけれど……逆からたどれば、あっさり見つかるものね)
艶然と微笑みながら、冷たく言い放つ。
「――違法奴隷はともかく。
王都で、無許可の売春業を展開するなんて――それ、私に対する“敵対行為”と受け取るわよ?」
その言葉に、場内の空気が凍りつく。
ガルドルクの膝が、がくりと崩れた。
脂肪に埋もれた脚が重さに耐えきれず、みっともなく地に転がる。
そんなガルドルクを、ゼヴァドが無表情のまま見下ろす。
声に一切の感情はない。ただ、粛々と処刑台へ歩かせる執行官のような厳粛さがあった。
「では……その無登録の出張娼婦と、ドレアノス家との関係について――
改めてご説明いただこうか。
娼婦が、未登録の奴隷だった、という報告もあるようだがね……」
ゆるやかに、場の空気が変わる。
方々から、歴戦の勇士たる大魔将の圧がかかる。
視線、魔力、殺気――
そのすべてが、脂汗をかくガルドルク一人に注がれていた。
逃げ場など、どこにもなかった。
「ひっ……あ……あああ……っ」
くぐもった音と共に、彼の腰から、薄く濁った液体が流れ出していった――




