初夜の翌朝、そして乱戦
まだ夜は明けていなかった。
空にはうっすらと星の名残が残り、東の地平線がわずかに色づきはじめている――そんな時刻。
寝室のレース越しに差し込む光は、朝日にはほど遠い。
ただ、冷たく淡い蒼が、静かに床の上を這っていた。
鳥のさえずりすら、まだ鳴きはじめてはいない。
世界は沈黙の中にあり、ただ――“鍛錬の気配”だけが、目覚めをうかがっていた。
扉の外には、ふたつの気配が立っている。
まだ声もかけず、ただそっと気配を見守るように。
「……そろそろ、お目覚めの頃かと」
フィノアが小声で呟く。隣には、リリュアの姿。
「ええ。ご様子を、拝見してまいりましょう」
リリュアが先に扉を開け、音もなく室内へ足を踏み入れる。
その背後を、フィノアが静かに続いた。
――そして、彼女たちの目に飛び込んできたのは。
寄り添うふたりの姿だった。
布団の中で、リオスとシエラは、互いの身体を包むように抱き合い、すやすやと寝息を立てていた。
「…………」
フィノアは何も言わず、瞳を細める。
一方、リリュアの視線は……少しだけ、熱を帯びていた。
瞳の奥に浮かぶ情動は、すぐに消える。
先に目覚めたのは、シエラだった。
まぶたがゆっくりと持ち上がり、
目の前のリオスの寝顔と、互いに絡まる腕に気づく。
(……わたくし……リオス様と、こんなに密着して……)
息を呑んだ、そのとき。
彼女の太ももの内側に、なにかが――当たっている。
小さく、熱く、押しつけられるような感覚。
「…………」
そっと視線を下げ、布団越しにその状態を見てしまったシエラは――
目を真ん丸にして、顔を真っ赤に染め、さらに耳まで熱を持たせながら、慌てて体を離した。
「~~~~~~っっ!」
声にならない悲鳴を押し殺し、布団を胸元まで引き上げて真っ赤になる。
「お目覚めのようですわね、シエラ様」
さりげなくリリュアが声をかけるが、その口元には微かに愉悦が滲んでいた。
「り、リリュア……そ、それは……その……っ!」
「ふふ、よくお休みになれたようで、何よりです」
うまく受け流されたシエラは、混乱のまま顔を背けた。
そこへ、フィノアが布団をそっとめくり、リオスへ手を伸ばす。
「リオス様。朝でございます。お目覚めくださいませ」
「ん……ふぁ……フィノ?」
寝ぼけ眼で身を起こすリオス。
先ほどまでの状態には無頓着なまま、あくびをひとつ。
「おはよ……あれ、シエラ……どうしたの?」
「な、なにもありませんっ!」
シエラは背を向けたまま叫ぶように答えた。
朝の支度のため、フィノアとリリュアが用意してくれた訓練服が、寝室の屏風の向こうに整えられていた。
「さあ、リオス様。まずはお着替えをどうぞ」
「うん……」
まだ眠たげなリオスは、布団を抜け出すと、遠慮もなく寝間着の前紐に手をかけ――
「~~っ! ま、待ってくださいませ! せめて、わたくしが背を向けてから……!」
シエラは真っ赤な顔で、あわててカーテンの向こうへと駆け寄った。
「ん? なんで? お風呂ではそんなことしないじゃん……」
「そ、それとこれとは、別ですわっ!」
けれど、リオスは本当に悪気など一切ない様子で、フィノアに着せてもらいながらすっかり着替えを終えていた。
一方のシエラも、リリュアに手伝われながら、訓練用の軽装に袖を通す。
(……今朝のことは、思い出すだけで……っ)
鼓動は落ち着かず、視線も泳ぐばかり。
ようやくふたりが揃って支度を整えると、リリュアが優雅に微笑んだ。
「それでは、リオス様。シエラ様とご一緒に、腕をお組みになってくださいませ」
「え?」
奇妙な指示に、リオスは首をかしげる。
「貴族の間では、初夜を共にした婚約者同士は、翌朝に腕を組んで退出するのが慣例でございますの。
これは、周囲への報告の意味も含まれておりますので」
「えっ、そ、それって……っ」
シエラは息を呑んでリリュアを見上げたが、彼女は何食わぬ顔で会釈を返した。
「もちろん、実際に何があったかまでは申しません。ただ――形式として、大切な儀礼でございます」
(そ、そんなことまで……!?)
シエラは戸惑いながらも、リオスが無垢なまま腕を差し出すのを見て、観念したようにそっと腕を絡めた。
「い、行きましょう……リオス様」
「うん、いこっか」
ふたりの腕がしっかりと組まれ、静かに扉が開く。
朝の陽光が廊下へ差し込むなか、
新たな関係を形式としてなぞるように、ふたりは一歩を踏み出した――。
◇
中庭へと続く大きな扉が開くと、朝露の香りがふわりと二人を包んだ。
芝生には露がまだ残り、淡い陽光が剣術訓練用の石畳を照らしていた。
その中央に――すでにひとりの少女が立っていた。
銀の長髪を軽く結い、黒を基調とした訓練装束に身を包んだその姿。
気配を読むまでもなく、リオスにはすぐにわかった。
「姉上……」
「おはよう、リオス。それに、シエラも」
リュシアは肩に剣を担いだまま、ふたりを見てにやりと口元を歪めた。
「ふふっ……朝から仲睦まじいことで。まさか、本当に“腕を組んで出てくる”とは思わなかったわ」
「っ……これは、その、しきたりですもの!」
シエラが真っ赤な顔で声を上げると、リュシアは肩をすくめる。
「ええ、知ってるわよ? 初夜明けの朝は、婚約者が腕を組んで出るのが貴族の常識だって。
でもねぇ……本当にやるとは思わなかったのよ、あなたが」
「わ、わたくしだって……恥ずかしいですけど、礼儀ですから!」
「はいはい、そういうことにしておいてあげる」
リュシアの目はからかうようで、どこか嬉しげでもあった。
そして視線をリオスに戻すと、柔らかく笑う。
「それで、どうだった? 可愛い妾殿との初めての夜は」
「……? 寝ただけだよ?」
リオスは首をかしげた。あまりに真っ直ぐな返答に、リュシアが噴き出しそうになる。
「そっか、寝ただけね。……ふふ、いいわ、そういうのも」
「姉上とは……何度も一緒に寝てるよね?」
「あら、よく覚えてるじゃない。そうね――リオスとは何度も同じ布団で寝てるもの。
姉弟だから、そういう機会も多いのよ?」
「な、な、なんてことをっ……!」
シエラの声が上ずった。
だがリュシアは気にも留めず、くるりと踵を返すと、剣を片手に芝生を踏みしめる。
「――さて。朝の鍛錬、始めましょうか」
軽く準備運土をしながら、リュシアはふたりの顔を順に見渡した。
(こうして三人で剣を交えるのは、ほんと、久しぶりね)
幼年学校に入学してからというもの、訓練は校内か王都の施設が主となり、
リオスとも、シエラとも、こうしてぶつかり合う時間は持てていなかった。
けれど――
(それまでのあいだは、ほぼ毎日やってたんだもの。乱戦、追いかけっこ、真剣勝負……全部。
ふたりがどれだけ変わったか、見せてもらおうじゃない)
胸の奥に灯るのは、姉としての責任ではない。
純粋な楽しさと――期待。
「じゃあ、始めましょうか。3人乱戦。……手加減はしないわよ?」
唇の端が、愉悦に吊り上がる。
シエラがぎゅっと剣を握りしめ、リオスが一歩前へ踏み出す。
庭に張りつめた空気の中、3人は三角形の位置に立っていた。
剣を構えたまま、互いに一歩も動かず、ただ睨み合う。
「さて、誰から仕掛けてくるのかしら?」
リュシアが唇を弓なりに吊り上げた。
一瞬の静寂――そして、最初に動いたのはシエラだった。
一直線にリオスへ斬りかかる。
「リオス様、いきますわよっ!」
「うわっ……!?」
防御に回ったリオスは、剣で受け止めながら足を滑らせ、ぎりぎりで体勢を立て直す。
そこへ。
「背中が空いてるわよ?」
リュシアが無音で滑り込み、後ろから打ち込もうとする。
「くっ……!」
リオスは反射的に転がって距離を取る。
一瞬、3人の立ち位置が崩れ、乱戦が始まった。
誰が誰を狙うか、瞬間ごとに変わる。
リオスがシエラを斬り、シエラがリュシアに向かい、リュシアがその背を打とうとする。
三者三様の思考と剣筋がぶつかり合い、石畳の上には交錯した足跡が残る。
(ふたりとも、よく見てる……)
リュシアは内心で感心していた。
ほんの少し前までは、こうした戦いでは圧倒するだけだった。
けれど今は――確実に、追いすがられている。
その証拠に、攻めきれない。
「っ――!」
その瞬間、リオスとシエラの攻撃が、偶然同時にリュシアへ向かってきた。
「いいタイミングっ!」
「今ですわ!」
けれど――
「そろそろ、1人落としておかないとね」
リュシアが踏み込み、シエラの腹部へ鋭く一撃を入れた。
それと同時に、リオスの剣も肩に届く。
「一撃あり――シエラ様、脱落です!」
フィノアの声が上がった。
「っ……、最後まで残れませんでしたわ……」
シエラは悔しげに肩を落としながら、石畳の外へ退いた。
残るはふたり――リオスとリュシア。
無言のまま、ふたりの剣が交差する。
1手、2手、3手――リオスの攻撃は明確に鋭く、読みも正確。
だが。
「そこ、読んでたわ」
一瞬のフェイント。
リュシアの剣が、リオスの膝下を軽く払うように触れた。
「一撃あり、リオス様、脱落です」
フィノアの声が響くと、リュシアが息を弾ませながら剣を下ろす。
それは、決して余裕の勝利ではなかった。
けれど――彼女は、笑っていた。
「……ふたりとも、ずいぶん強くなったわね」




