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【なろう版】魔国の勇者  作者: マルコ
魔王降臨祭

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34/67

33:ふたりの夜、はじめての距離

 夜が更け、王都の一室にも静寂が訪れる。


 本宅とまったく同じ造りの部屋で、リオスはようやく落ち着きを取り戻していた。

 見慣れた調度、手触りまで同じ寝台。

 環境が同じであることが、これほど安心感を与えるものだとは、彼自身、思ってもいなかった。


 そんな折、扉をノックする音が控えめに響いた。


「……リオス様。お部屋に入っても?」


 その声を聞き、リオスはすぐに立ち上がる。


「うん、いいよ。入って、フィノ」


 扉が開かれ、翡翠色の髪を持つエルフの侍女、フィノア=リエルが姿を見せた。

 静かな足取りで入室し、扉を閉めたのち、彼の前でひざまずくようにして頭を下げる。


「ちょっと……話を、してもいいかな」


 珍しく、フィノアが口を開くよりも先に、リオスが声をかけた。

 その声音は、どこか頼りなく、普段の彼には似つかわしくない揺らぎを含んでいた。

 そんな主人の変化を、フィノアは敏感に察知する。


 彼女は立ち上がり、軽く首を傾げながらそっと問いかけた。


「……何か、ありましたか?」


 しばらくの沈黙のあと、リオスはおもむろに右手の包帯を外した。


 そこに現れた、紫紺にきらめく痣――否、聖痕を見つめながら、ぽつりと口を開く。


「フィノは……僕が勇者でも……それでも、僕に仕えてくれる?」


 その問いには、不安が滲んでいた。

 魔族の中における“勇者”の立場は、敵そのものとも言える。

 いかに魔王直々に認められたとはいえ、リオス自身も未だ不安なのだ。


 だが――フィノアは、何も言わずにリオスの手をそっと取り、その痣を見つめた。


 そして、はっきりと、ためらいなく答えた。


「勇者であろうと、そうでなかろうと……わたくしにとって、リオス様は永遠にご主人様です」


 その言葉は、まるで誓いのように響いた。


「リオス様がどのような存在であろうと――わたくしは、命尽きるまで、おそばにおります」


 リオスの目に、ほんのわずかに光が宿った。


「……ありがとう。嬉しいよ、フィノ」


 彼は、フィノアの手をそっと握り返した。


 その手の温もりが、彼の胸の奥に、静かな安心を灯した。


「今日から、性の勉強を再開するの?」


 性の知識と心得を教える夜の教育は、旅の途中では中断していた。

 王都への移動は慣れぬ環境に加え、いざという際の警備体制に不安があったからだ。


 そして、ようやく今夜――王都の別邸という確かな護りを得られたのだ。


 しかし、フィノアは小さく首を振り言った。


「本日は……その他にやらねばならぬことがございます」

「……やらなきゃ、いけないこと?」


 リオスが問い返すと、フィノアは立ち上がり、扉のほうを向いた。そして、そっと合図を送る。


 数秒後、扉が静かに開いた。


 そこから、ゆっくりと現れたのは――シエラだった。


 けれど、先ほどまでの端正な平服姿ではない。

 目に映った瞬間、リオスの思考が一瞬止まるほどに、彼女の印象はがらりと変わっていた。


 纏っていたのは、淡い桃色のネグリジェ。

 ごく薄手の布地は、室内の微かな空気の流れにもそっと揺れ、やわらかな光をほのかに透かしていた。

 彼女の輪郭は、ぼんやりとした影のように浮かび上がり、静寂の中に淡い存在感を湛えている。

 鎖骨から肩にかけての細やかで滑らかな線、胸元に寄り添う布のふくらみ、足元へとつづくすらりとした形――どれもが控えめに布の下へ溶け込み、輪郭だけをほのめかしていた。

 湯上がりを思わせる穏やかな空気をまといながら、肌はうっすらと赤みを帯び、自然な清潔感と静けさが、そこにそっと広がっていた。

 全体としては華奢な印象ながら、その佇まいには、どこか壊れそうな儚さと、触れることをためらわせるような慎ましさが滲んでいる。

 まるで、誰の手にも触れられたことのない硝子細工のように――かすかな緊張をまといながら、彼女はそこに、ただ静かに立っていた。


「……シエラ……?」


 リオスが目を見開くと、シエラは顔を少し赤らめながら、視線を逸らした。


「……これは、その……リリュアに、強く勧められて……」


 その間に、フィノアが落ち着いた声音で説明を始める。


「リオス様。ご存じかもしれませんが――本日より、シエラ様は“婚約者”として、この屋敷に正式に逗留される立場となります」


 リオスは小さくうなずく。


「問題は、その初日です」


 フィノアは、わずかに声を落とした。


「婚約者が屋敷に宿泊し、しかも“初夜に同衾しなかった”となれば――それは“仲が冷えている”という印象を与えかねません」

「え……それって、そんなに問題なの?」


 思わず問い返したリオスに、フィノアは静かに目を細めた。


「噂というものは、特に貴族の婚姻においては、事実より先に一人歩きするものでございます」

「誰がそんなのを……」

「誰がともなく、なぜか広まるのです。まるで、風が囁くように。主だった者が口にせずとも、噂は育ちます」


 その言葉に、リオスは黙り込んだ。


「そして、不仲という印象は、やがて家の信用や立場に波及します。

 ――それを未然に防ぐための、形式的な儀礼として……」


 フィノアは、そっとリオスの目を見つめた。


「……今宵、おふたりには同衾していただきます。もちろん、形式だけで構いません。何かを強要することは、決していたしません」


 ◇


 ふたりの従者――フィノアとリリュアは、静かに一礼すると、すっと部屋の外へ退いた。扉が閉まる音がやけに大きく響く。


 残されたのは、リオスとシエラ、ふたりきり。


 シエラはしばらく立ちすくんでいた。ネグリジェの薄布一枚隔てた向こう側から、リオスの視線が肌に直接触れるかのように熱を帯びて向けられているのを、シエラは全身で感じていた。リオス自身もまた、その薄布の向こうに透けて見えるシエラの肌、そして未成熟ながらも確かに存在する女性の身体の輪郭に、言いようのない熱と戸惑いを覚えていた。

 普段の彼女からは想像もできない、儚くも艶やかな姿に、彼の視線は釘付けになる。


「……ど、どこに寝れば、よろしいのかしら?」


 震える声で問いかけるシエラ。

 平静を装ってはいたが、その手はまるで自身を隠すように胸元を無意識に押さえつけ、ひざ丈の裾をわずかに引き下げることで、肌の露出を抑えようと必死に努めていた。

 しかし、その焦りが、薄いネグリジェ越しに透ける彼女の身体の曲線と、ほんのり上気した肌をかえって際立たせていた。


 リオスはというと――目をぱちくりと瞬かせながら、寝台をぽんぽんと叩いた。


「ここで、いいよ。いっしょに寝るんでしょ?」


 無邪気な返答。そこに躊躇も下心もない。

 ただ、“言われた通りにする”という素直な反応でしかなかった。


(こ、こんなに……無防備ですの!?)


 シエラの心臓が、ひときわ強く打った。

 熱が薄手のネグリジェ越しに、肌をじんわりと赤く染めていくようだった。


 だが――彼が悪気も理解もなくそう言っているのは分かっていた。

 だからこそ、なおさら羞恥心が募った。


「……わ、わかりましたわ」


 意を決して寝台の端にそっと腰を下ろし、リオスと身体が触れぬよう、そっと横になった。


 しかし、目を閉じても、落ち着けるはずもなかった。


(ど、どうしましょう……心臓の音が、激しすぎて……)


 こんなに近くに、異性がいる。

 しかも婚約者として、一緒に寝る。

 それだけで、身体が内側から熱を帯びるような気がした。


 一方のリオスはというと、まったく緊張した様子もなく、穏やかな表情で天井を見上げていた。


(……やはり、わかっていませんのね。こういう意味……)


 だが、彼が知らないまま、こうして隣にいてくれることが、

 どこか――ほんの少しだけ、嬉しさを感じた。


 とはいえ、心臓の鼓動は治まらない。

 緊張と羞恥が入り混じり、どこに視線を置けばいいのかも分からないまま、布団の端をぎゅっと握りしめた。


(こ、これでは眠りにつけるはずがありませんわ……)


 そんな彼女の様子に、隣のリオスが気づいた。


「……シエラ、やっぱり落ち着かないの?」


 その問いに、シエラはびくりと反応し、無理に笑みを浮かべた。


「い、いいえ。大丈夫……ですわ。た、たぶん……」


 嘘が下手すぎる答えだった。

 だが、リオスは気づいたというより、フィノアに教えられた対処法を思い出していた。


(たしか……不安そうにしていたら、こうやって――)


 リオスは、迷いなく腕を伸ばし、ごく自然に、すっとシエラの肩を抱き寄せた。

 薄い布地越しの柔らかな肌の感触、微かに香る甘い匂い。

 柔らかく、あたたかく、そして優しく、ぎゅっと抱きしめた。

 彼の胸に当たるシエラの身体は、予想以上に小さく、そして熱を帯びていた。


「……こうすると、落ち着くって。フィノが教えてくれたんだ」


 その言葉は、まるで子どもが誰かに言われた通りに素直に行動した、そんな風に聞こえた。


 そこには、恥じらいも、欲望も、打算もなかった。

 ただ、彼なりに優しさを届けようとするまっすぐさだけがあった。


 ――だからこそ。


「っ……!」


 シエラの胸が、強く高鳴った。


(だ、だめですわ、こんなの……。そんな風に、無邪気にされたら……!)


 抱かれているだけなのに、身体の奥から抗いがたい熱がじわじわとせり上がってくるのを感じた。

 この温もりが、彼の純粋な優しさから来ていると分かっているからこそ、自分の身体が勝手に反応してしまうことに、シエラは戸惑いを隠せない。

 だが、それを悟られまいと、必死に息を整えた。


 リオスの腕の中は、思った以上にあたたかく、心地よかった。


 安心できた。だが――意識してしまう。


 リオスの腕の中で、シエラはそっと目を閉じた。

 緊張は残るものの、そこに確かなあたたかさがあることに気づいた。


 しばらく、ふたりの間には静かな時間が流れた。

 だが、その沈黙を破るように、リオスがぽつりと呟く。


「……こういうのってさ、本当は――“愛し合ってるふたり”がやること、なんだよね?」


 その言葉に、シエラは目を開けた。

 リオスの顔は真剣で、だがどこか困ったような色も浮かべていた。


「だが、僕……まだ“愛”とか“恋”とか、よくわからないんだ」


 正直な告白だった。


 フィノアから知識としては教わっていた。

 だが、それを“自分の感情”として理解できているかと言われれば――自信はなかった。


 抱きしめている今でさえ、それが“愛している”からなのか、ただ“落ち着かせたい”からなのか、うまく言葉にできなかった。


 シエラは何も言わず、じっとリオスの顔を見つめていた。


 まるで、次の言葉を――彼自身の答えを、静かに待っているかのように。


 リオスはしばらく視線を泳がせたあと、小さく息を吸い込んだ。


「でも……シエラのことは、うーん……“好き”って言うのかな……たぶん、そうだと思う」


 それが恋か、愛かは、まだ分からない。

 だが、シエラが隣にいるのは嬉しい。

 守りたいと思う。それだけは、嘘じゃない。


 すると、シエラの顔に、やわらかな笑みが浮かんだ。


「――それで、十分ですわ」


 そう言って、彼女はリオスの手をそっと握り返す。


「恋も、愛も……きっと、急いで知るものではありませんの。ですから――」


 瞳を細めて、やさしく言葉を重ねる。


「わたくしと一緒に、学んでまいりましょう。ね?」


 その微笑みは、あたたかくて、やさしくて、ほんの少しだけ照れていた。


 リオスは、そんな風に腕の中で呼吸を整えようとしているシエラの頬を、静かに見つめた。

 恥じらいと誇りを秘めた、凛とした顔。

 でも今は、それが少しだけ緩んで、少女の表情になっていた。


 何かに導かれるように――リオスはそっと顔を近づける。


 そして、やわらかく、シエラの頬に口づけた。

 それは、軽く触れるだけの、優しく、そして純粋な“好き”の証だった。


 シエラの目が、驚きに見開かれる。


「……リオス様……」


 彼は少し照れたように、はにかんだ。


「フィノが、こういうのも“好きの気持ち”って言ってたから……やってみた」


 その無邪気さに、シエラは思わず噴き出しそうになる。

 だが、口に出るのは、やさしい息と笑みだけだった。


「ふふ……でしたら、わたくしからも、お返ししませんとね」


 そう言って、今度はシエラが自分から身を寄せる。


 その唇が、そっとリオスの頬に触れた。


 お返し――というには、少しだけ、あまりにもやさしすぎるキスだった。


「……おやすみなさいませ、リオス様」

「うん、おやすみ……シエラ」


 ふたりは、そのままそっと身体を横たえた。


 布団の中、抱き合うようにして並ぶ。


 頬が触れるか触れないかの距離で、

 とりとめのない会話が、小さな声で交わされた。


「明日って、朝ごはん……何が出るのかな」

「さあ、でも王都の屋敷ですもの。パンよりは、お粥かしら?」

「パンのほうが好きだけどなあ……」

「わたくしは、紅茶が欠かせませんわ」


 そんな、なんてことのない会話が――

 ふたりの心の距離を、そっと埋めていく。


 やがて、シエラのまぶたが、重たげに閉じられていく。


「リオス様……」

「ん?」

「今日は……ありがとう。とっても……たのしかったですわ……」


 その声が、夢の中に溶けていく頃――

 リオスもまた、静かな寝息を立て始めていた。


 王都の夜は、やさしく、ふたりを包み込んでいく。


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