32:導かれし偶然
しばしの沈黙ののち、客間の扉が再び開いた。
姿を見せたのは、整った黒髪をひとつに束ねた、穏やかな面差しの女性――セラである。
館の差配を担っていた彼女は、いつもの質素ながらも清潔な衣服のまま、静かに頭を下げて入室した。
「お呼びとのことで、参りました」
控えめな声ながら、立ち居には一分の乱れもない。
バルトロメイの正妻であるメルヴィラが頷き、軽く目礼を返す。
ルーシーは、そんな一同の動きを冷静に見渡しながら、すっと腰を上げた。
そして、ゆるやかに言葉を紡ぐ。
「さて――これより話すことは、そなたらグリムボーン家にとって、少なからず今後に関わるものとなるやもしれぬ」
その言葉に、室内の空気が自然と張りつめていく。
「よって、当主とその妻、子、そして婚約者までもがそろった今――ようやく話すに足る場となった」
ルーシーは、視線をセラへと向け、ゆっくりと一歩近づく。
「セラ殿。辛いことを思い出させるやもしれぬが……自らの親や、祖先について、何か聞いておることはないか?」
その問いに、セラはふと、悲しげに目を伏せた。
その肩が小さく揺れるのを見て、メルヴィラが眉をひそめ、彼女をかばうように一歩前へ出る。
「待ってください。彼女には――」
「……ありがとう、メルヴィラ様。でも……大丈夫です」
セラはそっと微笑み、夫人へと礼を送った。
そして、静かに言葉を紡ぎはじめる。
「私が幼い頃、両親は中部の辺境で開拓をしていました。……あまり恵まれた暮らしではなかったと、今になって思います」
セラの声は淡々としていたが、どこか遠くを見つめるような響きがあった。
「母は……巫女をしていたと聞きました。でも、私にとっては、ごく普通の母でした。父も、村の世話役のような存在で……」
一瞬、唇を噛む仕草ののち、小さく首を振る。
「祖父母のことは……ほとんど知りません。聞いたことすらないのです」
その答えに、ルーシーはしばし沈黙した。
やがて、表情を和らげ、軽く頭を垂れる。
「すまぬな。つらい記憶を呼び起こさせてしまった」
「……いいえ。お気になさらず」
セラは静かに首を振ったが、その目元はわずかに潤んでいた。
ルーシーはその様子に目を細めつつも、淡々と告げる。
「どうやら、少なからず“フォールム”との縁があるようじゃな」
「えっ? でも、かあ様はフォールム王国に住んでいたのよ? それって……今さら言うほどのこと?」
リュシアが疑問を口にすると、ルーシーはゆっくりと首を振る。
「違う。“フォールム神聖王国”ではなく――“フォールム神”の方じゃ」
一呼吸おいて、ルーシーは場に静かに視線を巡らせた。
「セラ殿のことはさておき……。
おぬしたちは、“フォールム神”について、どの程度知っておる?」
唐突な問いかけに、皆が小さく顔を見合わせる。
やがて、シエラが口を開いた。
「……あまり詳しくはありませんが。
人間の間では、創造神として崇められていると――そう聞いております」
「ふむ……」
ルーシーは小さく頷き、淡々と補足を入れる。
「“創造神”というのは、あくまでフォールム神聖王国――特に、フォールム教団がそう主張しておるだけじゃ。
他の人間国家では、“人間を生み出した神”という存在として信仰されておる。
創造神という扱いではないし、唯一神とする文化も稀じゃな。
また、“慈悲の神”として知られておる」
その説明に、リオスの眉がわずかに動き、口を開いた。
――そして、珍しくその声には、確かな怒気がにじんでいた。
「……かあ様は、今でも祈ってるけど。
――僕は、嫌いだ。あの神なんて」
その言葉に、場が一瞬、静まり返る。
「慈悲の神だなんて……嘘だ。
かあ様も、村の人たちも……誰一人、助けなかったくせに」
吐き捨てるような言葉に、セラがはっと目を見開いた。
だが、彼女はすぐに悲しげに目を伏せ、なにも言わなかった。
ルーシーもまた、すぐには応じなかった。
ただ、リオスをまっすぐに見つめ、そっと目を細める。
そして――静かに、ぽつりとこぼした。
「これほどに嫌われてなお……力を与えるとは、のう」
ルーシーはふと、視線を伏せ、わずかに肩をすくめる。
「……なるほどな。“慈悲の神”とは、よく言ったものじゃ」
そのひとことに、場が再びざわめいた。
「え……?」
リオスが訝しげに眉をひそめ、リュシアやシエラも一斉にルーシーへと視線を向ける。
なにを言っているのか――と、皆の顔が語っていた。
ルーシーは、微かに口角を上げながら、視線をリオスの右手へと移した。
「そなたの“痣”じゃ。……それは、痣などではない。
――“聖痕”じゃよ。フォールム神が与えし、選ばれし者の印」
リオスは思わず、自分の手を見下ろす。
包帯の下にある、紫紺の奇妙な模様。
「フォールムの聖痕を持つ者――それは、百年に一度、地上に遣わされるという勇者の証。
おぬしが、その勇者であるということじゃ」
言葉の意味が、すぐには理解できなかった。
その場にいた全員が、数秒のあいだ、凍りついたように沈黙する。
リオスはわずかに震えながら、自分の右手をじっと見つめ――そして、ゆっくりと顔を上げた。
「……僕が……勇者?」
その言葉が、室内に静かに響いた。
――勇者。
それは、百年に一度、フォールム神が人間の国に遣わすとされる神の代行者。
生まれながらにして、常人をはるかに超える力と才覚を備え、
剣も魔も、人間でありながらも魔族を凌駕する、異能の存在とされている。
だが恐ろしいのは、本人ひとりの力ではない。
勇者に選ばれた者の周囲には、同じく規格外の力を持つ仲間たちが集い、
その集団はしばしば、一国の軍隊にも匹敵するとさえ言われる。
どれほど魔国が侵攻を進め、どれほどの戦果を挙げようとも、
人間の国が完全に滅びたことがない理由――
それは、歴史の陰にあって幾度となく現れた勇者の存在にあるとされていた。
その事実が、いま――リオスの胸に重くのしかかる。
「……じゃあ、僕は……魔族の敵、なの……?」
ぽつりと落とされた呟きは、部屋の空気を一瞬、沈黙に染めた。
「そんなこと、ないわ!」
まっさきに言葉を返したのは、リュシアだった。
「リオスが何者でも関係ない。
大事なのは、リオスが誰を想って、誰のために生きているかよ」
その言葉に続くように、シエラもまた小さく頷いた。
「リオス様は……わたくしにとって、敵なんかではありません。
たとえ何者であっても、変わりませんわ」
そして、セラがゆっくりと口を開こうとした――が、言葉にならない。
胸の奥から押し寄せてくる感情が、喉を詰まらせる。
(リオスが……勇者? 人間の……?)
その可能性が突きつけられた瞬間、彼女の目の奥に、過去の記憶がよぎる。
襲撃された村、焼け落ちた家、泣き叫ぶ人々――
だが、そんなセラの手を、そっと包む手があった。
それは、隣に控えていたメルヴィラの手だった。
何も言わず、ただ静かに添えられたその仕草に、セラははっと我に返る。
その目がゆっくりとメルヴィラに向けられると、夫人は穏やかに微笑んで、小さく頷いた。
大丈夫――その瞳が、そう語っていた。
静寂のなか、ルーシーが口を開いた。
「……敵なわけがなかろう。
リオスを魔国に遣わしたのは――ほかならぬ、フォールム神そのものなのじゃ」
その言葉に、室内の空気がまたもや動きを止めた。
誰もが、思わずルーシーへと視線を向ける。
「考えてみよ。勇者の母が囚われていたその場所――
辺境の、誰の目にもつかぬ盗賊の隠れ家が、なぜ魔族に見つかったのか?」
ルーシーは、皆を見渡しながら静かに言葉を重ねる。
「しかも、たまたまその一帯を通ったのが、魔国の偵察演習部隊――
さらには、大魔将バルトロメイが――魔王軍の将たる者が、わざわざ出向いた」
その視線が、重々しくバルトロメイへと向けられる。
「大魔将が、ただの偵察演習に赴くか? しかも――」
そこで、わずかに間を置き、静かに言葉を重ねる。
「……あの一帯は、地勢に乏しく、補給線も通らぬ。
軍事的にも通商的にも、戦略的価値はゼロ。
あんなところを、あえて通る必要など、誰も感じぬはずじゃ」
ルーシーの目が、鋭く光る。
「それほどまでに無意味な場所を、わざわざ選んだというのなら――
もはや偶然などとは、とても思えぬのではないか?」
静かに投げかけられた問いに、重々しい沈黙が落ちた。
バルトロメイは、腕を組んだまま目を伏せ……やがて、ゆっくりと口を開いた。
「……今になって思えば、妙な話だった」
その低く響く声に、皆が息を呑む。
「当時、偵察演習のルートに関しては、俺自身が提案した。
周囲からも不審がられたが……なぜか、その道を選ぶべきだという確信があった」
バルトロメイの目が細くなる。
「……そういえば――夢を見たんだ。
誰かに、あの山道を越えろと……言われた気がする。
馬鹿馬鹿しいと思った。だが……どうしても逆らえなかった」
その語り口には、ただの気まぐれではない、確かな導きの存在を感じさせた。
誰もが言葉を失うなかで、ルーシーだけが――その先を見据えるように、静かに言葉を継ぐ。
「リオスは……神の意志によって、この魔国の地に託されたのじゃ。
それはきっと――おそらく、セラ殿を生かすフォールム神の”慈悲”だったのじゃろう」
そして――さらに続けた。
「……加えて、勇者の力というのは、本人だけにとどまらぬ。
その仲間たちすらも、常識では測れぬほどに強化される」
室内にわずかなざわめきが走る。
「なぜ、リオスの周囲の兵士、そして使用人たちまでもが――高い練度を誇っているのか。
なぜ、鍛錬の成果が異常なまでに現れるのか」
ルーシーは一同を見渡しながら、静かに言った。
「本来、どれほど努力しても、100の修行で得られるものは、20。
才能があっても、せいぜい50が限界じゃ」
その現実に、思わず誰かが小さく息をのむ。
「だが――勇者の仲間は違う。
100の修行が、80にも、時に100にもなる。
それどころか、本人の素質を超えて、強さが引き出されることすらある」
リュシアがゆっくりと息を吐いた。
その横で、シエラもまた、無意識に拳を握る。
「そして、最も効果が強く現れるのは――最も近しい者だとも聞く。
家族、友、心を通わせる者……」
ルーシーはそこで、リュシア、シエラを順に見つめた。
「そう。そなたらの異様な鍛錬成果も……おそらくは、リオスの“力”によるところが大きいのじゃ」
それは、祝福なのか、それとも――運命の檻なのか。
誰も、すぐには言葉を継げなかった。
その時だった。
リオスの右手――紫紺の痣が、ふいに淡い光を放ち始めた。
青とも白ともつかぬ、神聖な輝きが、甲から手首にかけて浮かび上がる。
「……っ!」
リオス自身も驚いて手を引きかけるが、その光は痛みでも熱でもなく、ただ優しく、肌を包んでいた。
「見えるか……」
ルーシーの目が細められる。
「これが聖痕の輝き。信仰が内から生まれたときに、応える証じゃ」
「信仰……? でも、僕は……あんな神……」
リオスの声には、なお戸惑いが滲んでいた。
だが、ルーシーは静かに首を振る。
「憎しみの中に芽吹いた、ほんのわずかな感謝――
それこそが、神への信仰のはじまりなのじゃ」
その言葉に、リオスはふと目を伏せる。
セラの命を救ったこと――誰かが導いたのだとすれば、それがあの神だったのかもしれない。
ほんのわずかに、胸の奥が、温かく揺れた気がした。
聖痕の輝きは、それに応えるように、もう一度だけ静かに瞬き――やがて、淡く消えていった。
「……ねえ、ルーシーさん。魔国で、フォールムを信じてもいいのかな……?」
聖痕の輝きが消えたあと、リオスはぽつりと呟いた。
それは恐れではなく、ただ純粋な疑問――魔族として生きてきた彼なりの、真剣な迷いだった。
ルーシーは、ふっと微笑を浮かべる。
「そなたも戦士であれば、今でも戦神デウスベリに祈っておるのではないか?」
リオスは小さくうなずいた。
「うん……訓練の前とか、力を貸してくれるように……」
「ならば、それでよいのじゃ」
ルーシーは柔らかな声で、はっきりと断言する。
「魔神ヴァルゼルグは、自分の種族の神――
ましてや、自分を助ける神を信じたからといって、へそを曲げるような、器の小さい神ではない」
その言葉に、室内の空気が少しだけ緩んだ。
「実際、人間たちは誰もがフォールムを信仰しておる。
そして、エルフたちは精霊の神を崇め、ドワーフたちは炎の神や鉄の神に祈る。
魔国とは、そうした多様な信仰を受け入れてきた土壌でもある」
彼女の言葉には、誇りと寛容が宿っていた。
「何を信じるかではなく――どのように生き、誰を守るか。それこそが、この国の誇りであり、掟じゃ」
リオスは目を見開いたまま、しばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりとその視線が伏せられ、口元に微かな安堵の色が宿る。
「……でも、そうなると……今まで以上に、ちゃんと隠さなきゃいけないね」
「隠す?」
リュシアが首をかしげる。
「だって、これ……見られたら、いろいろ勘違いされそうだし。
僕が思ったみたいに、敵だ。って思われたら……イヤだよ」
リオスの真面目な言葉に、ふっとルーシーが微笑んだ。
「心配は無用じゃ。慣れれば、その印は――自由に出したり、消したりできるようになる」
「……え、そんなことが?」
「そもそも、一般に語られる勇者伝説には、聖痕など出てこん。
ただ、異様に強い人間、というくらいの認識のはずじゃよ」
そう言って、ルーシーはそっとセラとミリナに視線を送る。
「……はい。少なくとも、わたしはそんな話、聞いたことありません」
セラが穏やかに頷くと、ミリナも、こくんと首を縦に振った。
「お父さんも、人間にも、すごく強い人が現れることがある。ってくらいしか……」
「うむ、まさにそれじゃ」
ルーシーは満足げに頷いた。
だが――リオスが不意に問いかける。
「……じゃあ、なんでルーシーさんは、そんな聖痕のこと、知ってたの?」
その問いに、場の空気が静かに張り詰める。
ルーシーは、ゆっくりと左手を上げ――甲を見せた。
「答えは、簡単じゃ。……わらわも、同じようなものを持っておるからの」
何もなかったはずの手の甲に、淡い闇色の光が奔った。
次の瞬間――そこに浮かび上がったのは、魔族の血を継ぐ者にとって見覚えのある意匠。
――混沌の神にして魔神であり、魔族すべての母、
そして“初代魔王”たる存在――
ヴァルゼルグの聖痕。
「っ……!」
リオスが息を呑み、シエラも一歩、無意識に身を引いた。
その異様な威圧感に、空気が震えるようだった。
「ルーシー=ヴァルカン、というのは――偽りの名じゃ」
ルーシーは、ゆっくりとその名を明かす。
「真の名は、ルシアティス=ヴァルゼルグ。
――この魔族の大地を生み、統べた神の末裔。そして……現代における、魔王じゃ」
その言葉が響いた瞬間――
客間の空気が、鋼のように張り詰めた。
誰よりも早く、バルトロメイが膝をつき、頭を垂れる。
それに続いて、メルヴィラ、セラ、さらには部屋の隅に控えていた使用人たちも、次々と臣下の礼を取った。
跪く音が静かに重なり、まるで儀式の場のような荘厳な静寂が室内を包む。
その光景を前に――
リオスは、声も出せずにただ立ち尽くしていた。
シエラも、ミリナも同じく、驚愕に目を見開いたまま、動けずにいた。
言葉を出す余裕も、膝をつくという思考も追いつかない。
ただ、目の前の現実を飲み込めずにいる――それが、子どもたちの正直な反応だった。
そんな一同を前にして、ルーシー――いや、ルシアティスは苦笑まじりに小さく肩を竦める。
「……なんとまあ、大げさな」
そして、ちらりとリュシアへ視線を送った。
「そなたは驚かぬのか? “友人が魔王だった”と知って、平然としておるとは……」
その問いに、リュシアはやや得意げに、鼻を鳴らした。
「うん、なんとなくわかってた」
「……なんとなく、で済ますのか?」
「だって、ヴァルカン家って、わたしたちが生まれた年にできた家だし、何して叙勲されたか分かんないし、デーモン族だし、振る舞いとか……全部それっぽいんだもの。
普通の貴族じゃないってのは、最初から思ってたわ」
ルシアティスが、呆れと照れをないまぜにしたような顔になる。
ふと、彼女の視線がミリナへと移った。
「逆に、そなたはなぜ今更驚く? 契約のとき、名は目にしておろう? 何も言わぬから関心しておったのじゃが?」
問われたミリナは、ぽかんとした顔で小さく首を振った。
「……あの、わたし……字、読めないから……」
客間に妙な静けさが訪れる。
「どおりで平然としておると……ドレアノスの罪状、増えそうじゃな……」
ルシアティスは目元を押さえながら、やや本気でため息をついた。
空気が微妙に緩んだところで――
ルシアティスは、ふっと目元を細めて、彼女の耳元にささやく。
「ちなみに――おぬしは、わらわの“持ち物”じゃ。
すなわち、“魔王の所有物”ということになる」
ミリナはぴくりと眉を跳ね上げた。
「……へ?」
「よって、形式上ではあるが――この場にいる中でも、バルトロメイーー大魔将と同格の地位を持つ」
「……な、ななな……!」
ミリナはまるで足元が崩れたかのように、わずかによろけた。
エプロンの肩紐が滑りかけるのも気づかぬまま、青ざめた顔で視線を泳がせる。
目に入るのは、「もの凄く偉そうなダークオーガ」――バルトロメイが膝をついたまま静かに頭を下げている姿。
それと――同格……?
(ちょ、ちょっと待って……やっぱり、とんでもない人に引っかかっちゃってる!?)
ただ生活の保障を求めただけだったのに、結果として、あまりに畏れ多い存在の“私物”として契約してしまった――
その事実が、今ごろになって、ミリナの小さな背中にずっしりとのしかかってくる。
(フォールム様、これって、慈悲ですか? それとも、心の中で罵倒していた罰ですか!?)
どちらにしろ、重すぎるとミリナは半泣きとなった。




