31:自覚が足りぬ
リオスの自己評価に、ルーシーは紅茶のカップを傾けながら、小さく息をついた。
「……ふむ。なるほど」
まるで何かを整理するように目を細め、静かに呟く。
「それで“そこそこ”とは、恐ろしい限りじゃな」
わずかに首を傾げ、今度はじっとリオスを見据える。
「いいか、そなた。人間の子どもが、ダークオーガや魔人の血を引く者に、稀にでも勝てるという事実――そのものが、まず常識外れなのじゃ」
淡々とした口調だったが、その声には冷静な確信が宿っていた。
ちらりとリュシアへ視線を送ったあと、ルーシーは紅茶を置きながら静かに言う。
「どうやら――“牙獣を一刀両断にした”というのも、あながちリュシアのほら話というわけでもなさそうじゃな」
その言葉に、リオスは思わず視線を逸らしながら、肩をすくめた。
「えっと……あれは、ほんとにたまたま当たりどころが良かっただけで……」
リオスの言葉に、ルーシーは深いため息をつき、カップを静かに置いた。
「――そなた、自分がどれだけの実力を持っているか、自覚が足りぬ」
「え?」
「人間の子が、牙獣を一刀で断つ。それが“たまたま”で済まされるなど、常識のほうがたまったものではないわ」
そう断言したあと、ルーシーはリュシアとシエラに視線を移す。
「おぬしたちもだ。なぜ、リオスのその認識を正しておらぬ?」
その問いに、リュシアはきょとんとした顔で首を傾げた。
「え……でも、リオスって確かにすごいとは思うけど……
人間でも私より強い人、領兵の中にも何人かいるし……」
当然のことのように言い放ったその口調に、ルーシーの眉がぴくりと動く。
続けて、シエラもおずおずと口を開いた。
「わたくしも、リオス様の剣筋は見事だと思いますし……
初めて見たときは、正直なところ、驚きました。
でも……グリムボーンの方々の練度では、そのくらいが普通かと……」
少女たちはそれぞれ、リオスへの評価と敬意を示している。
だが、それでも「常識の範囲内」であるかのように口にするその様子に、ルーシーはしばし沈黙した。
やがて、静かに額に手を当てる。
「……どうなっておるのだ、グリムボーン領は……」
心底呆れたそのつぶやきには、ついに笑いすら滲んだ。
その時、ルーシーがふと思い出したように口を開いた。
「そういえば――」
彼女は紅茶のカップを置き、リオスの右手に目を向ける。
「そなたの手、風呂でちらと見えたが……包帯の下、痣のようなものがあったな」
リオスは一瞬、ぴくりと肩を動かした。
「……ああ、これのこと?」
右手を膝の上に置き、巻かれた包帯を見下ろす。
「……見たいの?」
「うむ。気になることがあってな。無理強いはせぬが――見せてもらえると助かる」
ルーシーの声音は、興味本位というより、どこか真剣な響きを帯びていた。
リオスはほんの少し迷うように目を伏せたが、やがて小さく息をついて頷く。
「……わかった。ちょっと待ってて」
そう言って慎重に指先を動かし、包帯を一巻きずつ外していく。
薄布の下から現れたのは、右手の甲から手首にかけて、奇妙な色を帯びた痣のような痕だった。
それはただの打撲ではない、まるで何かが内側から刻まれたような、不自然な模様――
包帯をすべて外し終えたリオスは、しばし躊躇ったのち、立ち上がった。
そのまま、ルーシーの前まで歩み寄ると、右手を差し出す。
甲から手首にかけて浮かぶ不自然な痕――複雑に入り組んだ紫紺の模様が、灯りの下で淡く浮かび上がった。
ルーシーは椅子から身を起こし、慎重にその手を取る。
小さな指がリオスの手を包み、痣の線をなぞるようにゆっくりと動いた。
観察の間、少女の顔は真剣そのものだった。
やがて、視線をじっと痣の中心に据えたまま、低く、しかし確信に満ちた声で呟く。
「――やはり、な」
その一言に、場の空気がすっと張り詰める。
「え……?」
リュシアとシエラが同時に声を上げ、ミリナも思わず身を乗り出しかけた、その瞬間――
「旦那様と奥様がご帰宅なされました!」
客間の扉越しに、使用人の朗らかな声が響いた。
空気が一転し、皆の意識が一瞬でそちらへと向けられる。
しかし、ルーシーの視線はなおもリオスの手に留まったままだった。
扉が静かに開かれ、重厚な足音とともに二つの気配が客間に入ってくる。
「今、戻った」
低く響く声とともに、グリムボーン家の主――バルトロメイが姿を現した。
その隣には、気品を湛えた黒髪の婦人――正妻メルヴィラが控えている。
ふたりの姿を目にし、シエラが立ち上がって丁寧に頭を下げた。
「お帰りなさいませ、バルトロメイ様、メルヴィラ様」
それに続き、リュシアも椅子から腰を上げて言葉を継ぐ。
「父上、母上。お出迎えできず、申し訳ありません。お客様がおられたもので……」
バルトロメイは娘の言葉に頷き、温かな声音で答える。
「構わぬ。客があるなら、それが優先だ」
そして目を向けた先で――
リオスが、誰かに手を取られている光景が目に飛び込んできた。
黒髪にヤギの角をもつデーモン族の少女。
リオスの右手をしっかりと取ったまま、こちらへも視線を向ける。
「……!」
バルトロメイが目を見開いた、その瞬間。
ルーシーはその手を離すことなく、淡々とした声で告げる。
「バルトロメイ。リオスの母も、ここへ呼べ」
その言葉が、命令であることを疑う余地はなかった。




