30:人間だからといって
湯上りの余熱が、まだ身体の奥にじんわりと残っている。
グリムボーン家の別邸、応接客間の一角――
湯あがりの時間を過ごすために設けられたその部屋には、やわらかな絨毯と、茶器の香りが満ちていた。
一人の少女が、紅茶を片手にふわりと脚を組んでいた。
黒髪は軽く乾かされ、肩に沿って流れている。
瞳はどこか気だるげで、湯気に緩んだ空気のまま、香り高い液体を一口含んだ。
その隣では――
「……っ」
ミリナが、ぎこちなく姿勢を正して立っていた。
身に纏っているのは、グリムボーン家の侍女用に用意された、一着のメイド服。
布地こそ質素だが清潔感があり、着慣れていない少女の身体にはやや大きめだった。
胸元には白い襟、裾はふくらはぎまで伸び、足元は支給されたばかりの簡素なサンダル。
膝の上で手を組み、所在なげに隣の少女を横目で見つめては、すぐに視線を落とす。
緊張が肌を伝って滲み出ているようだった。
一方、リオスはふたりの様子を眺めながら、ふと首を傾げた。
「……ねえ、姉上。そういえばさ」
「ん?」
壁際のソファで、紅茶に口をつけていたリュシアが応じる。
「そっちの子って……僕、名前、まだ聞いてなかったかも」
「え?」
リュシアは一瞬、目をぱちりと瞬かせ――それからくすりと笑った。
「……あら、そういえばそうだったかしら。完全に馴染んでたから、うっかりしてたわね」
「うむ、名乗っておらなんだな。すまぬ、そなたの名も確認しておらぬ」
少女が、こともなげにそう言い、湯上りの余韻をまとったままリオスを見やった。
「改めて、そなた、名は何と申す?」
「リオス。えっと、姉上――リュシアの弟です」
そう答えると、隣の椅子に控えていたシエラが、静かに立ち上がった。
背筋を伸ばし、スカートの裾をつまみ、淑やかに一礼する。
「わたくしはシエラ=ルキフェル。リオス様の婚約者ですわ」
その声音はやや緊張を帯びながらも、言葉選びには品があった。
ルーシーの視線が、すっとシエラへと移る。
「ふむ。そなたも、名と所作に違わぬ育ちをしておるな。よい」
「も、勿体ないお言葉ですわ……」
頬を染めてうつむくシエラに、リュシアが軽く肩を叩いた。
ちらりとリオスへ視線を送ったルーシーが、意味ありげに口元を緩めた。
「そなたも、粗雑には見えぬな。リュシアの弟にしては、思ったより――」
そこで一度、言葉を切り、紅茶の湯気の向こうで微笑を深める。
「……ま、悪くはなかろう」
からかうようなその言い回しに、リュシアがぴくりと眉を動かした。
「……どういう意味よ、それ?」
紅茶のカップを持ったまま、じとりとした視線をルーシーに向ける。
だが当の本人はどこ吹く風、平然と茶を啜りながら言った。
「説明してやってもよいが――詳細に語るぞ?」
「……っ!」
リュシアが一瞬たじろぎ、気まずそうに視線を逸らす。
「……いいわ、べつに。聞いてないし」
そのやり取りに、リオスは思わず小さく苦笑した。
姉が他人に押されて黙る姿は、滅多に見られるものではなかった。
「えっと……じゃあ、改めて……あなたは?」
「ルーシー=ヴァルカン。幼年学校に通っておる。リュシアと同じ学年じゃ」
そう言って紅茶を置いたルーシーは、ゆっくりとリオスの方へと視線を向けた。
真紅の瞳が、湯気の余韻を纏うように、じっと少年を射抜く。
「しかもね」
その横から、リュシアが補足するように声を重ねた。
「彼女、今年の生徒会役員なのよ。わたしと同じで」
「へえ、生徒会……」
リオスは小さく頷きかけて――ふと、首を傾げた。
「って、そういえば……姉上が生徒会に入ったって話は聞いてたけど、実際には何をするんだっけ?」
「興味ある?」
リュシアが、少しだけ口元をゆがめて微笑んだ。
湯上りのやわらかな髪が、肩からふわりと落ちる。
「わたしと彼女、どちらもクラス代表なの。つまり、生徒会の中でも一番“面倒を押しつけられる”立場ってわけ」
言葉こそ軽く笑っているが、その声音にはほんの少しだけ、疲れと本音が滲んでいた。
けれど、その自嘲混じりの表情の奥には――どこか、やりがいや誇りを感じているような気配もあった。
「クラス代表……って、やっぱりクラス全体のまとめ役?」
「そう。出席確認から始まって、生活指導の補助、あと行事の準備とか……なんというか、雑用がまとめて詰まったポジション」
リュシアはため息をつき、紅茶をもう一口すすった。
「ほんとは、もっと鍛錬に時間を割きたいのに。書類仕事と会議ばっかりで、剣を振る暇もないのよ……」
愚痴をこぼす姉を見て、リオスは思わず苦笑いを漏らした。
(姉上、やろうと思えば何でもできるんだけど……)
戦うことにかけては疑いなく一流。
そして文官のような業務も、要領よくこなせるだけの才はある――
ただひとつ、書類仕事だけは本当に嫌いなのだ。
机に向かって細かい文字を並べる姿は、いつもどこか不機嫌で、早く剣を握りたくて仕方がないという空気が滲み出ていた。
(父上は文武両道で、母上も文のことではむしろ父上より厳しいのに……その辺りは、あんまり似てないな)
「でも、クラス代表なんて……すごいです」
ぽつりと、シエラが素直な声を漏らした。
「そのうえ、会議や書類のことだけじゃなくて……治癒魔法まで使えるようになってるなんて、すごすぎますわ」
「……そういえば姉上、あのとき……いつの間に、そんなの使えるようになってたの?」
リオスの疑問に、リュシアは紅茶のカップを置き、わずかに目を伏せた。
そして――どこか気まずそうに、口元に手を添える。
「……ほんの、つい最近よ」
少し照れくさそうに笑いながら、リュシアはリオスの視線を受け止める。
「必要に迫られて……って感じかしら。習得したのは、ほんとに最近。あんまり得意ってほどでもないし、まだ練習中よ」
その様子は、いつもの堂々たる姉とは少し違っていて――
リオスは姉の謙虚な姿勢に、新鮮な敬意を抱いていた。
「すごいなあ……幼年学校の授業って、そんなことまで教えてくれるの?」
目を輝かせて尋ねたリオスに――その横から、紅茶を啜っていたルーシーが口を挟む。
「それは、高等学校で習う内容じゃ。しかも、後半の課程でな」
「えっ、そうなの?」
「リュシアは、授業とは無関係に覚えただけじゃ。幼年学校では、治癒魔法までは教えられぬ」
「え、じゃあ……どうして?」
首をかしげるリオスに、リュシアが肩をすくめて答えた。
「最初はね……決闘で相手に怪我をさせすぎちゃって。治療師の人たちに『もうちょっと手加減して』って、半分泣きながら言われたの」
「……はあ?」
「だって向こうから挑んでくるんだもの。断ったら『逃げた』って言われるし、手を抜いたら『見下された』って文句言われるし……」
リュシアは紅茶のカップを傾けながら、面倒くさそうに言葉を継いだ。
「最終的に、『自分で治して』って結論になったのよ」
その説明に、ルーシーが頷きながら補足を加える。
「上級生でも、平気で叩き伏せておるからな。もはや、決闘相手が気の毒じゃ」
「……え、上級生って、二年とか三年とか……?」
「うむ。骨の一本や二本、日常茶飯事よ」
そのやりとりを聞いていたリオスは、唖然とした表情でぽつりと呟いた。
「……都会の魔族って、やっぱり軟弱なの? さっきの子たちも、その……」
「弱すぎた」とまでは言わなかったが――
その言い淀みに、ルーシーがジト目を向けながら口を開く。
「そなた、自分が“人間”だからといって、自分の実力を過小評価しておらんか?」
ルーシーの鋭い問いかけに、リオスは少し目を伏せて答える。
「……うん、まあ。新兵とか、鍛錬場にいる普通の人たち相手なら、勝てる。そういう意味じゃ、自分でもそこそこ強い方だとは思う」
言いながらも、その表情はどこか曇っていた。
「でも、中堅以上の兵には、まず勝てないし……姉上にも、シエラにも、まともに勝てた記憶なんてほとんどないんだ」
苦笑まじりに肩をすくめる。
「だから、僕が強いって言われると、ちょっと違和感があるというか……」
それは謙遜というより、自分を相対的に見た正直な実感。
彼の育った環境が、いかに規格外の強者に囲まれていたかを物語っていた。




