2:湯気の向こうに、姉のぬくもり
激しい鍛錬を終えたリュシアとリオスの姉弟は、訓練場を後にしながら、肩を並べて敷地の奥へと向かっていた。
今日の訓練内容を反芻するように、二人の間には親密な空気が流れていた。
「今日のリオスは、最後の一撃が甘かったわね。あれじゃあ、実戦じゃ通用しないわよ」
リュシアが、汗で張り付いた前髪を指先で払いながら言った。
その声には、厳しさの中に、どこか弟を気遣う優しさが滲んでいた。
「うっ……だって、姉上は容赦ないんだもん。もうちょっと手加減してくれてもいいじゃないか」
リオスは肩を竦め、疲労困憊といった様子で答えた。
しかし、その表情には、姉の強さへの憧れと、何よりも共に鍛錬できたことへの満足感が浮かんでいた。
「ふふ、鍛錬に手加減なんて言ってたら、いつまで経っても強くならないわよ。それに、あんたなら、きっともっと強くなれるんだから」
リュシアは弟の頭を軽く小突き、励ますように笑った。
「姉上は厳しいなぁ。でも、ありがと。姉上のおかげで、僕も毎日頑張れるよ」
リオスは素直にそう言い、リュシアの隣で、疲労を滲ませながらもどこか誇らしげな顔をした。
どこか素直で、そして心地よい親密な空気が二人の間に流れていた。
そんな会話を交わしながら辿り着いた先――屋敷の一角に構えられた建物は、ただの風呂場とは思えないほどの威容を誇っていた。
一日の疲れを癒す、待ち望んだ場所だった。
広々とした石造りの脱衣所。
壁には上質な魔法照明が灯され、天井には魔導通気孔が配され、温度も湿度も常に快適に保たれていた。
ひんやりとした空気が肌を撫で、一日の疲れが少しずつ溶けていくようだった。
その奥には、黒曜石で縁取られた主湯が静かに湯気を立てていた。
湯面からは蒸気が穏やかに立ち昇り、湯気がふわりと漂い、湯殿全体を幻想的に見せていた。
中央の湯船だけでも十人以上が余裕をもって浸かれる広さがある。
二人は、脱衣所の中央に設けられた磨かれた腰掛けに並んで立ち、汗で肌に張り付いた運動着を、ゆっくりと、しかし躊躇なく脱ぎ始めた。
ひんやりとした脱衣所の空気が、熱を帯びた肌を撫でる。
シャツが布の擦れる微かな音を立てながら、汗を含んだ肌からゆっくりと離れていく。
リュシアはまず、襟元を掴んでシャツを頭上からゆっくりと引き抜いた。
その動作一つ一つが、しなやかな筋肉の躍動を露わにする。
銀色の髪がさらりと肩に落ち、鍛え抜かれた肩甲骨が美しく浮かび上がる。
衣擦れの音が微かに響き、肩から背中へと服が滑り落ちていく。
そのたびにあらわになる姉の輪郭に、リオスの視線は自然と引き寄せられていた。
その視線は、微動だにせず、リュシアの首筋から肩、背中、そして腰へとゆっくりと滑っていく。
リュシアはそんな弟の熱い視線を感じ取りながらも、気にも留めない様子で、ゆっくりと裾を捲り上げる。
その肌が空気に触れるたび、微かなざわめきが空間に満ちていく。
リュシアの肌は、黒曜石のように深く、見る者の視線を吸い込む漆黒を湛えていた。
それは、太陽の下で肉体を極限まで鍛え抜いた者にしか手に入れられない、生命力に満ちた色合いだった。
微かに隆起する筋肉の線は、硬質でありながらも、滑らかな曲線を描き、女性らしいしなやかさと力強さを同時に主張する。
濡れた髪が背中にしっとりと張り付き、汗の粒が滑らかな肌の上をゆっくりと滑り落ちていく様は、まるで生きている彫刻のような、息をのむ美しさを放っていた。
首筋から肩、背中へと続く流れるようなラインは、見る者を惹きつけて離さない。
微かに香る汗と、リュシア自身の甘く力強い匂いが混じり合い、リオスの鼻腔をくすぐる。
ふと、その姿に視線を奪われたリオスの目が、微かに陰る。
彼の視線は、リュシアの引き締まった腹筋から、しなやかな腰のライン、そして、その先へとなぞるように滑っていく。
「……姉上って、ずるいよな」
リュシアが、タオルを手にくるりと振り返る。彼女の金色の瞳が、リオスを真っ直ぐに見つめ返す。
その視線には、挑発的な輝きが宿っているように見えた。
「ん? 何の話?」
「……肌。黒くて、かっこいいな」
ぽつりと、リオスは言った。その声には、微かな羨望と、姉への純粋な魅了が滲んでいた。
彼の視線は、再びリュシアの胸元へと吸い寄せられる。
漆黒の肌は引き締まり、まだ小さいながらも、体つきにはしっかりとした芯が感じられた。
鍛錬によって育まれたその体からは、強さと柔らかさが自然ににじみ出ている。
静かな息づかいの奥で、鼓動が淡く響いていた。
自分の腕を見下ろす。
そこにあるのは、触れれば壊れそうなほどに繊細で、儚い白磁のような肌。
いくら鍛え、いくら太陽の下で時を過ごしても、すぐに元の色に戻ってしまう。
冷気すら帯びたようなその白さは、リュシアの漆黒とは対照的で、ある種の危うい美しさを放っていた。
「僕、どんなに日に当たっても、すぐ白く戻っちゃうんだ。……せめて、もうちょっと焼けた色になれたらなって、思う。姉上みたいな肌になりたいよ」
言いながら、どこか寂しげな声音だった。
それは、自分の出自を責める言葉ではない。
ただ、姉のようになれないという、淡い憧れと自嘲の入り混じった呟きだった。
リュシアは一瞬きょとんとしたあと、目を細めた。
その表情は、弟の言葉に込められた複雑な感情を慮るかのようだった。
「……それは、しょうがないじゃない。リオスは人間で、私とは違う魅力があるんだから」
「でも、人間にも、黒い人いるよ」
リオスは、諦めきれないようにぽつりとこぼす。
その視線は、まだリュシアの肌に吸い寄せられている。
「せめて……あのくらいにはなりたい。魔族っぽく見えるように」
リュシアはふふ、と喉を鳴らして笑った。
その声は、湯殿の静けさの中に心地よく響く。
「……ふふ。リオスはリオスで、白くて、まるで磨かれた陶器みたいに綺麗じゃない。私にはない、透き通るような肌よ。触れると、ひんやりして気持ちいいくらい」
そう言って弟の頭をくしゃりと撫でた。
その手のひらの温かさと、姉の言葉の響きに、リオスは少しだけ頬を赤らめながら、甘えるように何も言い返せなかった。
姉の指が髪の間を通り抜ける感触が、心地よい痺れとなって頭皮に広がり、微かな甘い香りが、鼻腔をくすぐった。
「そうかな? こんな痣もあるし……」
リオスは己の右手の甲を見た。そこには奇妙な痣がある。
生まれた時からある痣で、日焼けはすぐに白くなっても、これだけは何故か消えない。
見苦しいので、普段は包帯を巻いて隠している。
姉はその手をそっと取り、自分の指先でなぞるように撫でた。
「……私は、好きよ? この痣」
リオスが驚いたように顔を上げる。
「だって、それってリオスだけの“印”じゃない」
リュシアの声は、どこまでも穏やかだった。
「他の誰にもない、リオスの証。……消えないのは、きっと何か大事な意味があるからだと思うの」
柔らかな笑みを浮かべながら、彼女は痣のある手の甲にそっと唇を寄せ、軽くキスを落とした。
「だから、隠すことなんてないのよ。私はそのままのリオスが、好きなんだから」
言葉はあくまで自然で、姉としての包容の色を強く帯びていた。
けれど、リオスの胸には、ぽつりと熱いものが灯った。
◆
二人は湯場の隅に設けられた洗い場に並び、桶に湯を汲んでかけ湯をする。
熱い湯が肌を滑り落ちるたび、微かな湯気が立ち上り、二人の体を柔らかく包み込む。
「……うぅ、沁みるなぁ。肩、まだちょっと痛い」
リオスが湯をかぶりながら、先ほどの訓練の一撃に触れて唸る。
その白い肩には、微かに赤みが差しているのが見て取れた。
「そりゃそうでしょ。本気では打ってないけど、それなりにはね」
リュシアはそう言って笑いながら、泡立てた布で腕を撫でている。
滑らかな布が、漆黒の肌の上を滑る音は、どこか艶めかしい。
言葉に棘もなければ、気遣いも自然に混ざり合い、その触れ合いは、ある種の熱を帯びていた。
それは、互いの存在そのものを慈しむかのようだ。
「……それにしても、姉上の肌って、何度見ても、ほんとに綺麗だよな。見てるだけで、なんか、吸い込まれそうになる」
リオスがふと思い出したように呟くと、リュシアはくるりとこちらを見る。
その視線には、挑発的な輝きが宿っている。
湯気で湿った空気が、リュシアの濡れた肌に光沢を与え、その肉体の輪郭をさらに際立たせる。
「またその話?」
「うん、だってさ。漆黒っていうの? なんか、すごく強そうで、それでいて綺麗でさ。見てると、触りたくなるくらい羨ましいよ」
リュシアは口元にいたずらっぽい笑みを浮かべた。
その瞳の奥には、弟の視線を愉しむような光が宿っていた。
「ふふ、それを言うなら。あんたの白さだって、大したものよ? まるで、輝くみたいに、私にはない透き通るような白さで、本当に実在しているのか、思わず触れて確かめたくなるくらいよ」
そう言いながら、リュシアはリオスの滑らかな背中に手を伸ばし、愛情を込めるように、そっと擦ってやった。
その指先が肌の上を滑るたび、リオスの体が微かに震えるのが、姉の手のひらに生々しく伝わってくる。
リオスはわずかに身を竦めるが、それを拒むことはない。
むしろ、その触れ合いを求めているかのように、リュシアの指先に身を任せた。
「ほら見て、傷ひとつない。まるで磨き上げられた磁器みたい。こんなにも繊細な肌なのに、毎日訓練してるなんて、信じられないわよ」
リュシアの指先が、リオスの背骨に沿ってゆっくりと下へと滑っていく。
その指の動きに合わせて、リオスの呼吸が浅くなる。
湯気で霞む視界の中、互いの肌の温度が、じりじりと伝わり合う。
「そんな……僕なんて、すぐ真っ赤になるし、すぐ戻るし……全然焼けないし」
蚊の鳴くような声でリオスが言うと、リュシアはふわりと笑った。
「それが、あんたの個性でしょ。私からすれば、その透き通るような白さが眩しいわ」
「眩しいのは姉上の方だって」
リオスは、顔を背けるように湯をかぶりながら、ぶっきらぼうに呟く。
その白い耳の先が、ほんのりと赤く染まっている。
「んふふ、どっちもどっちね」
そんな他愛のない会話を交わしながら、二人はさっと身体を流し終えると、湯気が立ち上る湯船へと、ゆっくりと身を沈めた。
湯の香りが、浴室全体に満ちていた。
二人が身を沈めた湯の表面には、立ち上る湯気が天井の魔導灯をゆらめかせ、幻想的な光を二人の肌にまとわせる。
湯の熱が、肌の毛穴をゆっくりと開かせ、全身を弛緩させていく。
湯気で湿った空気が、呼吸とともに肺を満たし、心地よい重みが全身に広がる。
湯の香りが、二人の体を包み込むように漂う。
「……はぁぁ……っ」
湯の中で、二人は同時に、深く吐息を漏らした。
温かな湯が全身を優しく包み込み、日中の鍛錬で張り詰めていた肉体の緊張の糸が、ゆっくりと、しかし確実に溶けていく。
互いの体が湯の中で微かに触れ合うたび、肌の滑らかさや、筋肉の張りが伝わり、満ち足りたような安堵が、二人の顔に静かに浮かんだ。
湯の熱が、彼らの間にある境界線を曖昧にし、より深い親密さへと誘うかのようだった。