表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/17

2:湯気の向こうに、姉のぬくもり

 激しい鍛錬を終えたリュシアとリオスの姉弟は、訓練場を後にしながら、肩を並べて敷地の奥へと向かっていた。

 今日の訓練内容を反芻するように、二人の間には親密な空気が流れていた。


「今日のリオスは、最後の一撃が甘かったわね。あれじゃあ、実戦じゃ通用しないわよ」


 リュシアが、汗で張り付いた前髪を指先で払いながら言った。

 その声には、厳しさの中に、どこか弟を気遣う優しさが滲んでいた。


「うっ……だって、姉上は容赦ないんだもん。もうちょっと手加減してくれてもいいじゃないか」


 リオスは肩を竦め、疲労困憊といった様子で答えた。

 しかし、その表情には、姉の強さへの憧れと、何よりも共に鍛錬できたことへの満足感が浮かんでいた。


「ふふ、鍛錬に手加減なんて言ってたら、いつまで経っても強くならないわよ。それに、あんたなら、きっともっと強くなれるんだから」


 リュシアは弟の頭を軽く小突き、励ますように笑った。


「姉上は厳しいなぁ。でも、ありがと。姉上のおかげで、僕も毎日頑張れるよ」


 リオスは素直にそう言い、リュシアの隣で、疲労を滲ませながらもどこか誇らしげな顔をした。

 どこか素直で、そして心地よい親密な空気が二人の間に流れていた。


 そんな会話を交わしながら辿り着いた先――屋敷の一角に構えられた建物は、ただの風呂場とは思えないほどの威容を誇っていた。

 一日の疲れを癒す、待ち望んだ場所だった。


 広々とした石造りの脱衣所。

 壁には上質な魔法照明が灯され、天井には魔導通気孔が配され、温度も湿度も常に快適に保たれていた。

 ひんやりとした空気が肌を撫で、一日の疲れが少しずつ溶けていくようだった。

 その奥には、黒曜石で縁取られた主湯が静かに湯気を立てていた。

 湯面からは蒸気が穏やかに立ち昇り、湯気がふわりと漂い、湯殿全体を幻想的に見せていた。

 中央の湯船だけでも十人以上が余裕をもって浸かれる広さがある。


 二人は、脱衣所の中央に設けられた磨かれた腰掛けに並んで立ち、汗で肌に張り付いた運動着を、ゆっくりと、しかし躊躇なく脱ぎ始めた。

 ひんやりとした脱衣所の空気が、熱を帯びた肌を撫でる。

 シャツが布の擦れる微かな音を立てながら、汗を含んだ肌からゆっくりと離れていく。


 リュシアはまず、襟元を掴んでシャツを頭上からゆっくりと引き抜いた。

 その動作一つ一つが、しなやかな筋肉の躍動を露わにする。

 銀色の髪がさらりと肩に落ち、鍛え抜かれた肩甲骨が美しく浮かび上がる。

 衣擦れの音が微かに響き、肩から背中へと服が滑り落ちていく。

 そのたびにあらわになる姉の輪郭に、リオスの視線は自然と引き寄せられていた。

 その視線は、微動だにせず、リュシアの首筋から肩、背中、そして腰へとゆっくりと滑っていく。

 リュシアはそんな弟の熱い視線を感じ取りながらも、気にも留めない様子で、ゆっくりと裾を捲り上げる。

 その肌が空気に触れるたび、微かなざわめきが空間に満ちていく。


 リュシアの肌は、黒曜石のように深く、見る者の視線を吸い込む漆黒を湛えていた。

 それは、太陽の下で肉体を極限まで鍛え抜いた者にしか手に入れられない、生命力に満ちた色合いだった。

 微かに隆起する筋肉の線は、硬質でありながらも、滑らかな曲線を描き、女性らしいしなやかさと力強さを同時に主張する。

 濡れた髪が背中にしっとりと張り付き、汗の粒が滑らかな肌の上をゆっくりと滑り落ちていく様は、まるで生きている彫刻のような、息をのむ美しさを放っていた。

 首筋から肩、背中へと続く流れるようなラインは、見る者を惹きつけて離さない。

 微かに香る汗と、リュシア自身の甘く力強い匂いが混じり合い、リオスの鼻腔をくすぐる。


 ふと、その姿に視線を奪われたリオスの目が、微かに陰る。

 彼の視線は、リュシアの引き締まった腹筋から、しなやかな腰のライン、そして、その先へとなぞるように滑っていく。


「……姉上って、ずるいよな」


 リュシアが、タオルを手にくるりと振り返る。彼女の金色の瞳が、リオスを真っ直ぐに見つめ返す。

 その視線には、挑発的な輝きが宿っているように見えた。


「ん? 何の話?」

「……肌。黒くて、かっこいいな」


 ぽつりと、リオスは言った。その声には、微かな羨望と、姉への純粋な魅了が滲んでいた。

 彼の視線は、再びリュシアの胸元へと吸い寄せられる。

 漆黒の肌は引き締まり、まだ小さいながらも、体つきにはしっかりとした芯が感じられた。

 鍛錬によって育まれたその体からは、強さと柔らかさが自然ににじみ出ている。

 静かな息づかいの奥で、鼓動が淡く響いていた。


 自分の腕を見下ろす。

 そこにあるのは、触れれば壊れそうなほどに繊細で、儚い白磁のような肌。

 いくら鍛え、いくら太陽の下で時を過ごしても、すぐに元の色に戻ってしまう。

 冷気すら帯びたようなその白さは、リュシアの漆黒とは対照的で、ある種の危うい美しさを放っていた。


「僕、どんなに日に当たっても、すぐ白く戻っちゃうんだ。……せめて、もうちょっと焼けた色になれたらなって、思う。姉上みたいな肌になりたいよ」


 言いながら、どこか寂しげな声音だった。

 それは、自分の出自を責める言葉ではない。

 ただ、姉のようになれないという、淡い憧れと自嘲の入り混じった呟きだった。


 リュシアは一瞬きょとんとしたあと、目を細めた。

 その表情は、弟の言葉に込められた複雑な感情を慮るかのようだった。


「……それは、しょうがないじゃない。リオスは人間で、私とは違う魅力があるんだから」

「でも、人間にも、黒い人いるよ」


 リオスは、諦めきれないようにぽつりとこぼす。

 その視線は、まだリュシアの肌に吸い寄せられている。


「せめて……あのくらいにはなりたい。魔族っぽく見えるように」


 リュシアはふふ、と喉を鳴らして笑った。

 その声は、湯殿の静けさの中に心地よく響く。


「……ふふ。リオスはリオスで、白くて、まるで磨かれた陶器みたいに綺麗じゃない。私にはない、透き通るような肌よ。触れると、ひんやりして気持ちいいくらい」


 そう言って弟の頭をくしゃりと撫でた。

 その手のひらの温かさと、姉の言葉の響きに、リオスは少しだけ頬を赤らめながら、甘えるように何も言い返せなかった。

 姉の指が髪の間を通り抜ける感触が、心地よい痺れとなって頭皮に広がり、微かな甘い香りが、鼻腔をくすぐった。


「そうかな? こんな痣もあるし……」


 リオスは己の右手の甲を見た。そこには奇妙な痣がある。

 生まれた時からある痣で、日焼けはすぐに白くなっても、これだけは何故か消えない。


 見苦しいので、普段は包帯を巻いて隠している。


 姉はその手をそっと取り、自分の指先でなぞるように撫でた。


「……私は、好きよ? この痣」


 リオスが驚いたように顔を上げる。


「だって、それってリオスだけの“印”じゃない」


 リュシアの声は、どこまでも穏やかだった。


「他の誰にもない、リオスの証。……消えないのは、きっと何か大事な意味があるからだと思うの」


 柔らかな笑みを浮かべながら、彼女は痣のある手の甲にそっと唇を寄せ、軽くキスを落とした。


「だから、隠すことなんてないのよ。私はそのままのリオスが、好きなんだから」


 言葉はあくまで自然で、姉としての包容の色を強く帯びていた。


 けれど、リオスの胸には、ぽつりと熱いものが灯った。


 ◆


 二人は湯場の隅に設けられた洗い場に並び、桶に湯を汲んでかけ湯をする。

 熱い湯が肌を滑り落ちるたび、微かな湯気が立ち上り、二人の体を柔らかく包み込む。


「……うぅ、沁みるなぁ。肩、まだちょっと痛い」


 リオスが湯をかぶりながら、先ほどの訓練の一撃に触れて唸る。

 その白い肩には、微かに赤みが差しているのが見て取れた。


「そりゃそうでしょ。本気では打ってないけど、それなりにはね」


 リュシアはそう言って笑いながら、泡立てた布で腕を撫でている。

 滑らかな布が、漆黒の肌の上を滑る音は、どこか艶めかしい。

 言葉に棘もなければ、気遣いも自然に混ざり合い、その触れ合いは、ある種の熱を帯びていた。

 それは、互いの存在そのものを慈しむかのようだ。


「……それにしても、姉上の肌って、何度見ても、ほんとに綺麗だよな。見てるだけで、なんか、吸い込まれそうになる」


 リオスがふと思い出したように呟くと、リュシアはくるりとこちらを見る。

 その視線には、挑発的な輝きが宿っている。

 湯気で湿った空気が、リュシアの濡れた肌に光沢を与え、その肉体の輪郭をさらに際立たせる。


「またその話?」

「うん、だってさ。漆黒っていうの? なんか、すごく強そうで、それでいて綺麗でさ。見てると、触りたくなるくらい羨ましいよ」


 リュシアは口元にいたずらっぽい笑みを浮かべた。

 その瞳の奥には、弟の視線を愉しむような光が宿っていた。


「ふふ、それを言うなら。あんたの白さだって、大したものよ? まるで、輝くみたいに、私にはない透き通るような白さで、本当に実在しているのか、思わず触れて確かめたくなるくらいよ」


 そう言いながら、リュシアはリオスの滑らかな背中に手を伸ばし、愛情を込めるように、そっと擦ってやった。

 その指先が肌の上を滑るたび、リオスの体が微かに震えるのが、姉の手のひらに生々しく伝わってくる。

 リオスはわずかに身を竦めるが、それを拒むことはない。

 むしろ、その触れ合いを求めているかのように、リュシアの指先に身を任せた。


「ほら見て、傷ひとつない。まるで磨き上げられた磁器みたい。こんなにも繊細な肌なのに、毎日訓練してるなんて、信じられないわよ」


 リュシアの指先が、リオスの背骨に沿ってゆっくりと下へと滑っていく。

 その指の動きに合わせて、リオスの呼吸が浅くなる。

 湯気で霞む視界の中、互いの肌の温度が、じりじりと伝わり合う。


「そんな……僕なんて、すぐ真っ赤になるし、すぐ戻るし……全然焼けないし」


 蚊の鳴くような声でリオスが言うと、リュシアはふわりと笑った。


「それが、あんたの個性でしょ。私からすれば、その透き通るような白さが眩しいわ」

「眩しいのは姉上の方だって」


 リオスは、顔を背けるように湯をかぶりながら、ぶっきらぼうに呟く。

 その白い耳の先が、ほんのりと赤く染まっている。


「んふふ、どっちもどっちね」


 そんな他愛のない会話を交わしながら、二人はさっと身体を流し終えると、湯気が立ち上る湯船へと、ゆっくりと身を沈めた。

 湯の香りが、浴室全体に満ちていた。


 二人が身を沈めた湯の表面には、立ち上る湯気が天井の魔導灯をゆらめかせ、幻想的な光を二人の肌にまとわせる。

 湯の熱が、肌の毛穴をゆっくりと開かせ、全身を弛緩させていく。

 湯気で湿った空気が、呼吸とともに肺を満たし、心地よい重みが全身に広がる。

 湯の香りが、二人の体を包み込むように漂う。


「……はぁぁ……っ」


 湯の中で、二人は同時に、深く吐息を漏らした。

 温かな湯が全身を優しく包み込み、日中の鍛錬で張り詰めていた肉体の緊張の糸が、ゆっくりと、しかし確実に溶けていく。

 互いの体が湯の中で微かに触れ合うたび、肌の滑らかさや、筋肉の張りが伝わり、満ち足りたような安堵が、二人の顔に静かに浮かんだ。

 湯の熱が、彼らの間にある境界線を曖昧にし、より深い親密さへと誘うかのようだった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ