27:弱い者いじめは、ダメ
そのときだった。
広場の端――白石の街路から、整った足音が数人分、軽やかに響いてきた。
ふとそちらを見ると、そこには数人の少女たちの姿があった。
どの子も、揃いの制服を身にまとい、軽い手提げを肩にかけている。
幼年学校の生徒たち――そして、その中心に立つのは、ひときわ目を引く銀髪の少女だった。
「……何かあったのかしら?」
涼やかな声。
その響きだけで、広場の空気が緊張に包まれる。
リュシア=グリムボーン。
幼年学校でも群を抜く存在感と、圧倒的な格を備えた少女が、そこにいた。
リュシアが広場を一瞥し、問いかける。
「状況を聞かせてくれる?」
すると、すぐさま声を上げたのは――
先ほどまでリオスと対峙していた、ドレアノス家の令嬢だった。
「リュシア様っ! ご覧くださいませ! この人間の男が……!」
涙交じりの声で、まるで味方を得たかのように縋るような言葉を投げかける。
だが――
「……誰?」
リュシアの一言が、少女の声を断ち切った。
「え……?」
呆けたような表情を浮かべるリュシアに、後ろの一人が、そっと小声で囁くように言う。
「ドレアノス家の、ラミーナさんですよ」
その声には、フォローというより、“空気を和らげたい”という控えめな配慮が滲んでいた。
だが――
「しらない」
リュシアは、ほんの一瞬だけ視線を向け、
しかし次の瞬間、関心の対象から除外するかのように視線を逸らした。
「……クラスメイトなんですが」
フォローした少女がため息交じりにそう漏らすが――
「……知らないわ。名前も、顔も、覚えてない」
静かで、澄み切った声。
けれど、その一言は、ドレアノス令嬢の顔から血の気を引かせるのに十分だった。
令嬢の声も、取り巻きたちの呻きも――すべてを背景に退けるように。
リュシアは、ふと目線を動かし、広場の中心で静かに立つ少年に目を止めた。
「リオス。あなたがいたのね」
その声には、再会を喜ぶような色はなかった。
懐かしさも、驚きも、感傷もない。
ただ、目の前の現実を整理するために口を開いた――そんな声音だった。
「状況を、説明してくれる?」
その言葉に、リオスもまた、何の感情も乗せずに口を開く。
「……あの人たちが、奴隷の女の子を蹴ろうとしてた。
だから止めた。で、襲ってきたから、返しただけ」
それだけだった。
誰が悪いとも、誰が強いとも言わない。
感情も、主張も、そこにはない。
ただ、事実だけを並べたリオスの口調に、リュシアはひとつ頷いた。
そして――
「……弱い者いじめは、ダメでしょ」
肩をすくめるようにして、少しだけあきれたように口にする。
その一言で、広場に微かな笑いが漏れた。
「ぷっ……人間の男の子に……オーガとオークが……」
「ダメだ、笑うの我慢できない……っ」
魔族の価値観において、人間は明確な下位種族。
そんな相手に、オーガやオークが「弱い者いじめされた」などという話は、笑い話でしかない。
クスクスと忍び笑いが広がり、令嬢の顔は羞恥で引きつっていった。
「……まったく。王都に来て早々、騒ぎを起こさないでよね」
リュシアは溜息をつきつつ、倒れたままの取り巻き少年たちへと歩を進めた。
まずは、地面にうずくまっていたオークの少年。
腹を押さえて唸っていた彼の背に、そっと手を当てる。
「動かないで。少しだけ、魔力が流れるから」
淡く光る紋様が、リュシアの手元に浮かぶ。
治癒の魔法――その波動に包まれたオークの体が、みるみるうちに楽になっていく。
続いて、足を抱えて泣き叫んでいたオーガの少年にも、同様に魔力を流す。
「骨の癒着は……少し時間がかかるけど、大丈夫」
まるで義務を淡々とこなすように、リュシアは動く。
その一挙手一投足に、周囲の空気が静まり返るような緊張を孕んでいた。
そして――
「……あの子は?」
リュシアの視線が、奴隷の少女に向けられる。
ボロをまとい、身をすくませていた少女が、びくりと肩を震わせる。
「……特に目立った傷はないように見えるけど……」
リュシアは、歩み寄りながら膝を折り、少女の顔を覗き込む。
「……あれ? 声が出ないの?」
首を傾げながら、少女の喉元にそっと手を伸ばす。
「……潰されてるのね。
……ひどい話」
その目に、一瞬だけ怒りの色がよぎった。
そして――
「リオスがケガをさせたお詫びもあるし……これは私から、ね」
リュシアの指先から、淡い癒しの光が溢れ――
少女の喉元に、ふわりと降り注いだ。
光が消えると同時に――
少女の身体が、びくんと震えた。
ごくり、と喉が鳴る音がした。
それは、どこか異様に大きく響いた。
まるで長い年月を経て、ようやくその機能を取り戻したかのように。
少女は、おそるおそる口を開いた。
「……あっ……」
かすれた、でも、確かに“声”として響く音。
自分の声に、少女自身が目を見開いた。
指先を喉元に当てて、何度も震えるように確かめる。
「……声が……出る……」
その声には、戸惑いと、信じられないという色が混じっていた。
そして、次の瞬間――
「……ありがとう、ございます……っ」
少女は、震える声で、リュシアに頭を下げた。
「ほんとうに……ありがとう、ございます……っ……」
その感謝は、あまりにも切実で、真っ直ぐだった。
その響きに、広場の空気がふっと揺れたような気がした。
だが――
「……あの……わたし、ほんとは……っ」
少女の瞳に、涙がにじむ。
「わたし……村ごと、捕まったんです……」
少女は震える声で語り出した。
「お父さんも、お母さんも、弟も……家にいたとき……
いきなり、兵隊の人たちが村に押し入ってきて……っ」
その場にいた誰もが、思わず息を呑む。
「兵隊……?」
誰かが、唇からこぼすように問い返した。
「うん……“検分”って言って……でも、何人か、力づくで……
“働かせれば、村も家族も守ってやる”って言われて……
私たち、馬車に詰め込まれて……」
少女の肩が、小刻みに揺れる。
「家族とは、ばらばらになってて……
誰も……いなくて……っ」
その言葉の端に、詰まったような嗚咽。
「わたし……声も、出せなくなってて……
喉、潰されてたから……
でも、痛いって、言えなかった……っ」
語尾がかすれ、息とともに震える。
そして、少女は小さく肩をすくめながら、そっと前を向いた。
「……あの人たちに……」
か細い声とともに、小さな指がゆっくりと掲げられる。
震える指先が、令嬢とその取り巻きへと向けられた。
その瞬間、令嬢の顔から、血の気がすっと引いていった。
「どこの……領の兵隊だったの?」
リオスが、静かに尋ねる。
少女は、うつむいたまま、ぽつりと呟いた。
「……ドレアノス、領……」
その一言で、広場に空気が凍りついた。
令嬢が口を開こうとするより早く、周囲の誰かが囁いた。
「……ドレアノス領……って、つまり……」
「自分の領地で、領主が……誘拐?」
「しかも、それを奴隷にして……領主の娘が連れ回してたのか……?」
どよめきと冷たい視線が、令嬢を包み込む。
「ち……違いますわ……っ! わたくしは何も――っ!」
少女の声は、もはや誰の耳にも届いていなかった。




