22:王都
リュシアの幼年学校入学から、およそ三月が過ぎた。
王都では、毎年恒例となっている――初代魔王の降臨を祝う祭典、いわゆる「魔王降臨祭」の準備が進められていた。
すべての魔族の母にして、混沌の神――魔神ヴァルゼルグ。
そのヴァルゼルグ神がこの地に受肉し、初代魔王として現れたとされる“神話の日”を讃える祝祭である。
その賑わいに合わせるように、グリムボーン家とルキフェル家の一行も、王都へと向かうこととなった。
名目は祭典への参列。
――だがその実、彼らの目的はひとつ。
しばし離れていた、リュシアに会うためである。
――王都マグナシヴィアまで、あと1時間ほど。
旅路はすでに三日目を迎えていた。
緩やかに揺れる馬車の中、リオスは少しだけ窓の外を見やりながら、細く息をついた。
灰色の舗装石が続く街道の向こうに、ようやく城壁の影が見え始めている。
長かった旅の終わりが近い。
「見て、リオス様。あれが、王都の門ですわ」
隣で声を上げたのは、シエラだった。
いつものように姿勢正しく座っているが、その瞳は明らかに弾んでいる。
旅装のままでも上品さを崩さない彼女が、今だけは少し子供らしく見えた。
「……ほんとだ。でかいな、あれ」
リオスも思わず、窓の外に身を乗り出す。
遠く霞む王都の外壁は、想像していた以上に高く、広い。
まるで黒曜石を積み上げたような鈍い光を放ち、空に向かって威圧的にそびえていた。
「ふふ、おふたりとも、お疲れでしょう。あと少しでございますよ」
そう微笑んだのは、フィノアだった。
リオスの侍従として常に寄り添う彼女は、今回の旅路でも寝食を共にしながら、常に静かに彼を見守ってきた。
一方、向かいに座るシエラの侍従――幻妖族のリリュア=フェイは、変わらぬ微笑を浮かべたまま黙している。
透けるような肌と淡紫の髪が、馬車の揺れにあわせてゆらりと揺れ、その姿はまるで幻のようだった。
(それにしても……長かった)
リオスは思わず、馬車の座面に沈み込むように身を倒した。
馬車とはいえ、硬い石の道を三日も移動すれば、腰も尻も悲鳴を上げる。
「おふたりとも、お疲れでしょう。明日の昼に生誕祭ですもの。準備のためにも、今夜はごゆっくりなさってくださいませ」
リリュアの声は柔らかく、どこか催眠じみた響きを帯びていた。
だがその裏で、視線だけはふと、外の街道の片隅に立つ子供たちへと向けられていた。
ほんの一瞬、微かにその眼差しが濡れたように揺れ――すぐに、何事もなかったように瞼を伏せる。
「……ふふ。王都は、やはり刺激が多そうですね」
リリュアの声に、誰も違和感を覚えなかった。
◇
王都マグナシヴィア――魔族の中心にして、全ての権威と魔力が集う都。
馬車が城門をくぐった瞬間、リオスは思わず目を見張った。
視界に飛び込んできたのは、色とりどりの建物と、人波。
まっすぐな石畳の通りを、様々な種族の魔族たちが行き交っている。
巨躯のオーガ、全身を鱗で覆った蜥蜴族、小柄なゴブリン……。
人間に近い姿をした者もいれば、明らかに異形の姿のまま歩く者もいる。
だが、誰も驚かない。ここでは、それが日常なのだ。
「……すごい。これが……王都……」
窓から身を乗り出すようにして、リオスは街並みに見入った。
建物は高く、曲線を活かした装飾が多い。
どこか魔力の流れを意識した構造なのだろう。
各所には魔導燈が据えられ、昼間でも淡い光を放っている。
シエラもまた、窓の外を見ながら小さく感嘆の息を漏らした。
「しばらくぶりではございますけれど……やはり王都は、どこか格別ですわね」
その横顔は、どこか懐かしげだった。
やがて馬車は幾つかの通りを抜け、やや静かな一角へと差し掛かる。
そこに建っていたのは、荘厳さと重厚さを兼ね備えた邸宅。
黒を基調とした石造りの外壁に、銀色の紋章が掲げられている。
――グリムボーン家の王都別邸だ。
馬車が緩やかに停止すると、まず扉が開けられ、フィノアが静かに降り立った。
続いて、リリュアが姿勢を崩さぬまま降車し、丁寧に一礼する。
そして、リオス。
「……ふぅっ」
息を整えてから馬車を降りた彼は、扉の横に立ち、軽く顎を上げると――
「シエラ、手、貸すよ」
小さく差し出された手。
その仕草はまだ幼さを残しているが、どこか毅然としていて、思わずフィノアが口元を緩める。
「……ありがと」
小さくつぶやきながら、シエラはそっとリオスの手を取った。
指先が触れた瞬間、その頬がふわりと朱に染まる。
馬車の床を慎重に一歩ずつ降りながら、スカートの裾を乱さぬように気を配る。
その間も、リオスの手はしっかりと添えられたまま。
わずかに揺れる車輪の余韻を踏み越え、ついに地面に両足が着く。
エスコートを終えたリオスが、ふと視線を周囲に向けた。
だが、そこにはもう一台あるはずの馬車――ルキフェル家のそれが見当たらない。
「……あれ? シエラの家の馬車は?」
小さく首を傾げながら問うリオスに、後方から穏やかな声がかかった。
声の主はセラだった。
すでに親世代の馬車は先に到着しており、門の奥からやわらかに歩み寄ってくる。
「リオス。こちらにいる間は、シエラちゃんはこの別邸でご一緒するのよ」
そう言ってから、彼女はひと呼吸おいて、少しだけ声を和らげた。
「婚約が決まったこともあるから――ね」
さらりとした口ぶりではあったが、その言葉に込められた意味は明白だった。
単なる宿泊の便宜ではない。
これは、対外的にも“ふたりの関係”を正式に示す処遇。
式典に集まる有力貴族たちへの、静かな――しかし明確な“宣言”でもあった。
「っ……!」
案の定、隣のシエラがぴくんと肩を震わせ、みるみるうちに顔を赤く染めていく。
「べ、べつに、私は……っ。……ご一緒でも、異存はありませんけど……っ」
早口に言い訳めいたことを口にしながら、スカートの裾をぎゅっと握る。
その姿は、誇り高き名門の令嬢というより、年頃の少女そのものだった。
その背を見送りながら、リオスは小さく首をかしげた。
「……なんか、怒った?」
「いえ、リオス様。あれは照れているのですわ」
隣で囁いたのはフィノアだった。淡く微笑むその声には、どこか含みのある温かさがあった。
「へえ……?」
腑に落ちないまま、リオスも彼女たちのあとを追って、別邸の中へと歩き出す。
その足取りには、まだ年相応の幼さと――ほんの少しだけ、誇らしげな気配が混じっていた。




