1:姉弟の剣、父のまなざし
朝の空気は、まだ肌を刺すように冷たかった。
夜露の残る石敷きの訓練場に、陽はまだ差し込んでいない。
だがその静寂を裂くように、小さな足音と気合の声が響く。
「――はっ!」
掛け声と同時に踏み込んだのは、一人の少年――リオス=グリムボーン。
5歳。痩身にして鍛えられた体を持ち、肌は雪のように白い。
握られているのは、魔族式の訓練剣――刃を潰した鉄製の模擬剣だった。
鍛錬は常に実戦を想定すべし。魔族社会では、それが当たり前だった。
踏み込みと同時に突き出された剣が、まっすぐ姉の胴を狙う。
その動きには、余計な力がまったくなかった。
力の向きや重心の移動もきちんと噛み合っていて、すでに“正しい型”の一端をなぞっていた。
だが、その一撃を銀の髪の少女があっさりと受け流す。
「惜しいわ、リオス。でも、踏み込みより目が先に動いてたわね」
淡く笑みを浮かべてそう言った少女の名は――リュシア=グリムボーン。
7歳。漆黒の美しい肌と、月光のように淡く輝く銀髪。
そして額に2つの角を持つ少女。
リオスの姉にして、名門の血を引く戦士の卵だった。
彼女の剣が滑るように返され、リオスの肩口に打ち込まれる。
「っ……!」
乾いた音が訓練場に響いた。体格差もあり、少年の体は尻もちをつく。
それでもリオスはすぐに立ち上がった。
「もう一本……お願いします、姉上……!」
額に汗をにじませながらも、目は折れていない。
この訓練は、日課。けれど、リオスにとってはいつも挑戦だった。
その様子を、訓練場の端でじっと見守る影があった。
黒く短い毛並みに覆われた身体。鋭く立った耳。しなやかで引き締まった体躯。
人の形をした獣のような老人――魔王軍の元戦術教官、ルグナー。
長く戦場に立ち、今は隠居の身。だがその目は衰えていない。
全身から漏れ出る静かな威圧は、いまなお猛者としての本能を伝えていた。
「……今日は、いつもより迷いがねぇな、坊」
誰に聞かせるでもない、かすれた声。
それは称賛でも、哀れみでもない。ただ、目に映ったものをそのまま言葉にしたような、重たい観察だった。
リオスは、再び踏み込む。
剣筋は鋭い。構えも崩れていない。
だがリュシアは、またも受け流す。
「はい、読んだわ」
流れるような反撃。剣を振るう隙間に滑り込ませた、肘の一撃。
リオスは体勢を崩し、地面を蹴って後退する。
次の瞬間、彼は――構えを崩した。
いや、崩したように見せた。
剣をやや下げ、視線を逸らし、気の抜けた動きを見せる。
そして、斜め上に剣を跳ね上げた。
鉄剣の先端が、ちょうど昇り始めた朝日を拾う。
鍛えられた剣の表面―何度も打ち込みを受け、鈍く輝く金属が、陽光を反射させた。
「……っ」
一瞬、リュシアが目を細める。
その隙を逃さず、リオスが踏み込む。
だが。
「甘いわ、リオス」
反射的な体捌き。光を遮ったまま、リュシアの肘が鋭く肩口に刺さった。
リオスの体が、よろめきながら砂利を踏む。
ルグナーが目を細める。
(……あの手を、思いついたか)
それは、戦場では当たり前に使われる“欺き”のひとつ。
だが、人間の国であれば――
「卑怯者」と罵られるだろう。
騎士道とやらを掲げる国では、陽光での目潰し、物陰からの奇襲、騙し討ちは美しくないとされる。
だが――
策に嵌る方が、未熟なのだ。
この国では、それが常識。
何を使おうが、勝ちに行く者こそが強者。
強さとは、ひとつではない。
筋力、速さ、魔力、技術、策、そして――状況。
すべてを用いて勝ちに行くのが、戦いというものだ。
坊――リオスは、力でも技でも姉に及ばぬことを知っている。
だからこそ、策で超えようとした。
そして、嬢――リュシアは、それを読み、さらにその上を取った。
老戦士の胸に、淡い誇らしさが灯る。
「坊……戦いを、知ってきたな」
そんな最中、鍛錬の場に、ひとつの影が現れた。
巨躯。黒き皮鎧のような肌に覆われたその体は、肩幅ひとつで並の男を圧倒する。
だが今日は鎧も得物もない。軍靴すら履いていない。
身にまとうのは、艶のない濃灰色の上着と、黒革の留め紐で締めた軽衣。
魔族貴族の私邸で着用される、簡素な礼服だった。
装飾はほとんどない。ただ、素材の良さと裁ちの美しさだけが、彼の地位を静かに物語っている。
その男がただ歩くだけで、、空気がわずかに震えるようだった。
バルトロメイ=グリムボーン。
魔王軍大魔将。かつて数多の戦場を圧倒し、いまなおその名は畏れと尊敬をもって語られる巨人。
今日は私邸の敷地で、鍛錬の様子を見に来ただけだ。
けれど、その威容には一切の隙がなかった。
彼は何も言わず、訓練場の端へと歩み寄る。
姉弟の真剣なやりとりに気づかれぬよう、静かに佇む。
剣を交わす音。砂利を踏む足音。空気に混じる、子どもらしからぬ気配。
「……お早いお成りで」
気配に気づいたルグナーが、小さく一礼した。
対するバルトロメイは、黙って二人を見つめたまま黙して応える。
「どうだ?」
低く、地の底から響くような声が落ちる。
ルグナーはすぐには答えなかった。
黙ったまま、もう一合分だけ姉弟のやりとりを見届ける。
リオスがまたも突き、リュシアが流し、返す。
剣筋に迷いはなく、受けも見事だ。
それを見届けたあとで、ようやく口を開いた。
「では、率直に。――二人とも、規格外でございます。」
バルトロメイの眉がわずかに上がる。
ルグナーは続ける。
「嬢の方は、もはや初等訓練の域を超えております。技に自信がある上で“崩し”を心得ておられる。肘や足を用い、相手の呼吸を見て動いている。あれは既に“型”の外です」
「ふむ」
「坊の方は、その逆。力でも技でも嬢に届かぬことを理解しながら、“策”で崩しにいっている。光、視線、足運び……手札が多い。子供の剣ではありません」
ルグナーの瞳が細くなる。
「二人とも、“我流”を生みかけている。鍛えただけでは、そうはなりませぬ」
数秒の静寂。
そして、バルトロメイの肩がふっと揺れた。
「……なるほどな」
大きな体を小さく揺らすように、バルトロメイは微笑を浮かべた。
「煽てても何も出んぞ?」
その声音には、隠しきれぬ上機嫌がにじんでいた。
そのまま、バルトロメイは腕を組んだまま、微動だにせず鍛錬を見つめる。
剣を交わし、駆け引きの応酬を続けるリオスとリュシア。
その幼さには不釣り合いなほどの集中と、鍛え上げられた技があった。
ルグナーはしばし口を閉ざし、しかしやがて小さく息を吐いた。
「……正直、驚いております」
「ほう?」
「このふたり、協力すれば――わたし相手に十回に一度は勝てますな」
バルトロメイの片眉がわずかに跳ね上がった。
「ほう。地獄の番犬が、弱気になったか」
冗談めかした声音。だが、ルグナーの顔に動揺はない。
「年の功で、少しは現実を直視するようになっただけです」
老獣人は肩をすくめ、どこか誇らしげに目を細めた。
「それにしても――漆黒の悪鬼が、父親の顔になられましたな」
沈黙。
バルトロメイはほんの一拍だけ間を置いてから、鼻を鳴らすように笑った。
「……ああ。否定はせん」
その声音には、珍しく柔らかな響きがあった。
そのときだった。
「――あっ、父上!」
突然、リュシアの声が明るさを帯びた。
その瞬間、リオスの動きが一瞬、止まる。
姉の視線を追うように、リオスも思わずそちらを見た。
そこに、隙が生まれた。
「――っ!」
鋭い打撃音が、訓練場に響き渡る。
リュシアの模擬剣が、リオスの額に正確に撃ち込まれていた。
「いてっ……!」
リオスは額を押さえ、後ずさる。
軽くではあるが、それでも痛みは確かにある。
「な、なにすんだよ……姉上!」
抗議の声が上がるが――
「ふふっ、よそ見する方が悪いわよ?」
リュシアは悪びれる様子もなく、さらりと答えた。
その顔には、少しばかり悪戯っぽい笑みが浮かんでいる。
彼女の視線の先には、やはり父――バルトロメイの姿があった。
その巨躯の男は、変わらぬ静寂をまとったまま、姉弟のやり取りを見つめている。
「…………」
リオスは額をさすりながら、姉と父とを見比べた。
やれやれと小さく息を吐きながらも、目の奥には悔しさと、それを糧にしようとする光が宿っていた。
そんな様子を、黙って見ていたバルトロメイが、ふいに隣へと目を向けた。
「――先ほどの評価、取り消すか?」
重く、低く、静かな声音だった。
問いかけられたルグナーは、肩をすくめて答える。
「……集中力が課題ですな。特に、嬉しいときほど隙が出るようで」
その言い方はどこか柔らかく、しかし本質を外してはいない。
「強さとは、心の揺れにも打ち勝つこと――その意味では、坊の未熟さもまた、年相応ということでしょう」
バルトロメイは無言のまま、再び訓練場へと視線を戻す。
わずかに口元が緩んだのは、照りつける朝陽のせいか、それとも――