18:信頼を殺す策
魔王城・軍務会議室。
壁に掛けられた王家の紋章旗の下、磨き上げられた黒曜の円卓を囲むのは、ヴァルゼルグ王国における軍務中枢――歴戦の大魔将たちである。
会議を主導するのは、グリムボーン家当主、バルトロメイ=グリムボーン。
その隣には、忠実な副官ルグナーが控えていた。
「……グリムボーン領およびルキフェル領では、件の罠を正式に禁制品とした」
バルトロメイの重々しい声が、静まり返った室内に響く。
「すでに王国法としても布告され、各地方の禁制令として順次通達が進んでいる。民間の流通経路もほぼ潰した」
ゼヴァドが補足する。
「それを受け、我らの交易国は追随。懸念のあった辺境部でも、流通停止は確認済みだ」
しかし、別の席から、小さく舌打ちに近い吐息が漏れた。
それは艶やかなワインレッドの髪を肩に流す、サキュバス族の大魔将――リリシア=ヴェルファーン。
美貌の中に冷徹な知性を宿す、魔王軍でも屈指の戦術家だ。
「……それでも、“あの国”だけは例外というわけね」
彼女は腕を組み、卓上の報告書を睨むように見下ろした。
「民間であれ軍用であれ、流通が止まらない限りは、またどこかで牙獣のような暴走が起こる。放っておけば、今度は都市部が襲われかねないわよ」
「商人の報告では、向こうの軍部がすでに大量購入しており、組織的な回収が困難だとのことだ」
ゼヴァドが冷静に続けた。
「おそらくは、“撤回したら責任問題になる”といったところだろうな。よくあることさ」
幹部たちは、報告書の端を指先で叩きながら唸る。
「こちらに押し付けてるつもりかも知れんぞ……厄介な話だ」
会議室に一拍の静寂が流れたのち、リリシアが再び口を開く。
「問題は、“意図があるかどうか”ではないわ。“結果としての被害”よ。
これ以上、魔獣が流れてきたら、現場はどうなると思ってるの?」
「すでに領地の警備網は見直しは進めているが……」
別の幹部が控えめに応じる。
「しかし、継続的に流入が起きれば、対応コストも跳ね上がる。最終的には戦力の分散につながるな」
「魔王陛下は、この件を外交問題とはせぬと仰せだ」
バルトロメイは短く、そして重く告げる。
「だからこそ、我らで答えを出さねばならん」
会議室に再び静けさが戻った。
ただ一つ、円卓の中心に置かれた地図の上で、魔獣の襲来地点が赤く示されている。
会議が一巡し、結論の出ぬまま膠着した空気が室内を支配していたとき――
「……実は、ひとつ草案がございます」
静かに口を開いたのは、グリムボーン家の副官、ルグナーだった。
「坊――リオス様より預かりました」
数名の幹部が思わず顔を見合わせた。
「坊――から?」
サキュバス族の大魔将リリシアが眉を上げる。
「こんな軍議に口を挟むとは、勇ましいことね。子供の浅知恵ではなくて?」
その言葉に、ルグナーは否定も肯定もしなかった。ただ、淡々と一枚の提案書を卓の中央へと差し出した。
「坊ご自身が書かれた案です。精緻な戦略とは言えませんが――しかし、着眼点は良いかと」
バルトロメイが手を伸ばし、文面に目を通す。
数行読むうちに、その眉がわずかに動いた。
「……“罠と同型の偽物を流通させる”……か」
幹部たちがざわめき始める。
「罠に似せた偽装品を市場にばら撒き、それが逆に魔獣を引き寄せる設計――つまり、“偽者が出回れば本物も信用を失い、全面使用不能になる”と……?」
「“敵の信頼を市場で殺す”……そんな発想、どこで覚えたのかしらね?」
リリシアが口元に手を当て、くすりと笑った。
「……馬鹿げている。だが――」
バルトロメイが、提案書の上を指でなぞる。
「“見分けがつかぬ設計”、か。確かに、本物に紛れ込ませれば、信頼性そのものが崩れる。技術と流通経路を確保できれば……」
「……実行できない話ではないね」
ゼヴァドが続ける。
「肝心なのは、魔国側が関与していないように見せること。闇市場経由で中立地帯に流し、そこから未規制国へ。
……出元さえ隠せば、やるだけの価値はある」
幹部たちは無言のまま指を組み、そのまま数拍、考え込むように沈黙した。
そして――
重い沈黙を破ったのは――リリシアだった。
サキュバス特有の艶やかさを湛えた瞳が、卓上の提案書に滑るように向けられる。
「……ふふ。子供にしては、ずいぶんと大胆な発想じゃない」
彼女はゆっくりと立ち上がり、くるりと腰をひねって自らの椅子を離れると、円卓を歩いてバルトロメイの隣へと近づいた。
「でもね――似たような魔物誘引機、もうあるのよ。軍用には向かないけれど、狩猟用に流通もしているわ」
リリシアは指先で空を撫でるようにしながら、甘く、艶やかに笑った。
「その“ガワ”を魔獣避け罠と同じに改造すれば、こっちが苦労して作らなくても済む。ね、賢いやり方でしょ?」
バルトロメイがちらと彼女を見た。
彼女はその視線を受け、意気揚々と続ける。
「流通も、闇市場なんてまどろっこしいことしなくていいわ。私の部下を通じて、魅了で正規ルートに潜り込ませる。顔も信用も手の内よ。人間の商人なんて、簡単に騙されるわ」
幹部たちの何人かが、わずかに目を見開いた。
だが、リリシアは意にも介さず、しなやかに片手をバルトロメイの肩に置いた。
「――ただし。私が実働リスクを負うなら、対価はもらわないと。成功した暁には、その“坊”の種をよこしなさい」
会議室に、一瞬の沈黙が走る。
その場にいた全員が、思わず視線を交わした。
――あのリリシアが、種を欲するとは。
彼女はこれまで幾度となく求愛を受けながらも、或いは数多の優秀な幹部候補とも子を成すことを選ばず、己の自由と立場を貫いてきた。
そのリリシアが、あえて“後継者”を望む発言をしたこと。
それは、単なる色気や冗談ではなく、彼女なりにリオスという存在を――あるいはその可能性を、評価した証だった。
リリシアは、皆の反応を楽しむように微笑んだが――
その表情の裏に、見過ごせない一瞬の本気が覗いた。
それを見逃さなかったのは、バルトロメイだった。
彼は彼女と目を合わせ、静かに問う。
「……本気か?」
その問いに、リリシアはほんの僅かにまぶたを伏せた。
その仕草は、軽口の裏に真意を隠すサキュバスらしいもの。
「ええ、もちろん。これだけの発想ができるなら、年齢なんて関係ないわ。才覚と血筋――その両方に惹かれるのよ。
……それに、ヤりたい盛りでしょう?」
挑発とも無邪気とも取れる声音に、周囲の幹部たちは言葉を失う。
だが、バルトロメイだけは静かに告げた。
「精通もまだだ」
バルトロメイは無表情のまま、淡々と告げた。
「時が来れば、考慮してもよい」
その瞬間、幹部たちの視線が一斉に彼に向けられた。
驚愕、動揺――さまざまな反応が混じり合う。
ただ、円卓の一角で腕を組んでいたゼヴァドだけは、目を伏せたまま、内心で静かに頷いていた。
(……そうなるよな)
思わず洩れそうになったその言葉を、彼は口にせず飲み込んだ。




