17:欠陥品
牙獣との戦闘から数日――。
バルトロメイの執務室には、魔族の重鎮たる者に相応しい沈黙と威厳が満ちていた。
重厚な机の上には、既に処理された報告書が山と積まれ、唯一未決の案件が、いま話題となっている。
「……以上が、現時点での調査結果となります」
グリードの声は冷静そのものだったが、その内にはわずかな困惑と懸念が混じっていた。
「討伐後、森を捜索しましたが、他に成体は発見されず。周辺領主への照会では、数件の類似事例が報告されています。ただし、いずれも詳細は曖昧で、確たる一致は確認できておりません」
バルトロメイは無言で頷いた。視線を地図に落としながら、わずかに額へ指を当てる。
「本来の生息域は、フォールム神聖王国領内……にもかかわらず、成体の牙獣が国境を越えて現れた」
「はい。ただし、現場に人為的な痕跡は見つかっておりません。魔力の攪乱も、自然発生の域を出ておらず……。謀略の可能性は、今のところ可能性止まりです」
その言葉に、傍らのルグナーが静かに目を細めた。
「その事で、少々気になる点がございます」
ルグナーは懐から一枚の紙を取り出し、机上へと置いた。
「リオス坊の報告書です。討伐後に、“記録も兼ねて、書いてみたい”と申されまして……。内容はごく簡潔ですが――」
一読したバルトロメイの口元がわずかにほころぶ。
「それなりに書けているな。将来は軍報書も任せられそうだ」
グリードは驚いたように目を見開いた。
「……ご年齢、5歳でいらっしゃいますよね?」
「そうだ」
そう答えたバルトロメイの声には、ほんの少しの誇らしさがにじんでいた。
「この報告書の一節に、こうある。“あの獣は、何かに怒っていた。怒りで動いていたように見えた”と」
ルグナーが視線を動かす。
「……五歳にして、その観察眼とは」
「獣の様子を見て、違和感を覚えたのは私も同じです。確かに、偶発的に迷い込んだにしては――妙に攻撃的だった」
「怒りを煽られたか、誘導されたか。いずれにせよ、我らが口を出すのは、証が揃ってからにすべきだ」
バルトロメイは重く、深く、そう結論づけた。
「魔王陛下には報告無用。調査は続行だ」
「承知」
グリードが背筋を正す。その傍ら、ルグナーは黙して頷いた。
「……それにしても、5歳で報告書ですか。将来が楽しみですな」
バルトロメイの瞳が、わずかに細められた。
「我が息子だ。驚くには及ばん」
◇
バルトロメイ邸の応接間には、色とりどりの風呂敷が広がり、家族と商人とが一堂に会する賑やかな空気が漂っていた。
「さてさて、軍用の補給品はこれで一通り。傷薬はこの樽ふたつに、乾燥草は予備含めて三束。瓶詰めの保存薬も加えて、いっちょ締めまっせ旦那様」
陽気に帳簿を指で弾くのは、グリムボーン家御用商人――ドラン。
人間の仮面を被ったライカンスロープであり、その口調は辺境の訛りがある。
「ふむ。遠征任務の準備に入る。保存性が高いなら、量を増やしておけ」
バルトロメイが短く命じると、傍らの侍女たちが黙って頷き、控室へと向かっていく。
「して、家族の方は?」
ドランが手帳をめくると、メルヴィラが静かに進み出た。
「頼んでいた香油は?」
「おまかせくだされ奥さま! こちら、南海の果実を低温蒸留して仕上げたものでしてな、気品の中にほんのり甘み。おやすみ前にもぴったりでっせ」
「……ふふ、たしかに上品な香りね。肌にもよさそう」
試香瓶の香りを確かめたメルヴィラは、柔らかく微笑みつつ問いかける。
「……セラの分も持ってきていただけたかしら?」
その後ろから、もうひとり、すらりとした女性が進み出る。
バルトロメイの妾――セラ。
その落ち着いた物腰に、ドランも手帳を改めて確認する。
「おおっと、もちろんですとも奥さま二号。あんさんには、こっちのがええかと思いましてな」
彼は小さな瓶を二つ並べ、片方をそっと差し出した。
「北の花から抽出した香油でして、香りはどっちかいうと透き通る系。甘さ控えめ、芯があって、でも後を引きまっせ。ちょいと儚げで……ほれ、あんさんにぴったりや思うて」
「……失礼ね。儚い、なんて」
セラはわずかに目を細めたが、その口元には苦笑が浮かんでいた。
香油の蓋を開けて、そっと香りを嗅ぐ。
「……でも、気に入ったわ。私の肌にも合いそう」
「してやったり、ですなぁ」
ドランが冗談めかして胸を張ると、リュシアが割り込むように声を上げた。
「私の分は、前と同じ整髪用の香油。訓練後でも崩れにくいやつね」
「へいへい姉御。今回は、樹脂の比率をちぃと調整してまっさかい、より汗に強うなっとります。髪のまとまりも前よりキマるはずでっせ」
さらに、リオスが棚のほうで手にしていたつけペンをドランに見せる。
「これ、使ってもいい? 前に使ったのより、すごく書きやすそう」
「さすが若旦那、見る目がありまんな! エルフ職人が削った逸品でっせ。どんな紙でも引っかからん、ようできた一本でっせ」
こうして、家族それぞれの注文が整い、帳簿に品目が書き込まれていく。
バルトロメイは、それぞれの選択を黙って見届けていた。
ひととおりの商談が終わり、帳簿に家族全員の購入記録が記されていく中、ドランはおもむろに風呂敷の奥から黒塗りの小箱を取り出した。
「……ほんでな旦那様。これが今回の目玉商品でして」
箱の蓋を開けると、中には金属と魔石を複雑に組み合わせた、手のひら大の機械仕掛けが鎮座していた。
「見た目はちょいと無骨でっけど、こやつが今、向こうの国で大ヒット中の魔獣避け罠でしてな。魔力に反応して、周囲に痛覚刺激を与える波を出しまんねん。ま、魔獣にとってはたまらん代物でして」
「痛覚刺激、だと……?」
バルトロメイがわずかに眉をひそめる。
「せやけど攻撃っちゅうより、忌避。魔獣は音や振動で錯乱して、逃げていくわけでんな。あくまで非殺傷、非接触。街道防衛や畑の防獣にもってこい、てなもんで」
ドランは言いながら、小さな試験魔石を装着して、装置を軽く振った。わずかな共鳴音が、部屋の空気を微かに震わせる。
そのとき――
「……っ、待って。今の、それ……!」
リオスが声を上げた。
全員の視線が彼に向く。
「牙獣……あの時、怒ってた。痛みじゃなくて、もっとこう……何かに向かって突っ込んでいく感じで……。あいつ、こういうの……受けてたんじゃない?」
バルトロメイの眼光が鋭くなる。
拳を組んだまま、低く唸るように問うた。
「……この罠。どこまで出回っている?」
ドランは、一瞬だけ笑みを引っ込めたが、すぐに飄々とした調子で答える。
「ん~……正確な国名は申せませんけどな、北方方面でも需要が増えとるようでして。とある軍関係の方が大量購入されたっちゅう話も、ちらっと耳に……」
その言葉の曖昧さを咎めることはなかった。
バルトロメイは黙考し、そして低く呟く。
「……もしや、それが――フォールムで使われてはいないか?」
その名が出た瞬間、部屋の空気が静かに張り詰めた。
ドランは目を伏せて肩をすくめ、こう続けた。
「……おおっぴらには言えまへんけども、国境近くで似たような騒ぎが何度か起こっとる、ちゅう報せは、耳にしてますわ」
そう言ったドランの声音が、ふと、先ほどまでの軽快さを失った。
続ける言葉には、商人としての本音が滲む。
「……正直な話、こんな真似をするつもりはありまへんでした。試すようなことして、すんまへん」
彼は頭を下げた。だが、語調は静かに、強かった。
「けどな――わてはグリムボーン家の旦那様なら、これの危なさをちゃんと分かってくれると思いましてな。あえて見せたんですわ」
机上の罠を、彼は睨むように見つめた。
「この手の欠陥品が、あっちこっちに出回ってしもたら……何がどこから出てくるか分からんようになる。魔獣やら異種やらが、訳も分からんままに暴れ出す。そんなんなったら、わてら商人、命懸けで荷車引く羽目になりますわ」
少し苦笑を浮かべて、視線を上げる。
「せやから――魔国では、これの持ち込みと使用を、なんとか禁制品にしてもらえまへんか? 旦那様とこからお達しが出りゃ、他の領主も従うはずですやろ」
そして、少しだけ間を置いてから、もう一言。
「できれば、あっちの国にも……ちぃと圧力かけてくれたら、助かりまっせ」
その言葉には、皮肉でも利権でもなく、信用があった。
目の前にいるのが、魔族国家の大魔将であり、同時に、自分を御用商人として迎えてくれる取引相手だからこそ、口にできた真情だった。




