15:本物の戦い
森が、鳴った。
風ではない。葉擦れでも、木の軋みでもない。
何かがそこにいることで、生き物すべてが逃げ去った空白の音――
空間そのものが、音を押し出すように、低く唸った。
そして、次の瞬間。
濃い茂みの奥、斜面を蹴り崩すように、それは現れた。
「……っ、でか……!」
最前列の新兵が思わず声を漏らす。
だが誰も、それを咎めなかった。いや――口を開いた者すら、その巨大さに呑まれていた。
牙獣――成体。
体長は三メートルを超え、肩までの高さですら人の胸をゆうに越えていた。
その躯体は、岩のように硬質で、灰黒色の体毛に覆われている。
胴の側面には、過去の戦いでついたと見られる古傷が無数に刻まれ、
そのひとつひとつが、ただの獣ではない歴戦の凶獣であることを雄弁に語っていた。
だが、最も目を引いたのは――その目だった。
野生の獣にしては異様に澄んだ双眸。
その奥に宿るのは、ただの怒りではない。
明確な敵意と、理性に似た意志が、そこにあった。
「――気をつけろ! あれは……ただの牙獣じゃない!」
グリードの警告が飛ぶ。
スクローファは咆哮しない。威嚇しない。
ただ一歩、地を踏み――音もなく空気が震えた。
土が爆ぜ、石がめり込む。
足の重みが地面を圧して沈ませ、周囲の草が根こそぎ跳ね上がった。
それだけで、新兵たちの喉が粟立つ。
リオスはその様子を見つめながら、かすかに呟いた。
「……動きが、直線じゃない。頭がいい。……避けて、回り込む気だ」
咆哮は、なかった。
ただ、風が、動いた。
スクローファが、音もなく疾走する。
その巨体が森の茂みを薙ぎ払い、地面を滑るように前へ――否、横へ踏み出した。
正面から来ると誰もが思った。
だが獣は、左前衛の死角を突いて、弧を描くように回り込む軌道を取った。
そのとき。
「来るぞ、左! 構えろ、下がれ!」
前衛のひとりが、声を張り上げる。
左列が即座に反応し、陣形を崩さずに後方へ滑る。
巨獣の脚が地を打ち鳴らし、地面がえぐれるも、誰ひとり巻き込まれなかった。
回避成功。
獣の突撃は、虚空を切った。
グリードが目を見開く。
「……見えていた、のか?」
目の前の隊列が、そのまま乱れることなく体勢を整えていく様子に、グリードは静かに息を吐いた。
あの動き――普通は咄嗟に反応できるものではない。
だが。
先ほど、リオスが呟いたひとこと――「回り込む気だ」。
それが、教官の檄よりも深く、新兵たちの脳裏に刻まれていた。
だからこそ、対応できたのだ。
スクローファは、止まらなかった。
その巨体が、吶喊することなく、左右に揺れるように動き出す。
まるで様子を伺うような、獣らしからぬ間合いの計り方。
それはまるで――剣士の足運びに似ていた。
「……読んでる。こっちの配置を」
グリードが低く唸る。
牙獣はただの突撃兵器ではなかった。
新兵たちの動線、隙、魔力支援のタイミングまでを観察し、意図的に空振りを繰り返して“間”を作っている。
そして――動いた。
スクローファが地を蹴る。だが、今度は突進ではない。
前脚で地面を抉り、砂塵を舞い上げる。
巻き上がった粉塵が視界を奪い、魔力散布を妨げる。
その隙に、死角から一気に一兵へと迫る!
「避けろ――ッ!」
間一髪、後衛からの警告が届き、兵は転がるように地を離れる。
その直後、巨体がかすめた地面が抉れ、土煙が吹き飛んだ。
だが――兵は、立ち上がった。
震えていた膝を無理やりに支え、咄嗟に仲間の背後へまわる。
連携が、わずかに、だが確かに整っていく。
(……動けている。あの程度の動揺で崩れていない)
グリードが、驚きと共に歯を噛み締めた。
「よく見ているな。……坊ちゃまたちに見られている意識か?」
指導で教えたこと以上に、今日の彼らは反応が速い。
指示より早く動き、仲間を助け、声を出し、下がらない。
成長――その言葉では軽すぎる、目の色が違うという実感があった。
その中にあって、なおスクローファは動じない。
次は、跳躍した。
後脚に溜めた筋力を爆発させ、前方の木の根を超えて大きく飛び上がる。
重い巨体が信じられない速さで宙を切り――前衛の中央へ、真上から落ちかかる!
巨体が落ちる。
地を揺らし、風を裂き、空気そのものが震えるような衝撃。
ドン――!
前衛中央に激突したスクローファの着地は、もはや突撃というより砲撃だった。
地面が抉れ、爆ぜた土塊が周囲に降り注ぐ。
視界が白く濁ったその瞬間――
「っ!」
リオスは咄嗟に身を低くし、吹き飛んできた石片を避けた。
とっさに左右を見やるも、姉の姿は見えない。ルグナーの声も聞こえない。
(……分断された)
落下の衝撃と混乱で、彼らと違う方向に避難してしまったのだ。
あまりにも一瞬のことで、戻るには遅すぎる。
視界の端――前衛の二名が吹き飛び、崩れ落ちているのが見える。
その隙間を縫うように、スクローファの巨体が身をひねり、次の獲物を探している。
そこで、リオスの視線は、ひとりの兵士に釘付けになった。
(あれは……さっきの新兵)
左袖に泥がつき、額には大粒の汗。
呼吸が浅く、足取りが他の兵士より明らかに重い。
(あの時……僕が声をかけなければ、あの人は腕立てをさせられず、今ほど疲れてはいなかったかもしれない)
罪悪感が、喉を焼く。
リオスは歯を食いしばり、スクローファの動きを追った。
――魔獣が、その兵に向けて脚を踏み出す。
横合いから襲いかかろうとするその軌道。
誰も止められない。今、リオスの近くにいる者は誰もいない。
リュシアも、ルグナーも、視界の遥か向こう。
(だったら――僕がやる)
剣を握りしめる。実剣の重みが、掌の皮膚を割くほどの痛みで現実感を刻んでくる。
だが、それでも。
「こっちだっ……バケモノ!!」
リオスが、飛び出した。
獣の目が、反応した。
まっすぐこちらに、魔力の圧が向けられる――




