13:朝靄の先に、命の気配
朝靄が、冷たい湿り気とともに地面を這っていた。広場はまだ薄暗く、ひんやりとした空気が肌を刺す。
広場に整列するのは、グリムボーン家に仕官したばかりの新人領兵たち。
真新しい革鎧と鉄の籠手に身を包み、誰もが背筋を伸ばして静かに指示を待っていた。
その前に立つ男は、一見してただ者ではない風格を放っていた。
無駄なく鍛え抜かれた体躯。引き締まった顎と、風に逆らうような短髪。
そして、光を捉えるたびに獣のように鋭く輝く双眸。
三十代半ば――年若いとはいえ、その一挙手一投足には、古兵の貫禄すら漂っていた。
男の名はグリード。
かつて“地獄の番犬”と恐れられた老将、ルグナーの実子にして、若かりし日の父に瓜二つと評される現役の訓練教官である。
「……よし、全員、耳をかっぽじって聞け!」
張りのある怒声が、静まり返った広場に響き渡った。
その声に、兵士たちの背筋がさらに伸びるのが見て取れる。
「本日の訓練は、実地演習だ。索敵、追跡、囲い込み、討伐――本物の魔獣相手にやってもらう。
俺たち教官は補助に回るが、主役はお前たちだ。……肝に銘じろ」
言葉に無駄はない。鋭く、しかし過度な感情を交えずに放たれる一語一語が、兵士たちの緊張を芯から引き締めていく。
彼らの表情には、覚悟の色が濃く浮かんでいた。
そして、グリードは一拍置いてから声を張り上げた。
「そして今回は特例がある。――グリムボーン家のお子様方、リュシア様とリオス坊ちゃまが見学兼参加なさる!」
ざわめきはなかった。だが、兵たちの目が一瞬、横に逸れた。
その視線の先に、微かな動揺が見て取れる。
そこには、荷車の脇で準備を進める二人の子供がいた。
姉――リュシアはまだ七歳に過ぎぬが、訓練経験者としての落ち着きを纏っていた。その小さな体には、すでに歴戦の兵のような雰囲気が漂う。
弟――リオスは五歳。今日が初の実地参加となる。
「――特に、リオス坊ちゃまは初参加だ」
グリードはゆっくりと列の全員を見回す。
その瞳は冷たいようで、どこか試すようでもあった。兵士一人ひとりの覚悟を値踏みするかのように。
「いいか、貴様ら。領主の御子息に、みっともない姿を見せるな。
敵に殺される前に――俺がぶっ倒すぞ!」
地を叩くような叫びに、兵士たちは一斉に拳を握った。
その顔には、恐怖ではなく、むしろ闘志が宿る。
威圧だけでなく、静かな信頼がそこにあった。
列のざわめきが再び静まったころ。
その少し離れた木陰では、ルグナーが荷車に背を預けるように立ち、姉弟二人の前に立っていた。
「……最終確認をいたしますぞ」
相変わらず、感情を排した声音。だが、その一言だけで空気がわずかに引き締まるのが分かった。
リオスはきゅっと背筋を伸ばした。
リュシアも腕を組んだまま、無言で頷く。
「本日のそなたらの役割は、訓練の体験に留まります。
魔獣が現れた場合、対処にあたるのは新兵たち。……そなたらはあくまで“護衛対象”であることを忘れてはなりませぬ」
その言葉に、リオスが小さく目を伏せ、腰の剣にそっと手を触れた。
その指先が、柄の冷たい感触を確かめる。
そこにあるのは、訓練用の剣ではない。刃を帯びた、本物の実剣だった。
「今日、そなたらが携えるは実剣。訓練用の模造ではありませぬ。
手にすれば――命の重さが、否応なく伝わってくるでありましょう。
……扱いには、くれぐれも、注意を」
淡々とした口調のなかに、ごく微かな重みが宿っていた。
その言葉は、まるで鋼のように、リオスの心にずしりと響く。
それは、戦場を幾たびも歩いた男にしか持ち得ぬ、命を預かる者の声だった。
だが、その忠告に対し、リュシアは唇の端をわずかに吊り上げた。
「……でも、魔獣がこっちに来たら、斃してもいいんでしょう?
自衛は、護衛対象の義務だと思うんだけど?」
軽口のように聞こえるその声には、過去の記憶――前回、暴走寸前だった件への自覚も滲んでいる。
その瞳の奥には、かすかな好戦的な光が宿っていた。
ルグナーは一拍置き、ゆるく眉を動かした。
「……ええ。やむを得ぬ状況であれば、自衛としての対応は許容します。
ただし――」
そこで、ほんの僅かに口元が緩む。
「――そんな事態になったら、新兵たちは……実に気の毒なことになりますな。
魔獣よりも恐ろしいものを、その目で見ることになりますゆえ」
リオスは思わず姉を見た。
リュシアは、涼しい顔で髪を一振りしてから、悪戯っぽく言った。
「ふふ、じゃあ――なるべく斃さないように頑張るわね」
「……なるべく、ではありますがな」
そのやりとりに、リオスの緊張も少しだけ和らいだ。
だが、腰の実剣に触れる指先には、やはりいつもとは違う汗が滲んでいた。
剣の冷たい柄が、その湿り気を吸い取るように感じられた。
◇
訓練部隊は、朝露に濡れた草原を抜け、森の入口へと向かっていた。
踏みしめられる草の音が、静かな行進を刻む。
列の先頭には実戦教官が二名。その後ろに新兵たちが、間隔を保ちつつ整然と続く。
彼らの足音は揃い、訓練された兵士の規律を示していた。
リュシアとリオスは列の中央やや後ろ、護衛兵の内側に位置づけられていた。
リオスは腰に実剣、手には簡易地図を折りたたんで持っている。
指の腹に紙のわずかなざらつきを感じる。
リュシアは既に動きやすい姿勢をとっており、周囲の警戒を怠らない。
彼女の視線は鋭く、森の木々の隙間を縫うように動いていた。
ルグナーは一切口を出さず、列の最後方から目だけで全体を見渡していた。
その視線は、全てを見通すかのように深かった。
(……静かだ。でも、何かいる)
リオスは、森の奥に向かうたび、胸の奥がわずかにざわつくのを感じていた。
心臓の鼓動が、普段よりも少しだけ速い。
数分後、列が足を止めた。
先頭の教官が片膝をつき、地面を指差す。
「ここから先は実地だ。まずは索敵。――獣の痕跡を探せ」
合図に従い、兵たちが左右に分かれて、木々の間を探り始める。
乾いた葉が踏まれる音、枝を払う音、控えめな声での報告――森の奥から聞こえてくるそれらの音が、訓練の始まりを告げていた。
リオスは目を細めて、視線を地面へと落とした。木漏れ日が、足元の土のわずかな起伏を照らし出す。
「……あれ、見て」
リュシアが、倒木の脇を指差す。
そこには、湿った土に残る、蹄のような痕跡。
泥のわずかな光沢が、新しいことを物語っている。
「四本足、丸みのある爪。――蹄系。多分、牙獣」
「しかも、これは……新しい。雨の跡が入ってない」
リオスは小さく答え、しゃがみ込んだ。手をかざし、土の窪みをなぞるように追う。
指先で、痕跡の縁をそっと確かめる。
(深さが……前後で違う。前脚の方が、重い?)
近くに居る新兵もその痕跡を見て呟く。
「重心が前に偏ってるな。突進型かも。……これは――」
そのとき、前方の木陰から、教官の声が響いた。
「そっちの班、何かあったか!」
姉弟の傍らにいた若い兵が声を上げる。
「蹄の痕跡! しかも――比較的新しいものです!」
報告を聞いた教官が即座に判断を下す。
「全員、接近戦の構えに移行。追跡を再開する! 慎重に動け!」
緊張が空気を刺すように走る。張り詰めた空気が、リオスの呼吸を浅くする。
リオスは喉がごくりと鳴るのを感じた。
初めて味わう、命の気配の中――
彼は、剣の柄に、無意識に手を伸ばしていた。手のひらが、硬い柄に吸い付くように感じられた。




