酒場に巣くう闇
ひんやりとした夕風が、石畳の隙間から滑るように這い上がってくる。
暮れかけた空は、連なる商業区の屋根の向こうで、血が滲んだような鈍い橙色へと溶け落ちていた。
軒先に吊るされた提灯が、一つ、また一つと黄ばんだ明かりを灯し始める。
その喧騒の通りを、3人の影が並んで歩を這わせていた。
「ルーシー。あの男を、どこに向かわせたの?」
歩調を緩めることなく、ふと、リュシアが小首を傾げて尋ねる。
「あやつ、戦闘は苦手だと言うておったからのう。お使いに出してやった」
「お使い?」
予想外のルーシーの答えに、リュシアの形の良い眉がぴくりと上がる。
「酒場への殴り込みに、戦の下手な者を連れて行っても足手まといじゃ。
……それに、あやつにしかできんこともある」
ルーシーは、短く間を置いた。
カツ、と固い靴音を響かせ、その場に足を止める。
吸い込まれるような真紅の瞳が、瞬き一つせず薄暗い路地の奥へと向けられた。
「ラカッフェを逮捕する人員を、呼びに行かせた。あとは、正規の手続きもじゃな」
「……なるほど」
「言っておくが」
影を落としたルーシーの視線が、傍らのリュシアへと滑る。
その声音が、普段よりも一段だけ低く沈み込んだ。
「相手を殺してはならんぞ」
「わかってるわよ」
リュシアが、フン、と小さく鼻を鳴らす。
「まあ、ずいぶんお冠だったから、殺っちゃうのかと思ったけど」
通りに響いたのは、からかいの色が混じった声だ。
「お主じゃあるまいに」
ルーシーが、やれやれと深い呆れを隠さずに言葉を返す。
「ちゃんと手続きは守る。……じゃが、それはそれとして」
彼女の小さな口の端が、弧を描いて吊り上がる。
「お仕置きはせねばならぬからな」
紡がれたその物騒な言葉が、夜の帳が下りる夕闇の奥底へと溶けてゆく。
背後に控えるリオスも言葉を発さず、ただ前方を見据えていた。
◇
華やかな喧騒から遠く離れた商業区の外れに、その陰鬱な酒場は佇んでいた。
客を引くための看板すら出されていない。
淀んだ空気が満ちる店の中。
一番奥の薄暗いテーブルに、1人の男がどっかりと腰を下ろしている。
指先が、酒の入った杯の縁を舐めるように緩やかに撫でていた。
顔の半分を覆う豊かな顎鬚は、丁寧に整えられている。
丸太のようにがっしりとした体躯が、粗末な木の椅子を軋ませていた。
男――ラカッフェが、重い口をゆっくりと開く。
「フェリックスが、例の件で何やら嗅ぎまわっているようだが」
テーブルを挟んで直立していた男が、床板を踏み鳴らして一歩前へ進み出た。
身に纏うのは、使い込まれた革の鎧。
露出した太い腕には、無数の生々しい傷跡が刻まれている。
その背後にも、血の匂いを染み込ませたような似た雰囲気の者たちが数人。
彼らは一様に、太い腕を組んで無言のまま立っていた。
度重なる素行不良で解雇された、ならず者の元衛兵たちである。
「あの男、幼年学校の子供を疑っているようです」
革鎧の男が、喉の奥を鳴らすように低く告げる。
(……子供?)
縁を撫でていたラカッフェの指先が、一瞬だけピタリと止まった。
脂ぎった空間に、数秒の息詰まるような沈黙が降りる。
数秒ののち、彼は溜め込んでいた空気を吐き出すように短く息を漏らした。
「ああ、あの子供か」
脳裏をよぎるのは、いつかの商業区の出来事。
薬屋の店先で、体格で勝るチンピラをたった1人で叩き伏せていた光景だ。
息一つ乱していなかった、あの黒髪の少年の無表情な顔が浮かび上がる。
ラカッフェは首を振り、その記憶をすぐに頭の片隅へと追い払った。
所詮は、ただの幼い子供だ。気にかける価値もない。
「それにしても」
ラカッフェは木製のテーブルにドンと杯を置く。
太い指を、胸の前で深く組み合わせた。
「軽薄男が功績欲しさに嗅ぎまわっているのだろうが、見当違いもいいところだな」
濁った喉の奥で、ククッ、と獲物を嘲るような低い笑い声を漏らす。
「だが万が一、真相に迫るような真似をするなら」
次の瞬間、顔に張りついていた卑劣な笑みが拭い去られた。
「命はない。その点は、運がいいと言ってやる。――今のところは、な」
主の言葉に、周囲を取り囲んでいた元衛兵の男たちが、無言のまま互いに鋭い視線を交わし合う。
「それより」
ラカッフェの濁った眼球が、ギロリと動く。
今度は、部屋の端で縮こまるように固まっている別の男たちへと向けられた。
「幼年学校の子供に伸された役立たずなど、塵だ」
突き刺さるような非難の言葉に、部屋の端にいた男たちの肩が一斉にビクンと跳ね、大きく竦んだ。
「ラカッフェ様、それは……」
「黙れ」
言葉を遮るラカッフェの声は、ひどく平坦な響きを保っていた。
激昂するでもなく、平坦に。
その感情の読めなさが、男たちの内臓を直接押し潰すほどに重くのしかかる。
「ただし」
ラカッフェはテーブルの上の杯を再び手に取る。
たっぷりと蓄えられた髭をかき分け、杯を口元へと運んだ。
「あのアクシデントのおかげで、計画が前倒しになったことも事実だ」
不意に生じた保釈金の収支を、イゼベルの横領に見せかける。
ラカッフェは、それを己の才覚が弾き出した会心の策だと自負していた。
傾けられた杯の中で、琥珀色の酒がちゃぷりと揺れる。
「私は寛大な男でね。それを功績と考えて、まだ飼っておいてやろう」
処刑宣告を免れた男たちの体から、張り詰めていた緊張が泥のように抜け落ちていく。
強張っていた肩の力が、目に見えてゆっくりと下りていった。
「もしも、秘密を漏らすようであれば」
ラカッフェの暗い瞳が、暗闇に沈む部屋の隅をスッと一瞥する。
視線の先には、壁の染み以外、何一つ存在しない。
視線の先に本来いるはずだった者がどうなったか。
「アレのように命はないと思え」
威圧感に飲まれ、誰一人の喉からも声は発せられなかった。
ただ、荒い息遣いが部屋に満ちる。
そこへ、入り口近くの壁際に長身を預け、腕を組んでいた人物が感情を交えずに口を開いた。
「それより、一つ聞かせてもらえるか」
頭部には、デーモン族特有の、捻じ曲がったヤギのような黒い角が生えている。
もみあげを短く刈り揃えた鋭利な顎のライン。
光を反射しない昏い眼差しが、瞬きもせずにラカッフェへ向けられている。
以前は軍属魔術師だった男。
名を、バウルという。
彼もまた、とある理由によって正規の軍から解雇された、はぐれ者の一人であった。
「どうやって印を押させた」
話題に上ったのは、偽造書類の所長印の話である。
魔力登録され、正規の書類に押印されるそれは、偽造は実質的に不可能だ。
本人にしか捺印できない仕組みである以上、盗み出しても全く意味がない。
ならば、隙を突いて所長本人を騙し、直接捺印させる他ない。
どのように騙してのけたのか。
バウルは、その手口を問い質しているのだ。
「ああ、その事とか」
ラカッフェは自慢げに顎鬚をじゃり、と撫でた。
「アレは、急ぎと言えば何でも押す。造作もないことだ」
「……そうか」
「むしろ筆跡を真似る方が、手間がかかったくらいでね」
バウルは呆れたように、フ、と短く笑った。
感情の篭もっていない、枯葉を踏み砕くような乾いた笑い声だ。
「愚かなものだな」
バウルが、一拍置く。
「おっと、姉君だったな。失礼」
微塵も申し訳なさそうにない形ばかりの詫びを口にし、バウルは大げさに肩をすくめてみせた。
「フン」
ラカッフェの太い鼻から、不機嫌な息が鳴る。
男は空になった杯の底へ暗い目を落とし、呪詛のように低く呟いた。
「アレは我が家の汚点だ」
怒号よりもはるかにどす黒い、憎悪の言葉だった。
(……俺こそが、フェルスバルト家の次の当主に相応しい)
幼い頃から、その強烈な自負を胸に抱き続けて、男は今日まで生きてきた。
「オヤジ殿は慣習に従ってアレを後継者にしようとしている」
指の爪の先が、コツ、コツと苛立たしげにテーブルの木目を叩く。
「いずれ、この手で分からせてやる」
怒りに歪む顔の中で、蛇のように目が細められた。
「俺を正当に評価しない軍務局も、あの老耄も、そのうち」
空の杯を握りしめる指に、ミシミシと過剰な力が込められる。
「大魔将の座から見下ろし、泥に這いつくばって許しを乞う様を嗤ってやる」
男の野望の熱に当てられたように、酒場の中に重苦しい静寂が数秒間だけ続いた。
直後、入り口の分厚い木扉が、蹴り破られるように乱暴に開け放たれた。
夜風と共に、外で見張りに立たせていた下っ端の男が、肩で息を荒らげながら転がり込んでくる。
「た、大変です、ラカッフェ様!」
「騒がしい。何があった」
雰囲気をぶち壊されたラカッフェが、不快げに太い眉をひそめた。
「襲撃です! 外が、外がやばいっ!」
「何?」
「め、めっぽう強い子供が、ラカッフェ様を出せと騒いで……!」
子供、という単語に、ラカッフェの髭に埋もれた口元がピクリと引きつる。
「子供?」
先ほど追い払ったはずの、あの記憶の中の顔が、再び脳裏に浮かび上がる。
闇に溶けるような、黒髪の、小さな。
胸をよぎった正体不明の悪寒を、ラカッフェは強引に顎を振って振り払った。
「追い返せ。子供の相手など、しておる暇はない」
「で、でも、仲間が何人も……!」
「追い返せと言っている」
殺意の混じった低い声に完全に圧迫され、下っ端の男が怯えたように入り口へと引き返そうと身を翻す。
直後。
分厚い樫の木の扉が、まるで爆発でも起きたかのように内側へと吹き飛んだ。
鉄の蝶番ごと引きちぎられた巨大な木塊が、轟音を立てて店の奥の壁際まで叩きつけられる。
粉々に砕け散った木の破片が床一面に散乱し、巻き上げられた土埃が白い煙のように視界を塞いだ。
もうもうと舞い散る粉塵の向こう。
夜の闇を背負うようにして、3つの影が立っていた。
月光を弾く漆黒の肌と、流れるような銀の髪。
夜気よりも滑らかな褐色の肌と、血に飢えたように輝く真紅の瞳。
そして。
雪のように白い肌に、全てを飲み込むような深い黒い瞳を持った小柄な少年が。
破壊された入り口の敷居を跨ぎ、3人は並んで酒場の中を見据えていた。




