鉄格子越しの真実
廊下に立っていた係官は、扉が開いた音に反射的に顔を上げた。
目の前に、フェリックスがいた。
「殺人事件の関連で、イゼベル所長への追加の証言確認が必要になった」
低く、凄みのある声だった。
張り詰めた空気をまとい、有無を言わせない響きがあった。
係官の喉が、音もなく動いた。
「あ、あの……収監中の方への面会は、原則でありまして――」
禿げかけた係官が、規則を盾に視線を逸らした。
「横領の件ではない。数日前の殺人事件についてだ」
フェリックスは言葉を被せた。
「所長に関する新たな証言が出た。今のうちに裏付けを取らなければ、調書に致命的な齟齬が出る」
口から出まかせだった。
係官の肩が、びくりと跳ね、喉仏が上下に動く。
乾いた唾液を飲み込む音が、不自然に響いた。
「……わかりました。ご案内します」
係官は鍵の束を取り出し、重い腰を上げた。
◇
一行は、係官の背中を追って奥の扉をくぐった。
石造りの廊下は、地下特有の冷気と湿気に満ちている。それでも、不思議と不快感はない。
貴族用の牢ともなれば、それなりの配慮があるようだった。
等間隔に配置された燭台の炎が、チロチロと頼りなく揺れている。
炎が揺らぐたび、壁に落ちた一行の影が不気味に伸び縮みした。
カツ、カツ、と。
硬い靴音が、石床に乱反射する。
「……ぁ、っ」
ふいに、奥の暗がりから声が漏れた。
フェリックスの足が止まる。
リオスも喉を強張らせた。
「んっ……あ……っ」
女の呻き声だった。
苦痛に耐えているような声。
フェリックスの顔色が変わった。
血の気が引き、額に青筋が浮かぶ。
「イゼベル……!」
フェリックスが地を蹴った。
革靴が石床を叩き、猛烈な速度で廊下を駆け抜ける。
「おい、まさか拷問などしておらぬだろうな」
ルーシーが係官を振り返った。
真紅の瞳が、剣呑な光を放つ。
「そ、そんなはずは……! 規則では一切禁じられて……!」
係官が顔面を蒼白にして後ずさる。
「なら、今の声は何よ!」
リュシアがフェリックスを追うようにして走り出した。
リオスも慌ててその後を追う。
冷たい石の壁が後ろへ飛び去っていく。
嫌な予感が、胃の腑を重く引きずり下ろした。
鉄格子で仕切られた、1番奥の独房。
フェリックスがその前に張り付いていた。
鉄の棒を握りしめる両腕が、わななわと震えている。
リオスたちが追いつき、牢の中を覗き込んだ。
薄暗い独房の中央。
イゼベルが、ベッドに仰向けになっていた。
服のボタンは胸元まで引きちぎるように開けられ、肌が露わになっている。
小柄な体が、熱に浮かされたように身悶えしていた。
拷問などされていない。
誰1人、彼女に触れてすらいない。
「お前、何やってんだァァァッ!」
フェリックスの怒声が地下に響いた。
牢の鉄格子が、力任せに揺さぶられてガチャンと鳴る。
「……ん?」
イゼベルの動きが止まった。
乱れた前髪の隙間から、ぼんやりとこちらを見据える。
「おお、フェリックスか。
――何って、捕まっているのだぞ。昂るのは、当然だろう」
悪びれる様子は一切ない。
息を乱し、胸を激しく上下させたまま、平然と言い放った。
「高まった熱を慰めるのも、生物の自然な営みだ」
「牢の中でオナる奴は世界中探してもお前だけだ!」
フェリックスが頭を抱えてしゃがみ込んだ。
「お前だけ、か。悪くない響きだ」
イゼベルの頬が、さらなる熱を帯びて赤く染まる。
罵倒された事実が、彼女の皮膚の温度をさらに押し上げたようだった。
リオスは視線をどこへ向けていいか分からず、ただ天井の石組みを睨んだ。
リュシアは額を押さえ、深いため息をついている。
「あの、フェリックスさん。これは一体」
リオスが、引き攣った声で尋ねた。
「こいつは、筋金入りのドMなんだよ」
フェリックスが、地面を睨みつけたまま吐き捨てた。
「縛られる。責められる。罵られる。逃げ場のない場所に晒される。
そういう状況に置かれると、勝手に興奮しやがるんだ」
フェリックスが立ち上がり、鉄格子越しにイゼベルを睨んだ。
「詰め所でも変な要求ばかりしてきやがって。まさか内省院の牢の中でここまでやるとは思わなかったぞ」
「下世話な噂を、真面目に吟味したわらわが馬鹿じゃったわ」
ルーシーが、心底げんなりした声で呟いた。
「ん……小さいのも来ていたのか」
イゼベルが起き上がり、乱れた衣服を整えながらルーシーを見た。
その視線には、畏れも驚きもない。
幼年学校の生徒の1人を見る、ごく普通の目だった。
「勅任官だって言ってなかった?」
リュシアが身をかがめ、小声で尋ねる。
「任命の場は、御簾越しだったからの。顔は知られておらん」
ルーシーも小声で応じた。
「訓練の時も、ただの生徒の扱いだったじゃろ。
顔を知ってるのは、大魔将クラスくらいじゃ」
「へぇ……そうなんだ」
リュシアは軽く肩をすくめて、何でもない風だ。
かなりとんでもない秘密を知っていることになる。それでも、気負いもない。
一方、イゼベルは制服の襟を正し、胸元の皺を伸ばした。
「それで。もう出されるのか?」
イゼベルがフェリックスを見た。
「まだだ。――喜ぶな。
本当に状況が分かってるのか? お前!」
再び妙な空気が漂い始める。
リオスは咳払いをした。
「そのことは横に置くとして。
所長、押印された書類について聞きたいことがあるんです」
リオスの言葉に、フェリックスも顔つきを変えた。
懐から、折りたたまれた羊皮紙を取り出す。
「この書類に、見覚えはあるか」
鉄格子の隙間から、偽造された横領の証拠書類を突きつける。
イゼベルは目を細め、羊皮紙を一瞥した。
「ない」
「即答かよ」
「書類の違いなど、いちいち覚えてない。どれも同じに見える」
イゼベルは堂々と胸を張った。
「重症ね……」
リュシアが呆れたようにこぼす。
「お主も以前、似たようなことを言っておったぞ」
ルーシーの指摘に、リュシアが言葉を詰まらせた。
「いいか、よく思い出せ。俺がいない時、誰かが持ってきた書類に押印したことはあるか」
フェリックスが、すがるような目で尋ねる。
イゼベルは腕を組み、こてりと首を傾げた。
「ああ。ラカッフェが、色々と持ってきていたな」
「ラカッフェが?」
「急ぎだ、すぐに回さねばならんと言って、次々にな。
お前がいなかったから、処理が滞っていたのだ」
フェリックスの額に、冷たい汗が浮かぶ。
「中身は、読んだのか」
「読んでいない」
イゼベルは、一切の悪びれもなく断言した。
「そこで胸を張るなァァッ!」
フェリックスが再び鉄格子に突っ伏した。
本物の魔力印が押されていた理由。
それは、所長自身の職務怠慢だった。
「お待ち、ください……っ」
廊下の奥から、激しい足音が響いてきた。
案内役の係官が、息を切らして追いついてくる。
「ハァッ……ハァッ……。な、何かありましたでしょう、か」
係官が、不安げな目を向ける。
全員の視線が、空を泳いだ。
誰も、今の状況を正直に説明したくはない。
「何でもないというか、あるというか。気にするな」
ルーシーが、適当に手を振った。
「後でいい。今は下がれ」
フェリックスが、低い声で係官を追い払う。
係官は納得しきれない顔だった。それでも、フェリックスのただならぬ気迫に押され、すごすごと廊下を引き返していった。
足音が遠ざかるのを待ち、フェリックスが再び口を開いた。
「どうしてそこまで無警戒だったんだ。
いくら急ぎと言われても、中身も見ずに印を押す馬鹿がいるか」
フェリックスの咎めるような声に、イゼベルは不満げに眉をひそめた。
「ラカッフェが持ってきたものだぞ」
「だから何だ」
「弟が持ってきた書類まで、いちいち精査しておれるか」
牢獄の空気が、ピタリと止まった。
「……弟?」
リュシアが、目を丸くして尋ねた。
「イゼベルとラカッフェは姉弟じゃ」
ルーシーが補足する。
「治安を荒らし、それを鎮圧したと見せて功績にした。
その上で姉を失脚させれば、家督も詰所長の座も手に入るとでも思ったのじゃろう」
ルーシーが、思考を整理するように指を立てた。
「家を継ぐために姉を陥れる。下劣な話じゃ」
「僕は、姉上が家を継ぐことに納得してるけど――」
リオスが、ぽつりと呟いた。
「そうじゃない人もいるんだね」
「乗っ取ってもいいのよ?」
リュシアが、悪戯っぽく笑いかける。
「そうなったとしても、僕は正面からもらい受けるよ」
リオスは姉の瞳を真正面から見据えて答えた。
「それでこそよ」
リュシアが満足そうに頷く。
「ラカッフェが黒幕となると、居場所はフェルスバルト邸――か」
「最近は、王都の屋敷に戻ってないよ」
ルーシーの発言を、イゼベルが否定した。
「活躍しすぎて身を狙われるからと、本人は言っていた。
商業区外れの酒場に寝泊まりしてるらしい」
「酒場?」
「用心棒が集まる場所だ。腕の立つ者を周囲に置いていると、得意げに話していたぞ」
フェリックスの目の色が、すっと鋭く細まった。
「用心棒、ね」
フェリックスの声に、明確な殺意が混じる。
「護衛ではなく、囲っている実働部隊じゃろうな」
ルーシーが冷笑した。
「治安悪化の種を撒いた連中を、そのまま側に置いているわけね」
リュシアが、拳をゴキリと鳴らす。
「用心棒なんかじゃない。自作自演の平定劇の役者どもの溜まり場だ」
フェリックスが断定する。
すべての点と点が、1本の線に繋がった。
「ラカッフェを逮捕するのか?」
イゼベルが、鉄格子を掴んで声をかけた。
「ああ、そうしたら、お前も出られる」
フェリックスが答える。
「そうか……」
イゼベルが眉を伏せた。
それは、弟が自分を陥れ、逮捕されることへの悲しみか、それとも――
そこまでで、フェリックスは思考を止めた。
「とにかく、グリムボーン家の方々からも協力が得られそうなんだ。直ぐに片が付く!」
そう、フェリックスが気合を入れる。
その気迫を遮るように、声が飛んだ。
「そんなまどろっこしいことはせん」
「そうそう」
「――え?」
フェリックスと、リオスの視線がルーシーとリュシアに向く。
「このメンバーで、殴り込みに行けばいいのよ!」
「うむ!」
物騒な宣言に、フェリックスは唖然とした。
リオスはやっぱりかと、諦めの表情を見せるのだった。




