竜の巣へ
雨上がりのぬるい風が、教室の窓から吹き込んできた。
湿気を多分に含んだ空気の層が、薄い衣服を抜けて肌に重くへばりつく。
(……厄介なことになったわね)
リュシアは、視線を机の木目へ落とした。
白く細い指先が、硬い木の表面をゆっくりと滑る。
隣の席には、幼い容姿の少女が座っている。
魔王の正体を隠すクラスメイト、ルーシーだ。
周囲には、まだ数人の生徒が残っている。
他愛のない話し声が、遠くの波のように鼓膜を叩く。
羊皮紙のインクと埃の混ざった匂いが、鼻腔をくすぐった。
リュシアは、誰にも聞かれないよう声を潜めた。
「イゼベル所長の横領を示す証拠が、上がっているみたい」
ルーシーの真紅の瞳孔が、針の先のように鋭く収縮した。
「本来なら、証拠の効力を持たないはずじゃ」
ルーシーの声は、ひどく平坦だった。
抑揚のない響きが、2人の間の空気を冷え込ませる。
王都の区画詰所長ともなれば、恨みを買う相手は無数に存在する。
独自の捜査網のなかで、黒幕の候補は何人か挙がっていた。
むしろ、数が多すぎる。
「流石に正規の貴人牢へ入れられているじゃろうが……」
ルーシーが、短く息を吐いた。
熱を孕んだ呼気は、すぐに虚空へと溶けて消える。
「学生の身分では、親族でもない者に面会の許可は下りん」
リュシアは、隣の少女の瞳を逃げ道を塞ぐように正面から見つめた。
薄暗い教室の中で、黄金の瞳がルーシーの顔の造作を鋭く捉える。
「あなたなら、どうとでもできるでしょう?」
魔族の頂点に立つ者の、絶対的な権威。
魔王の権威なら、面会どころか、強引な釈放も容易だろう。
ルーシーは、視線を窓の外の曇天へ向けた。
水気を孕んだ灰色の雲が、重く垂れ込めている。
「わらわは、今のこの生活が気に入っているのじゃ」
風が、美しい銀色の髪を揺らす。
「あまり、あのことは大っぴらにしたくない」
内省院の受付には、無数の視線が存在する。
「それは最後の手段じゃな」
「最後の手段って、なんの話?」
のんきな声が、背後から降ってきた。
銀髪のクラスメイトの少女が、目を細めて2人を見下ろしている。
リュシアが表情筋を一切動かさず、滑らかに口を開く。
「新しい鍛錬先の話よ。王城の近衛兵の訓練に混じるのは、最後の手段かなって」
「相変わらず、武闘派ねー」
彼女は短く笑った。
それ以上は深く踏み込まず、背を向ける。
床を打つ硬い革靴の音が、次第に遠ざかっていく。
リュシアは、こわばっていた肩の力をふっと抜いた。
「ここだと、ゆっくり話せないわね」
「そうじゃな。お主の屋敷で話そう」
そうして2人は同時に立ち上がった。
◇
風が、ひどく湿った土の匂いを運んできた。
歩きなれた道を進み、幼年学校の堅牢な石造りの正門へと向かう。
(……何かがおかしい)
リュシアの足が、ぴたりと止まった。
門の前に、3つの影が並んでいる。
アンナ、ミリナ、そしてフィノアがいた。
3人が並んでいることそのものは珍しくもない。
異様なのは、エルフのメイドの肩が抑えきれない様子で小刻みに震えている事実だ。
彼女の普段の整然とした佇まいが、完全に崩れていた。
リュシアとルーシーは、無言で歩みを速める。
石畳を叩く足音が、焦りと共に不規則なリズムを刻んだ。
「リオス様が、連行されました」
フィノアの声は、ひどく乾いていた。
殺人事件の参考人の名目で、王都衛兵に連れ去られたと言う。
リュシアの視界が、一瞬にしてどす黒い赤に染まった。
全身の血が激しく沸騰する。
強烈な熱が皮膚を突き破り、呼気の温度が急激に跳ね上がる。
そして、正に飛び出そうとしたとき、ぐいと手を引かれた。
「離して!」
リュシアの喉から、殺意を孕んだ獣のような声が漏れる。
小さな手が、リュシアの腕を強く掴んでいる。
横に立つルーシーだ。
子供とはいえ、ダークオーガのリュシアの脚力、腕力をもってしても、びくともしない。
体格差も、体重差も関係なく、ルーシーに捕まれたリュシアはそれ以上前へ進むことはできない。
時間にすれば一瞬のやり取りではあった。
その物理的な拘束は、リュシアに冷静さを若干取り戻させるのに十分だった。
飛び出そうとしていた筋肉から、ゆっくりと力を抜く。
「無理やり連れていかれたのか?」
ルーシーの問いかけには、感情の波を思わせる抑揚が全くない。
ひどく平坦な声が、フィノアの鼓膜を打つ。
「……いいえ」
フィノアは、重い鉛を引きずるようにゆっくりと首を振った。
「リオス様は、ご自身の意志で同行されました」
ルーシーは、短く息を吐いた。
「そうじゃろうな」
幼年学校の正門で、強引な拉致など不可能に近い。
周囲には必ず警備の目が光っている。
「誰に連れ去られたの?」
「フェリックスと名乗る、衛兵部隊長です」
フィノアの言葉と共に、鮮明な記憶が蘇る。
派手な装いを好む、軽薄そうな形の男。
フェリックスは、イゼベル所長逮捕を仕組んだ黒幕の候補の1人だ。
彼がイゼベル所長の致命的な弱みを握っているという証言も存在する。
そんな人物が、直接リオスに接触し、殺人事件の参考人を名目に連れて行った。
ルーシーの脳内で、無数の情報が激しく交錯した。
(そもそも、弱みを握っている相手を、わざわざ捕まえさせるか?)
不可解な状況が、彼女の思考の速度をさらに引き上げる。
「あの者は、妾の子と、その個人的な従者であれば、自分の方が、立場は上だと……」
フィノアが、忌まわしい男の言葉を絞り出すように口にした。
揺れる紫色の瞳に、激しい悔しさが色濃く滲んでいる。
白く細い手の甲には、自身の爪が深く食い込んでいた。
薄皮が破れて血が滲み、その痛みが他の感覚を麻痺させている。
ルーシーは、真紅の瞳をスッと細めた。
「いかにも、制度上は部隊長の方が上じゃが」
それは紛れもない事実ではある。
とはいえ、フェリックスは部隊長という役職に就いているものの、身分は平民だ。
権力を持つ貴族相手にそんな強引な手法をとればどうなるか。
普通の貴族であっても、間違いなく上役に強く抗議するだろう。
しかも、リオスがその対象ともなれば――。
大魔将バルトロメイが、自らの領軍を率いて王都へ攻め込んでくる危険すらある。
あの子煩悩な男であれば、怒りに任せてそのくらいはするだろう。
さすがに、本当に王都を物理的に攻撃してくる前に、事前の交渉はするはずだ。
それでも、国を揺るがす大騒ぎになることは間違いない。
フィノアがリオスの個人従者となっていることまで調べているなら、そこまで考慮してほしいものだ。
そんな風にルーシーが思考を巡らせたところで、1つのひらめきがあった。
(……もしや、それが目的なのか?)
ルーシーの思考が、明確な1つの結論へ到達する。
容疑者の策に乗る行為は、極めて危険だ。
しかし、目の前の危険を恐れていては、事態は何も進まない。
「竜の卵は竜の巣にある。――内省院へ向かうぞ」
決断の言葉が、生温かく湿った風の中へと溶けていった。




