表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【なろう版】魔国の勇者  作者: マルコ
出会い

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

11/67

10:湯けむりに揺れる、幼き誇り

 蒸気がゆらめく浴場の中に、幼い背中があった。

 石造りの床を照らす常灯の光が、湯の表面をゆるやかに照らし、その光を背にして湯船へと向かう影――シエラ=ルキフェルだった。


 普段は侍女に髪を解かせ、手伝わせることが常であるこの誇り高き少女が、今日ばかりはひとりで浴場へとやってきた。


(……ひとりになりたいの。そんな気分ですわ)


 訓練着をほどきながら、ゆっくりと脱衣籠にたたむ。

 礼儀正しい動作のはずなのに、その指先は、どこかぎこちなく震えていた。


 銀紫の髪を解きながら、シエラは鏡に映る己の顔をちらと見た。

 頬が赤い――湯気のせいではない。

 思い返せば、自然と火照ってしまうのだ。


(あの……一撃、完全に読まれてた……)


 リュシアとの剣戟。

 そして――その弟、リオスとの一騎討ち。


(わたくし、完全に挑発に乗せられて……ああ、馬鹿みたいに……)


 怒りで手が震え、理性が曇り、全力で斬りかかった自分。

 冷静にかわされ、隙を突かれ――完敗だった。


 それなのに、負けを認めた自分の口から出た言葉は……


「妾になりますわ……っ」


 耳まで赤く染まる。


(な、なにを言ってるのよ、わたくしは……)


 悶々とするうちに、ついに我慢できず、ぐいっと足を上げて下着を脱ぎ捨てた。


「――ああもうっ!」


 湯気の中にその叫びが溶けていった。


 ◇


「……もう誰か入ってるみたいね」


 浴場の前に立ったリュシアが、わざとらしいほど軽く口にした。


 リオスは、ぽかんとした顔で姉を見上げる。


「え? 誰かって……えっ、今?」

「ええ。ほんのちょっと前に、ね」


 リュシアはにっこりと微笑んだ。

 その瞳の奥に、どこか悪戯めいた光が宿っているのに、リオスはまだ気づいていなかった。


 訓練を終え、汗を流すのはいつものこと。

 姉弟そろっての入浴も、いつもの習慣。

 だから、疑いもなく、リオスは姉の後をついてきた――それだけのことだ。


 だが、リュシアにはすでに分かっていた。

 先に浴場に入ったのが誰かを。

 そして、それがどんな意味をもたらすかも。


 扉がきぃ……と開かれ、湯気の向こうに人影が揺れる。


「っ、あ――」


 リオスの目が見開かれた。

 湯気の中、脱衣場との仕切り近くに立っていたのは、今まさに浴室に入ろうとしていた少女。

 銀紫の髪をほどき、素肌のままこちらを振り向いたその姿――シエラだった。

 肩を小さくすくめながら、唇をわななかせ、紫の瞳に警戒と羞恥を宿している。

 その青白い肌は、瑞々しい光を放ち、華奢な手足が湯気の中で細く見えた。


「なっ……なぜ、あなたたちがここにいるのですの!?」


 思わず声を上げたシエラの声が、場を震わせる。


「いつも通り、訓練のあとで汗を流しに来ただけよ? ね、リオス?」


 リュシアが何食わぬ顔で振り返る。


「えっ……う、うん。姉上がそう言うから……」


 慌てるリオスとは対照的に、リュシアは堂々としたものだった。


「グリムボーン家では、家族風呂が普通なのよ。妾なんでしょう? ならもう家族だし、良いじゃない」

「そ、それは……ぐぬぬ……っ」


 シエラは言葉を詰まらせる。

 リュシアの掌の上で転がされていることに気づきながらも、反論の余地がない。

 その表情は、湯気にかき消されながらも、真っ赤に染まっていた――。


 その視線の先には、当然のように運動着を脱ぎ、浴室へ向かうリュシアと、状況を把握できずに戸惑うリオスの姿。


「ねえ、リオス。早く入りましょう? 冷えるわよ」

「え、えっと……ほんとに入っていいの? だって、シエラさんが……」

「妾なんでしょう? なら、もう他人じゃないわよ。ね、シエラちゃん?」

「ぬ……ぬうぅ……っ」


 まるで湯気の熱で蒸されたかのように、シエラの顔が一気に赤くなる。


(なぜ、なぜこんな辱めを……!)


 しかし、自ら妾になると認めた以上、下手に拒めばそれはそれで見苦しい。

 挑発されて敗北し、自ら敗北を認めた以上――シエラに撤退の道は残されていなかった。


「……わ、分かりましたわ。仕方ありませんわね。お、お好きになさって……」


 どこかで見た気がする負け惜しみの台詞。

 けれど、その声は明らかに震えていた。


 リュシアが笑いを噛み殺すように口元を覆う。


「ありがと、シエラちゃん。遠慮なく」


 リオスは、姉とシエラの間に流れる妙な空気を感じながらも、素直に浴室に脚を踏み入れた。


 浴室の中、石造りの床に三人の足音が響く。

 高い天井と滑らかな壁面、魔導照明が淡い光を灯し、ほんのりと香る薬草の匂いが空気に溶けていた。


 洗い場には、身体を流すための桶と椅子が幾つか並べられている。

 リュシアがさっさと腰を下ろし、湯汲み桶を手に取った。


「まずは汗を流しましょうね。いきなり湯船に入るのはお行儀が悪いもの」


 いつも通りの口調でそう言いながら、肩からざばりと湯をかぶる。

 その様子を見たリオスも、隣に腰を下ろしてかけ湯をする。


「……ふうっ、気持ちいいな」


 肩をすくめながら苦笑するリオスの横で、シエラは少し離れた椅子に座った。


「……見ないでくださいまし」

「え、いや、見てないし……!」


 シエラは顔を背けたまま、しかしリオスの存在を気にしつつ、細い指で髪をかき上げる。

 そして、彼女もまた、桶を手に取り、意を決してざぶりと湯を浴びた。


 ぴしゃりと肌を叩く音とともに、三人それぞれの身体から湯が流れていく。


 少しして、泡立てた石鹸で手早く身体を洗ったリュシアが、軽く伸びをしながら振り返る。


「よし、じゃあ入ろっか。……ちゃんと洗った? リオス、背中洗ってもらえばよかったのに」

「いいよ、自分で届くし……!」

「つれないわね」


 からかうような調子に、リオスが頬を赤らめる。

 一方、シエラは無言のまま、それでもどこか視線をちらちらと彷徨わせていた。


 そんな気配を背中に感じながら――三人はようやく、温かな湯気が満ちる湯船へと足を踏み入れた。


「あ、あったかい……」


 無邪気な声が、湯けむりの中に響く。


 ◇


 広いはずの湯船が、今日は妙に狭く感じられた。

 三人が肩を並べて湯に浸かっている。

 リオスは中央、右にリュシア、左にシエラ。


(なんで僕、真ん中なんだ……)


 心の中で叫びながら、リオスはできるだけ視線を泳がせた。

 だが、自然と両隣に目が向いてしまう。


 シエラの肩が、かすかに揺れていた。

 湯面の反射が肌を照らし、その頬がわずかに赤いのは湯の熱のせいだけではなさそうだった。


(……近い。こんなに、距離近かったっけ)


 姉の肌は漆黒、シエラの肌は青白い――どちらも湯気の中で艶めいていて、思わず目を奪われる。


 リオスが視線をそらそうとしたとき、ふと、シエラの視線もまたこちらに向けられていた。

 互いに、ぱっと顔を背ける。


「ふふ……リオスの肌って綺麗よね」


 リュシアの声が、何気なく響く。


「……まるで陶器みたいでしょ。透き通ってて、ちょっと触れるだけでひんやりしてるのよ」

「と、陶器って……」


 リオスは恥ずかしさをごまかすように小さく笑った。


 すると、シエラの視線がふとリオスの手元に留まる。


「その痣……右手の甲にあるそれ、どこかで見たような……」


 リオスは一瞬、指を引っ込めかけたが、すぐに見せた。


「これ? ずっと昔からあって……」


 シエラはしばらく見つめたあと、小さく息を呑んだ。


「……フォールム教団の紋章に、少し似ておりますわ」

「……っ」


 リオスの表情が一気に曇る。

 敵国の宗教の象徴。

 それに似ていると言われて、穏やかではいられない。


 リュシアがすぐさま、冗談めかして言った。


「それならそれでいいじゃない。『神の威光は我にあり!』って、あの国の神官たちに言ってみなさいよ」

「や、やめてよ姉上……!」


 湯気の中、どこか不穏で、でも不思議とあたたかな空気が流れていた――。


 長く浸かった湯のせいか、湯船から上がるときには、三人ともすっかり身体の芯まで火照っていた。

 石の縁に手をかけ、先に湯から出たのはリュシアだった。銀髪を絞りながら、振り返る。

 湯から上がった彼女の漆黒の肌は、水滴を弾き、艶やかな光沢を放っていた。

 まだ幼いながらも、手足の長さや背筋の伸び方は、将来の優れた戦士としての片鱗を覗かせている。


「ほら、ふたりとも。いつまでも入ってると、のぼせるわよ」


 リオスは「うん」と頷き、湯船の縁へと手をかけた。

 その隣、シエラも続こうとしたが――


「あっ」


 足元でつるりと滑りかけた。


「わっ、危ない!」


 咄嗟に伸びたリオスの手が、シエラの腕をがっしりと掴む。

 次の瞬間、引き寄せる形で、彼女の身体がリオスの胸にぶつかった。


 ――ぴたり。


 その場に、時間が止まったかのような沈黙が訪れる。


 肌と肌が触れ合い、心臓の鼓動が、互いの胸に伝わってしまいそうな距離。

 湯上がりの熱と、予期せぬ密着が、二人の間に緊張感を生み出した。


「…………ッ」


 シエラは動けなかった。

 そして、次の瞬間、小さな声が漏れた。


「……抱いたからには、本当に責任、取ってくださいましね……」

「えぇええ!? せ、責任って……!?」


 あたふたと手を振るリオスに、シエラはもう視線を合わせようとせず、頬を真っ赤にしたままくるりと背を向けた。


 湯けむりの向こう――

 リュシアは、濡れた髪を拭きながら、くすりと笑っていた。


「……ふふ。いい感じじゃない、シエラちゃん」


 からかいの響きを込めて。だがその瞳には、どこか姉らしい優しさも滲んでいた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ