10:湯けむりに揺れる、幼き誇り
蒸気がゆらめく浴場の中に、幼い背中があった。
石造りの床を照らす常灯の光が、湯の表面をゆるやかに照らし、その光を背にして湯船へと向かう影――シエラ=ルキフェルだった。
普段は侍女に髪を解かせ、手伝わせることが常であるこの誇り高き少女が、今日ばかりはひとりで浴場へとやってきた。
(……ひとりになりたいの。そんな気分ですわ)
訓練着をほどきながら、ゆっくりと脱衣籠にたたむ。
礼儀正しい動作のはずなのに、その指先は、どこかぎこちなく震えていた。
銀紫の髪を解きながら、シエラは鏡に映る己の顔をちらと見た。
頬が赤い――湯気のせいではない。
思い返せば、自然と火照ってしまうのだ。
(あの……一撃、完全に読まれてた……)
リュシアとの剣戟。
そして――その弟、リオスとの一騎討ち。
(わたくし、完全に挑発に乗せられて……ああ、馬鹿みたいに……)
怒りで手が震え、理性が曇り、全力で斬りかかった自分。
冷静にかわされ、隙を突かれ――完敗だった。
それなのに、負けを認めた自分の口から出た言葉は……
「妾になりますわ……っ」
耳まで赤く染まる。
(な、なにを言ってるのよ、わたくしは……)
悶々とするうちに、ついに我慢できず、ぐいっと足を上げて下着を脱ぎ捨てた。
「――ああもうっ!」
湯気の中にその叫びが溶けていった。
◇
「……もう誰か入ってるみたいね」
浴場の前に立ったリュシアが、わざとらしいほど軽く口にした。
リオスは、ぽかんとした顔で姉を見上げる。
「え? 誰かって……えっ、今?」
「ええ。ほんのちょっと前に、ね」
リュシアはにっこりと微笑んだ。
その瞳の奥に、どこか悪戯めいた光が宿っているのに、リオスはまだ気づいていなかった。
訓練を終え、汗を流すのはいつものこと。
姉弟そろっての入浴も、いつもの習慣。
だから、疑いもなく、リオスは姉の後をついてきた――それだけのことだ。
だが、リュシアにはすでに分かっていた。
先に浴場に入ったのが誰かを。
そして、それがどんな意味をもたらすかも。
扉がきぃ……と開かれ、湯気の向こうに人影が揺れる。
「っ、あ――」
リオスの目が見開かれた。
湯気の中、脱衣場との仕切り近くに立っていたのは、今まさに浴室に入ろうとしていた少女。
銀紫の髪をほどき、素肌のままこちらを振り向いたその姿――シエラだった。
肩を小さくすくめながら、唇をわななかせ、紫の瞳に警戒と羞恥を宿している。
その青白い肌は、瑞々しい光を放ち、華奢な手足が湯気の中で細く見えた。
「なっ……なぜ、あなたたちがここにいるのですの!?」
思わず声を上げたシエラの声が、場を震わせる。
「いつも通り、訓練のあとで汗を流しに来ただけよ? ね、リオス?」
リュシアが何食わぬ顔で振り返る。
「えっ……う、うん。姉上がそう言うから……」
慌てるリオスとは対照的に、リュシアは堂々としたものだった。
「グリムボーン家では、家族風呂が普通なのよ。妾なんでしょう? ならもう家族だし、良いじゃない」
「そ、それは……ぐぬぬ……っ」
シエラは言葉を詰まらせる。
リュシアの掌の上で転がされていることに気づきながらも、反論の余地がない。
その表情は、湯気にかき消されながらも、真っ赤に染まっていた――。
その視線の先には、当然のように運動着を脱ぎ、浴室へ向かうリュシアと、状況を把握できずに戸惑うリオスの姿。
「ねえ、リオス。早く入りましょう? 冷えるわよ」
「え、えっと……ほんとに入っていいの? だって、シエラさんが……」
「妾なんでしょう? なら、もう他人じゃないわよ。ね、シエラちゃん?」
「ぬ……ぬうぅ……っ」
まるで湯気の熱で蒸されたかのように、シエラの顔が一気に赤くなる。
(なぜ、なぜこんな辱めを……!)
しかし、自ら妾になると認めた以上、下手に拒めばそれはそれで見苦しい。
挑発されて敗北し、自ら敗北を認めた以上――シエラに撤退の道は残されていなかった。
「……わ、分かりましたわ。仕方ありませんわね。お、お好きになさって……」
どこかで見た気がする負け惜しみの台詞。
けれど、その声は明らかに震えていた。
リュシアが笑いを噛み殺すように口元を覆う。
「ありがと、シエラちゃん。遠慮なく」
リオスは、姉とシエラの間に流れる妙な空気を感じながらも、素直に浴室に脚を踏み入れた。
浴室の中、石造りの床に三人の足音が響く。
高い天井と滑らかな壁面、魔導照明が淡い光を灯し、ほんのりと香る薬草の匂いが空気に溶けていた。
洗い場には、身体を流すための桶と椅子が幾つか並べられている。
リュシアがさっさと腰を下ろし、湯汲み桶を手に取った。
「まずは汗を流しましょうね。いきなり湯船に入るのはお行儀が悪いもの」
いつも通りの口調でそう言いながら、肩からざばりと湯をかぶる。
その様子を見たリオスも、隣に腰を下ろしてかけ湯をする。
「……ふうっ、気持ちいいな」
肩をすくめながら苦笑するリオスの横で、シエラは少し離れた椅子に座った。
「……見ないでくださいまし」
「え、いや、見てないし……!」
シエラは顔を背けたまま、しかしリオスの存在を気にしつつ、細い指で髪をかき上げる。
そして、彼女もまた、桶を手に取り、意を決してざぶりと湯を浴びた。
ぴしゃりと肌を叩く音とともに、三人それぞれの身体から湯が流れていく。
少しして、泡立てた石鹸で手早く身体を洗ったリュシアが、軽く伸びをしながら振り返る。
「よし、じゃあ入ろっか。……ちゃんと洗った? リオス、背中洗ってもらえばよかったのに」
「いいよ、自分で届くし……!」
「つれないわね」
からかうような調子に、リオスが頬を赤らめる。
一方、シエラは無言のまま、それでもどこか視線をちらちらと彷徨わせていた。
そんな気配を背中に感じながら――三人はようやく、温かな湯気が満ちる湯船へと足を踏み入れた。
「あ、あったかい……」
無邪気な声が、湯けむりの中に響く。
◇
広いはずの湯船が、今日は妙に狭く感じられた。
三人が肩を並べて湯に浸かっている。
リオスは中央、右にリュシア、左にシエラ。
(なんで僕、真ん中なんだ……)
心の中で叫びながら、リオスはできるだけ視線を泳がせた。
だが、自然と両隣に目が向いてしまう。
シエラの肩が、かすかに揺れていた。
湯面の反射が肌を照らし、その頬がわずかに赤いのは湯の熱のせいだけではなさそうだった。
(……近い。こんなに、距離近かったっけ)
姉の肌は漆黒、シエラの肌は青白い――どちらも湯気の中で艶めいていて、思わず目を奪われる。
リオスが視線をそらそうとしたとき、ふと、シエラの視線もまたこちらに向けられていた。
互いに、ぱっと顔を背ける。
「ふふ……リオスの肌って綺麗よね」
リュシアの声が、何気なく響く。
「……まるで陶器みたいでしょ。透き通ってて、ちょっと触れるだけでひんやりしてるのよ」
「と、陶器って……」
リオスは恥ずかしさをごまかすように小さく笑った。
すると、シエラの視線がふとリオスの手元に留まる。
「その痣……右手の甲にあるそれ、どこかで見たような……」
リオスは一瞬、指を引っ込めかけたが、すぐに見せた。
「これ? ずっと昔からあって……」
シエラはしばらく見つめたあと、小さく息を呑んだ。
「……フォールム教団の紋章に、少し似ておりますわ」
「……っ」
リオスの表情が一気に曇る。
敵国の宗教の象徴。
それに似ていると言われて、穏やかではいられない。
リュシアがすぐさま、冗談めかして言った。
「それならそれでいいじゃない。『神の威光は我にあり!』って、あの国の神官たちに言ってみなさいよ」
「や、やめてよ姉上……!」
湯気の中、どこか不穏で、でも不思議とあたたかな空気が流れていた――。
長く浸かった湯のせいか、湯船から上がるときには、三人ともすっかり身体の芯まで火照っていた。
石の縁に手をかけ、先に湯から出たのはリュシアだった。銀髪を絞りながら、振り返る。
湯から上がった彼女の漆黒の肌は、水滴を弾き、艶やかな光沢を放っていた。
まだ幼いながらも、手足の長さや背筋の伸び方は、将来の優れた戦士としての片鱗を覗かせている。
「ほら、ふたりとも。いつまでも入ってると、のぼせるわよ」
リオスは「うん」と頷き、湯船の縁へと手をかけた。
その隣、シエラも続こうとしたが――
「あっ」
足元でつるりと滑りかけた。
「わっ、危ない!」
咄嗟に伸びたリオスの手が、シエラの腕をがっしりと掴む。
次の瞬間、引き寄せる形で、彼女の身体がリオスの胸にぶつかった。
――ぴたり。
その場に、時間が止まったかのような沈黙が訪れる。
肌と肌が触れ合い、心臓の鼓動が、互いの胸に伝わってしまいそうな距離。
湯上がりの熱と、予期せぬ密着が、二人の間に緊張感を生み出した。
「…………ッ」
シエラは動けなかった。
そして、次の瞬間、小さな声が漏れた。
「……抱いたからには、本当に責任、取ってくださいましね……」
「えぇええ!? せ、責任って……!?」
あたふたと手を振るリオスに、シエラはもう視線を合わせようとせず、頬を真っ赤にしたままくるりと背を向けた。
湯けむりの向こう――
リュシアは、濡れた髪を拭きながら、くすりと笑っていた。
「……ふふ。いい感じじゃない、シエラちゃん」
からかいの響きを込めて。だがその瞳には、どこか姉らしい優しさも滲んでいた。




