王都の殺人事件
午前中に降り注いだ雨は、すでに上がりきっていた。
頭上には、分厚い灰色の雲が淀むように広がっている。
連日肌を焼いていた猛暑を遮るカーテンだ。
そう思えば、この薄暗さも決して悪くはない。
フィノアは石畳の上に立ち、背筋を伸ばしていた。
制服の乱れはなく、その視線は前方へ固定されている。
その眼差しは、幼年学校の堅牢な正門を捉えていた。
リオスの授業時間が終わる時刻だ。
各家の従者たちが続々と集まり始めている。
彼女らは皆、こうして主人の帰還を待つのだ。
先ほど、シエラがリリュアを伴って帰路に就いたばかりだった。
彼女が去り際に残した言葉が、フィノアの耳に残っている。
今日のリオスは、決闘の予定が2件しか入っていない。だから、すぐにここへ姿を見せるはずだ。
フィノアは肺の空気を細く吐き出した。
主の予定がどれほど遅延しようとも、時間が来ればこうして待ち続けるのが、彼女たち従者の絶対的な務めである。
リュシアなどは、事前の連絡もなく別経路で姿を消すことが多々ある。
彼女の従者であるアンナは、常日頃からその奔放さに振り回され、苦労を強いられている。
平穏なフィノアの日常空間。
その静寂を、不快な靴音が無遠慮に叩き割った。
金属の踵が、硬い石畳を無慈悲に擦る。
鼓膜を刺すような、甲高い摩擦音。
ひとつの背の高い影が、フィノアの視界の端を塞いだ。
王都衛兵の制服だった。
生地の表面には、不自然なほどに皺1つ存在しない。
衛兵特有の、擦り切れた革の生々しい匂いがない。
現場の泥臭い土の匂いすら、完全に欠落していた。
代わりに、甘く濃厚な香水の匂いが漂ってくる。
その人工的な香りが、周囲の湿った空気を汚染していった。
「こんな所で待ちぼうけかい。美しいエルフのお嬢さん」
軽薄に響く声が、フィノアの鼓膜を打つ。
「よければ、少しお話したいのだがね」
男の口角は、三日月の形に鋭く釣り上がっていた。
フィノアは表情筋を一切動かさず、視線だけを斜め下へ落とした。
深い沈黙。
それは、明確な拒絶の意志表示だった。
しかし男の足先は、一切の躊躇を見せない。
彼女のパーソナルスペースへと、遠慮なく踏み込んでくる。
男の革靴が、フィノアのつま先まで数センチの距離に迫った。
「彼女は僕の大切な従者だから、あまり困らせないでほしいな」
男の続く言葉を遮るように、声が響き渡った。
靴底が石畳を打つ音が、1度だけ鋭く鳴る。
リオスが歩みを進め、フィノアと男の隙間へ滑り込んだ。
男の視線が、頭上からリオスの頭頂部へと落ちてくる。
舞台役者のようだ。
それが不意に現れた男に対するリオスの第一印象だった。
とにかく、顔の造作が整っている。
役者のように作り込まれた、左右対称の貌だった。
男はリオスを見るや否や、素早く懐へ手を入れ、何やら1枚の紙を取り出す。
手元の紙と、眼前の少年を交互に見比べる。
その些細な仕草すら、ひどく芝居がかって見えた。
「おや、君はもしやリオスくんかい?」
男が、大袈裟に両手を広げてみせる。
腰に巻かれた剣帯が揺れた。
鈍い金属音が、周囲の空気を震わせる。
「従者を連れているということは、貴族の子供か。
で、この娘はキミの従者――と。いやはや、偶然とは恐ろしい」
白々しい言葉の羅列が、宙に浮く。
リオスは口角を引き上げ、息を吐いた。
目的はフィノアではない。
最初から、自分を待っていたのだ。
リオスは1度、顎を引いた。
男は、胸に付けた記章を指の腹で軽く叩いた。
「俺は王都衛兵のフェリックス。
これでも部隊長だ。以後お見知りおきを」
フェリックスは、再び靴の踵を鳴らした。
濃厚な香水の匂いが、さらに強く鼻腔を突いてくる。
「実は数日前、商業区の薬屋で少しばかり派手な騒動があってね」
リオスのまぶたが細められる。
「まぁ、騒動そのものは、同じ部隊長のラカッフェ=フェルスバルト様が制圧して解決したそうなんだ」
フェリックスの口角が、さらに高い位置へと吊り上がる。
「見事な手際だったみたいだよ。貴族様は、流石だね」
リオスは、自らの手のひらに残る感触を思い出した。
獣人の硬い鳩尾を、素手で打ち抜いた瞬間の記憶。
骨を折らないよう、細心の注意を払った。内臓を潰さないよう、力を精密に制御した。
意識を刈り取った、あの鈍い衝撃の感触。
彼らが「耐久テスト」と称して、店の油瓶を次々と割っていた不快な光景が脳裏をよぎる。
沈黙を保つリオスを見下ろし、フェリックスが半歩だけ距離を詰めた。
「ただ、少しばかり厄介なことになってね」
フェリックスの声から、突然、すべての抑揚が消え去った。
「捕らえたチンピラたちは、なぜかすぐに釈放されたんだ」
フェリックスは、大袈裟に肩をすくめてみせる。
「白昼堂々の騒ぎで目撃者も多かったはずだが、どういうわけか、ね。
どこかの誰かが、被害店舗に多額の賠償金を払ったのかね?」
男の首が右へ傾く。
「俺も詳しい事情は知らないんだがね。ただ――」
革の擦れる音が鳴った。
フェリックスの腕の動きに追従して響く、乾いた音。
「釈放された直後、チンピラの1人が、路地裏で強盗に遭ったようでね」
男が再び懐に手を入れ、別の紙をだした。
「運悪く、冷たい肉塊になっていた」
取り出された紙に描かれていたのは、粗い筆致の似顔絵。
先日の騒動を起こした、チンピラの1人だ。
リオスは、彼ら全員の顔など記憶していなかった。
だが、その特定のチンピラだけははっきりと覚えていた。
――話が、違うじゃねぇか。
その異質な言葉の響きが、耳にひっかかっていたのだ。
だからこそ、顔を覚えていた。
そのチンピラが、死んだ。
いや、状況から判断すればおそらくは――殺された。
リオスの眼差しが、剥き出しの刃のように固定された。
「殺人事件の参考人ということで、君に少し話を聞きたい」
「無礼ですよ!」
張り詰めた静寂を切り裂くように、フィノアの鋭い声が響いた。
硬質な声音が、石畳の上に重く落ちる。
主の傍らで気配を完全に消していた従者が、勢いよく1歩前に出た。
「こちらにおわすのは、グリムボーン家のご子息です」
フィノアの紫色の瞳が、フェリックスの顔面を鋭く射抜く。
「その方を殺人事件の参考人などと、到底承服できかねます」
フェリックスの顔面から、わざとらしい笑みが滑り落ちた。
貼り付けたような軽薄な表情が、一瞬にして剥がれ落ちる。
周囲の空気が、急激に質量を増して重く沈んだ。
演技を止めた――
リオスはそんな印象を受けた。
フェリックスの双眸が、眼前のフィノアを見下ろす。顔の筋肉は全く動いていない。
声のトーンが、地を這うような低い周波数へと急降下した。
「グリムボーン家の直属や、正妻の御子息ならいざ知らず」
男の顎が上がる。
「妾の子と、その個人的な従者であれば、俺の方が、立場は上だ」
吐き捨てられた言葉が、フィノアの鼓膜を容赦なく打つ。
互いの物理的な距離は、先ほどから一切変わっていない。
だが、フェリックスの呼吸が深く、長くなった。
自分たちのことを、かなり綿密に調べているようだ。
リオスは小さく息を吐き、右手を上げた。
フィノアの肩の前に、自らの細い腕を差し出す。
「下がっていいよ、フィノ」
澄んだ声が、周囲に響いた。
「僕は、彼についていくから」
「リオス様……!」
フィノアの瞳が、激しい焦燥に揺れる。
硬く結ばれた唇の隙間から、押し殺したような吐息が漏れ出た。
「屋敷に帰って、待っていてくれるかな」
リオスは、普段と変わらない視線を向けた。
主の確固たる眼差しを真正面から受ける。
フィノアは抵抗を諦め、深く頭を下げた。
「……畏まりました」
押し殺した震える声が、硬い石畳の間に吸い込まれていく。
フェリックスの口角が、再び三日月の形に不気味に吊り上がった。
「話が早くて助かるよ、リオスくん」
軽薄な声色が、男の喉の奥から瞬時に蘇る。
「では、ゆっくり話せるところにご案内しようか」
男が背を向け、悠然と歩き出す。
リオスは1度も振り返ることなく、その後ろ姿を追って行った。




