疑惑の横領
街路には陽炎が揺らめき、人々は熱気から逃れるように日陰を求めて足早に通り過ぎる。
そんななか、リュシアとルーシーの二人は、いつものように大通りを歩いていた。
彼女たちには、このところすっかり日課となった習慣があった。
時間に余裕のある日は王都各所の衛兵詰所を訪れ、巡回訓練に混ざることだ。
詰所ごとに訓練スタイルや人員構成が異なるため、同じ訓練はなく、各所それぞれに実入りがるのだ。
去年などは、連日決闘を挑まれていたので、こうして訓練に混ざる機会も減っていたが、今年はリオスに押し付け……もとい、リオスがリュシアの分も決闘を引き受けているため、連日鍛錬に参加することができる。
今日訪れるのは、商業区内の複数の詰所を束ねる区画詰所だ。
最後にここへ来てから数日ぶりである。
石造りの立派な正門が見えてくると、リュシアはいつもの習慣通り、伸びをして肩を回した。
興奮を抑えられないかのように、彼女は背後で軽く首を鳴らしながら歩みを進めた。
午後の日差しはまだ強いが、セミの声は一層大きく響き、まさに夏の真っ只中といった風情だ。
だが、正門をくぐった瞬間、リュシアとルーシーは同時に違和感に気づいた。
詰所の中庭には見慣れない光景が広がっていた。
書類を山のように抱えて慌ただしく走り回る衛兵がいるかと思えば、一人の兵士は中庭の柱の影にぼんやりもたれて、どこへ動けばよいのか迷っているようだった。
訓練用の槍や盾はそこらに出しっぱなしで、使いかけの砥石が地面に転がったまま放置されている。
さらに、詰所の隅では三人の若い衛兵が密着して小声で話し込んでいる。
訓練中の私語はもちろん御法度のはずだが、上官らしき者の姿はなく、誰も彼らを叱責しない。
日の当たる軒下では、腕を組んで座り込み、のんびりと水筒の水を飲んでいる衛兵もいた。
怠慢さえ恥じていないような無頓着な表情で空を眺めている。
リュシアは眉根を寄せてルーシーと視線を交わした。
ルーシーもまた詰所の内側をじっと見渡し、何か確かめるように細めた目を巡らせている。
いつもなら整然とし、規律正しい空気が流れているはずの衛兵詰所とはまったく異なる光景。
明らかに様子がおかしかった。
ちょうどそのとき、奥まった廊下の向こうから足早に歩いてくる女性が目に入った。
濃紺の詰襟制服に軽量な胸当てを着け、無造作に結わえた黒髪が走るたびに揺れている。
片手には帳簿らしき書類を抱え、口元を真一文字に引き結んでいる。
しなやかな体躯の人間の女衛兵――ミラだ。リュシアは軽く手を上げて声をかけた。
「ちょっと、いいかしら。今日はいつもと様子が違うみたいだけど、何かあったの?」
ミラは立ち止まり、呼びかけた相手を見た。
衛兵の訓練に混ざる貴族の子供たち。
貴族の酔狂というには、かなり腕が立つ。
来るたびに衛兵たちを叩きのめしている二人組だ。
ミラ自身はどちらかと言えば事務方なので、このふたりと手合わせしたことはないが、顔は見知っていた。
リュシアの問いに、一瞬の間を置いてミラは苦い表情で答えた。
「所長が……イゼベル所長が、捕まったのよ」
ふたりが、無言のままミラを見つめ返した。
「捕まった? どういうこと?」
「横領よ。経費の横領」
ミラは、声を落として囁く。
「最近、この辺りの治安が悪くなっているでしょう?」
「ええ」
「その対策費として、詰所に臨時警備費が下りたの」
ミラの指先が、胸当ての革紐を弄る。
「その増額分を、所長が自分の懐に入れていたらしいのよ」
「所長が逮捕なんて、聞いていないのじゃ」
ルーシーの低い声が、地面を這うように響いた。
ミラは、肩をすくめる。
「そりゃあ、ついさっきの話だからね。私たちも寝耳に水よ」
ミラの視線が、ふらふらと宙を彷徨う。
「でも……私、ちょっと怪しいとは思っていたの」
「怪しい?」
リュシアが聞き返す。
「ええ。実は少し前の夜……ちょっと変な場面を見ちゃって」
その言葉を口にした瞬間、ミラの身体がびくりと跳ねた。
首筋から耳の裏にかけて、急速に朱色が広がっていく。
「変な場面って、何よ」
リュシアが、怪訝な顔で首を傾げる。
ミラの顔は、茹で上がったように真っ赤だった。
額から、玉のような汗が吹き出している。
「な、なんでもないの! 大したことじゃないから!」
ミラは両手で顔を覆う。
「とにかく、今日の訓練は無理よ。気を付けて帰ってね!」
それだけを早口でまくし立てると、ミラは踵を返した。
硬い革靴の音が、逃げるように回廊の奥へと遠ざかっていく。
リュシアは、小さくため息をついた。
「あの様子じゃ、どうにもならないわね」
ふたりは詰所に背を向け、元来た門をくぐり抜ける。
大通りに出ると、人ごみの喧騒が、鼓膜を揺らす。
リュシアは、歩調を緩めた。
隣を歩くルーシーの様子が、明らかにおかしい。
普段の無邪気な足取りは消え去っている。
地面を踏みしめる靴底の音が、不気味なほど一定だった。
「どうしたの、ルーシー。ひどく静かじゃない」
リュシアが覗き込む。
ルーシーの顔には、一切の温度がなかった。
硝子玉のような瞳が、前方の空間だけを見据えている。
「リュシア。あの詰所は、ただの末端ではないのじゃ」
声のトーンが、一段階落ちる。
周囲の喧騒が、不意に遠のいたように錯覚した。
「あそこは、商業区画全体を束ねる区画詰所じゃ」
「それがどうかしたの?」
「王都の区画詰所長は、魔王が任命する勅任官じゃ」
ルーシーの言葉が、ひんやりと空気を冷やす。
夏の熱気が、彼女の周囲からだけ抜け落ちていた。
「勅任官は、現行犯でもない限り、勝手に身柄を拘束できないようになっていての」
ルーシーは、歩みを止めない。
「審問院の正式な手続きと、魔王の勅命が必要になるのじゃ」
リュシアの目が、わずかに見開かれた。
「初耳ね。でも、だとしたら手続きのミスかしら?」
「仮にミスだとしても、途中で必ず審問院の横やりが入るのじゃ」
ルーシーは首を横に振る。
「それがないということは、逮捕状の捏造か、あるいは強引な圧力じゃ」
乾いた風が、ふたりの間を吹き抜けた。
「そもそも、区画詰所長が横領など、あり得ないのじゃ」
「ずいぶん、あの所長を信頼しているのね」
リュシアの言葉に、ルーシーは再び首を振る。
「個人の人格の問題ではない。制度の問題じゃ」
ルーシーの視線が、鋭い刃のように細められた。
「区画詰所長には、経費を自身の裁量で自由に使う特権があるのじゃよ」
「自由に使う特権……」
「そうじゃ。何に使おうと自由で、横領という概念自体が成り立たないのじゃ」
「……つまり、横領で逮捕されない、ということ?」
リュシアが確認するように質問した。
「そうじゃ」
ルーシーは肯定した。
「もちろん、その制度を悪用して懐を肥やす者がいないわけではない。
じゃが、あの詰所の所長――イゼベルというドワーフは、その手の輩ではないじゃろう」
リュシアは無言のまま、友人であるこの少女を見つめた。
彼女の小さな背中から、途方もない質量が漏れ出している。
肌を刺すような魔力が、漏れ出しているのだ。
「どちらにせよ」
ルーシーの口が、ゆっくりと動く。
「魔王の許可なく勅任官を逮捕するなど、わらわの顔に泥を塗る行為じゃ」
足元の石畳の継ぎ目から、微細な砂粒が震えながら舞い上がった。
魔力の振動が、地面を震わせているのだ。
「魔王を舐めた愚か者には、相応の後悔をさせねばならんのう」




