鼠の誤算
店内に、むせ返るような甘い香りが満ちていた。
砕け散った香油の小瓶から、どろりとした液体が石の床へ広がる。
割れたガラス片が、窓から差し込む陽光を鈍く返していた。
壁際では、年老いた店主がへたり込んでいた。
膝は小刻みに震え、額の脂汗が顎を伝って床へ落ちる。
ユルルたちも、数歩退いた位置に固まっていた。
空気が重く、肌に粘りつく。
リオスは足元へ視線を落とす。
床には、獣人の男が落とした短刀が転がっていた。
刃の鈍い光を避け、少年は短刀を踏まないよう立ち位置をずらす。
靴底がガラスの粉を擦り、ざらりと乾いた音を立てた。
「誰か、衛兵を呼んで」
抑えた声が、緊張した空気へ落ちる。
背後のヴィーゼルが小さく頷いたが、ほぼ同時に路地の奥から重い足音が響いてきた。
金属の擦れる音と揃った軍靴の反響。
石畳を叩く振動が、店の床越しに足裏へ伝わってくる。
路地の入り口を塞ぐように、数人の衛兵が姿を現した。
先頭に立つのは、小柄でも岩のようにがっしりとした体躯の男。
豊かな髭を蓄えたドワーフ――首都衛兵の部隊長、ラカッフェ=フェルスバルトだった。
ラカッフェ達が店の前までやってきた。
目が、床に伸びる獣人たちをなぞり、散乱した商品とガラス片へ移る。
持ち主を失った短刀を見つけ、壁際に固まる子どもたちへ視線が止まった。
「けが人は?」
野太い声が店に響いた。
部下が素早く店主と子どもたちを確かめ、短く返す。
「店主も子供たちも無傷のようです」
「よし。倒れている奴らを見ろ。現場は荒らすな」
命令と同時に、衛兵が散った。
ごろつきを起こす者、周囲を押さえる者、縄を用意する者。
ラカッフェはそのまま、短刀とリオスの位置関係を確かめた。
少年が刃から距離を取っているのを見て、視線を一度だけ落とす。
そして、鎧の擦れる重厚な音を立てながら、リオスの前へ歩み寄った。
ラカッフェの硬い瞳が、リオスと視線を合わせる。
ドワーフと人間の子供ではさほど身長は変わらないが、拳一つ分、ラカッフェの目線が高い。
「君が、これを止めたのか」
声の調子は平坦だった。
顔に似合わず威圧する響きはなく、ただ事実を確認する響きだ。
リオスは短く頷いた。
ラカッフェはそれ以上を掘らず、周囲へ顔を向けた。
「見ていた者はいるか。何があったか、話を聞かせてくれ」
店主は震える脚で立ち上がり、通行人も路地の外から恐る恐るラカッフェに近づいた。
ユルルたちも互いの背に隠れながら、うなずき合う。
そのとき、床で呻き声が上がった。
意識を刈り取られていた獣人のリーダーが、重い瞼を開いた。
口の端から血の混じった唾が垂れ、石に赤い筋を引く。
衛兵の姿を認めた途端、彼は慌てて身をよじった。
「い、いてぇ……! なんだよ、俺たちはただの耐久テストを……!」
先ほどの詭弁を喉の奥から絞り出す。
「耐久テストだぁ?」
ラカッフェが低い声を落とした。
「破壊と脅しです」
リオスが短い言葉を継ぐ。
「彼らは店を荒らし、香油を故意に割りました。
その上、短刀を抜いて襲ってきました」
ラカッフェは遮らず、太い腕を組んだまま質問を投げる。
「誰が最初に手を出した」
「店で暴れたのは彼らです」
「刃物を抜いたのは誰だ」
「そこの男です」
ラカッフェは部下へ目配せし、書き留め役を呼んだ。炭筆が走り出す。
「店主殿。今の話は確かか?」
店主は喉を鳴らし、かすれ声で答えた。
「……はい。店で暴れだして、あれこれと壊されました」
通行人も続く。
「刃物も見えました。子どもに向けたのも見ています」
獣人のリーダーが叫ぶ。
「抜いてねぇ! 見せただけだ!」
ラカッフェは短く返した。
「見せた時点で脅しだ。黙ってろ」
ラカッフェは短く息を吐いた。
「なるほど。大体の構図は読めた」
彼は振り返り、部下たちへ顎をしゃくる。
「あの短刀を回収しろ。布で包み、証拠札を付けておくんだ」
衛兵が素早く動いた。
布が硬い金属を包み込む音が響く。
「店主殿。後で被害品目を聞かせてくれ。被害額も控える」
ラカッフェは一段声を落とし、震える店主へ告げた。
店主は何度も頷き、手の甲で汗を拭う。
「そこの連中を拘束しろ。息の根が止まってないか確かめろよ」
荒縄が投げ渡され、衛兵たちが獣人の腕を取り、縄を回した。
ラカッフェは再びリオスへ向き直った。
「相手が短刀を抜いた時点で、危険が成立する。君の制止行動は正当だ」
獣人のリーダーが喚こうとしたが、衛兵に肩を押さえつけられた。
「目撃証言もあり、凶器も残っている。過剰な私刑に問う材料はない」
ヴィーゼルが胸を押さえ、細い吐息を漏らす。
ユルルたちの肩から、張りつめた力が抜けた。
ラカッフェは眉を寄せ、リオスへ釘を刺す。
「次からは、まず衛兵を呼べ。
君が悪くなくても、怪我をすれば面倒になるぞ」
分厚い手が伸び、ずしりとした重みが少年の肩に乗った。
(……これで二度目だ)
リオスは内心で少しだけ反省した。
以前にも似たような注意を受けた記憶が蘇る。
ラカッフェは手を離し、部下へ声を張る。
「罪状は器物損壊、恐喝、および刃物による脅迫。記録を取れ」
書き留め役の炭筆が走り出す。
獣人たちは項垂れ、抵抗する気力を見せなかった。
ラカッフェは店主の傍へしゃがみ込み、懐から紙の束を取り出した。
「被害届の出し方と、補償の手続きだ。
今日中にこの書面を出してくれ。後日、証言の署名で詰所へ来てもらう」
店主は震える手で紙を受け取り、声にならない礼を繰り返しながら頭を下げた。
「よし、運べ」
ラカッフェの合図で、衛兵たちが獣人たちを立たせた。
荒縄が食い込み、男たちのうめきが漏れる。
列が整うと、路地の外へ向けて連行が始まった。
擦り傷だらけの下っ端が、衛兵に背を押されながら歩を進める。
口を結んでいたはずの唇がほどけ、不意に掠れた呟きがこぼれた。
「……話が、違うじゃねぇか」
誰にともなく吐き捨てる声。
湿った路地の空気に、その言葉だけが妙に残った。
ラカッフェの顔に変化はない。歩みを止めず、隣の部下へ短く命じた。
「そいつに水を飲ませろ。口を整えさせてから歩かせろ」
衛兵が水筒を差し出し、下っ端の顎を上げる。
喉が鳴り、列はまた進んだ。
リオスは、その後ろ姿を見送っていた。
(……話が違う?)
胸の奥に小さな棘が引っ掛かる。
鼓動の裏で、嫌なざわめきが育っていく。
ラカッフェは列の最後尾を見届けると、店先に残った部下へも手を振った。
「見物人を散らせ。店の入口は空けてやれ。ガラスの片付けは店主殿の指示に従え」
衛兵が「はい」と応じ、外の人波へ腕を広げて押し返した。
路地に漂っていたざわめきが、波が引くように遠のく。
店主は膝を抱えたまま、かすれ声で繰り返した。
「助かった……ありがとうございます……」
リオスは言葉を探さず、ただ頷いた。
ヴィーゼルが店主の肩へ手を添え、落ちた紙束を拾って整える。
ユルルたちは割れた瓶の跡を避け、壁際から一歩ずつ前へ出た。
甘い匂いに混じって、紙と汗と鉄の匂いが鼻を刺す。
外から差し込む光が、床の油膜に虹を落とした。
「今日は買い物は無理そうだね。
また、店が再開したら買いに来ようよ」
リオスが仲間へ短く告げる。誰も異を唱えなかった。
リオスは最後に短刀があった場所へ目を向け、もう空の地面を見てから、店を出た。




